月庵禅師仮名法語(八)

〇  了仁居士に示す

 

 生死事大(しょうじじだい、生死の事は重大であり)、無常迅速(むじょうじんそく、無常は素早く到来する)、百年という月日も一回指をはじく間のように一瞬です。この身がむなしいものであることは、風が吹く前の塵、草葉の上の露と同じ、あるいはまた稲妻のひらめき、水の泡のようなもの、出る息、入る息を待つことはなく、今日とか明日とかと推測することも難しいのです。この間、たとえ栄華や富貴が思うままであったとしても、ただ昨日の夢のようなもので、長らく保つことはできません。今の世での楽は、必ず後の世での苦しみとなります。ひとときの楽を誇りに思って、永遠の苦しみを受けてはなりません。たまたま受けがたい人の身を受け、あい難い仏法にあって、仏道を求める心もおこさず、仏法をも悟らないのであれば、一度人の身を失ってしまえば長く地獄に沈み果ててしまうこと、悲しまずにおられましょうか。それゆえ昔の人が言うように、光陰矢のごとし、歳月人を待たず、この身を今の一生で救うことを目指さずに、いったいどの一生で救うというのか、と。もしこの身を救おうと思うなら、まず生死という重大事を明らかにしなければなりません。生死の重大事というのは、生まれてもそこから来たという所を知らないこと、これが生が重大だということです、死んでもどこへ去るかということを知らないこと、これが死が重大だということです。それゆえ生死が重大事だというのです。この生死が行き着くところを知らなければ、生まれ変わって何度世を変えても、真っ暗な所をさ迷い、茫漠とした苦しみの海に沈んで、六道輪廻の苦しみがやむことはありません。このようなことをまずよくよく思い知って、大いなる誓いの心を起こし、勇猛な志を推し進めて、生死の根源はいかなるものかと極め見なさい。生死の根源というのは、ただ自分が日夜に発する心の念なのです。そもそもこの心の念がいったいどこから起こり、またどこに去るのかと、少しも怠ることなく、真剣に目をつけて極め見なさい。ただ坐禅の時だけでなく、四六時中、一切の事をするようなときも、そのように志を忘れず、用心して見るのです。修行が熟せば、必ず大いに悟る時が来るでしょう。この時初めて知るでしょう。自分のこの心の想念は、もとより起こる所もなく、去る所もなく、とどまる所もないということを。生死もまたそれと同じです。生まれても、もとより来るところもなく、死んでも本当に去る所もなく、現在もまたとどまる所もありません。三世(過去・現在・未来)の心は捉えることができず、跡形もありません。このように明確に悟ることができれば、自分のこの身が衆生でもなく、仏でもなく、生じるでもなく滅するでもなく、始まりのない無限の過去から終わりのない無限の未来に至るまで、どんな姿もなく、どんな道理もない。これを一片々了々の田地(いちへんぺんりょうりょうのでんち)と言います(1)。この無心の境地に至ることができれば、一切の姿かたちを破ることなく、あらゆる道理を嫌うこともなく、縁に従い、物事に対応して、無限の働きをするのです。ここのところを、所に従って主となれば立所皆真(りっしょかいしん)、我れ法王となって法において自在なり、と言いました。生死の中に出入りして、ついに生死をうけず、苦楽の状況に対面して、また実際の苦楽がありません。このように大安楽、大解脱の身となるはずの事を知らず、ただ何ということのないことを考え、振舞って、無駄に月日を送り、むなしくこの身を捨ててしまう事は、本当に憐れむべき者です。必ずこのような事をよく思い知って、自分の心の師となって、自分の心に基づかずに、常日ごろ我が身をいましめ、辱めて、綿密に用心しなければなりません。後悔を残してはいけません。心しなさい、心しなさい。

 

(1)一片々了々の田地:出所不明。その都度都度の現実に法体が明々に表れていることを言ったものか。