月庵禅師仮名法語(十三)

〇 道漸居士に示す

 

 我が身は本来、実体はなく、ただ父母の縁によって四大(しだい)が仮に合わさって成ったまでです。四大とは地水火風です。地大というのは、髪や毛や爪や歯や皮膚、肉、筋骨、垢などの物体です。水大というのは、唾や涙や膿や血、その他の水分、痰、大小便などです。火大というのは、暖かみのこと。風大というのは、動く姿です。この四大が合わさって、その中に対象を認識する気があるのを思慮分別の心と名付けたのです。この四大が分離する時、水はもとの水に戻って五体は乾いて潤いがなくなります。火はもとの火に帰って全身が冷えて暖かみが消えます。風はもとの風に帰って全身はすくんで動きません。このようになってから焼いたり、あるいは埋めたりすればもとの土に帰ります。認識する心は、四大が分離するとき、一緒に散りじりになって消滅します。迷っている凡夫は、この四大が仮に合わさるのを本当に生じることだと思い、この四大がもとに帰るのを本当に滅することだと思っています。こういうわけで、生き死にがないところに生き死にを見、身心がないところに身心があると思って、自分というものにとらわれる心が深いのです。それゆえ輪廻する業の報いが絶えません。このことを悟る人は、四大の姿かたちは、空を舞う花のようなもの。あるように見えるといっても実体はありません。生死が去来するのもまたこれと同じです。一切の姿かたちは、夢まぼろしのようなものだと悟って、あらゆる事柄において執着の心がない。執着の心がなければ生き死にはたちまちに絶えて、輪廻は永遠に止みます。まずこのような道理をよくよく思い知って、坐禅探求をしてください。坐禅探求するとき、また他の心の用い方があるわけではありません。ただこれと言って慮る心なしで、直に行ってください。この時、取り付くところもなく、進む方向や場所もなく、道は絶えてしまい、進めないと思ってへこたれてはいけません。もし進む方向や場所があり、取り付くところがあるなら、それこそが生き死にの根本なのです。もろもろの道理を離れて、何ともかんとも慮ることができないところ、そこがすなわち生死を離れる時なのです。このようにそのまま信じて、生涯疑わず、探求し、心を用いるなら、生き死にがやって来る時、必ず力を得て、正念(しょうねん、正しい心の持ち方)に安住して終わるでしょう。このことに思いをかけなさい。