八十七、 たくさん人を使う人に
身を思う人をあたりへ近づけな
主(ぬし)も親をも殺すものなり
(自分の身を思う人を近辺に近づけるな
主人も親をも殺すものである
八十八、 慈悲について尋ねた人に
思い立つ慈悲をわが身に破られて
畜生となる後いかにせん
(思い立った慈悲を自分の身に破られて
畜生(動物)となってしまってからどうするのか)
八十九、 臨済禅師のおっしゃった「聞くもの」*について
耳も聞かず心も聞かず身も聞かず
聞くものの聞くをそれと知るべし
(耳が聞くのでもなく心が聞くのでもなく身が聞くのでもない
聞くものが聞くのをそれだと知りなさい)
*「聞くもの」:臨済禅師の説法で、仏とは「即今聴法底の人」(たったいま仏法を聞いているもの)がそれだ、というもの。『臨済録』。
九十、 ある人に
おのが身にばかさるるをば知らずして
きつねたぬきを恐れぬるかな
(自分の身にばかされていることを知らないで
狐や狸をおそれていることだよ)
九十一、 法師に
おのが身の仏とならで説く法は
地獄へ落ちて友を呼ぶなり
(自分の身が仏とならずに説く仏法は
地獄へ落ちて友を呼ぶのである)
[「仏とならで」は別の本では「仏にならで」となっている]
九十二、 生死即涅槃*
生き死にも知らぬところに名をつけて
涅槃と言うも言うばかりなり
(生き死にも知らないところに名前をつけて
涅槃と言うのも、ただ言うだけのことである)
*生死即涅槃:生死(しょうじ)は生まれて死ぬ衆生のありさま、涅槃(ねはん)は生死を越えた仏の境地。生死即涅槃は、生死がそのまま涅槃であるということ。
九十三、 煩悩則菩提*
善し悪しをするに障りはなかりけり
本来空の物にまかせて
(善悪のことをするのに妨げはない
本来空のものにまかせればよい)
:煩悩即菩提:煩悩(ぼんのう)は衆生の悩み苦しみ、菩提(ぼだい)は仏の悟りの境地。煩悩即菩提は、衆生の悩み苦しみがそのまま仏の悟りと異ならないということ。
九十四、 応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)*
住む所なきを心のしるべにて
そのしなじなにまかせぬるかな
(とどまる所のないのを心の手引きとして
そのときのそれぞれの事柄にまかせているのである)
*応無所住而生其心:『金剛般若経』の言葉。「まさに住する所無くして、その心を生ずべし」。中国六祖、慧能禅師はこの語を聞いて悟ったと伝えられる。
九十五、 仏陀の成道*
いまよりはただ一つなる心にて
よろずの物のぬしとなりけり
(今からは、ただ一つの心となって
あらゆる物のぬしとなったのである)
*仏陀の成道:お釈迦様が明けの明星を見て悟りを開かれたこと。
九十六、 大道の極意を詠む
ことごとく死人(しびと)となりてなり果てて
思いのままにするわざぞよき
(ことごとく死人となってなり尽くして
思いのままにする行いがよいのである)
九十七、 草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)*
草木も国土もさらに無かりけり
仏というもなおなかりけり
(草や木や、国の大地もまったく無い
仏というのもやはり無いのである。それで成仏である。)
*草木国土悉皆成仏:草や木や国土もすべて成仏する、という意味の言葉。もともと、「一仏成道 観見法界 草木国土 悉皆成仏」とつながる。「一つの仏が仏道を達成して世界を見るとき 草も木も国土もすべてが成仏している」。文言は9世紀の天台僧、安然に由来するという指摘があり、思想そのものは華厳経に由来するか。
九十八、 お経を読んで仏になろうと思っている人に
一切の経は仏の教えなり
坐禅はじきに仏なりけり
(すべてのお経はお釈迦様の教えである
坐禅は直接、仏である)
九十九、 つとめて書物を読む人に
死して後しみ*となるべきしるしには
文字に思いを深くそめけり
(文字に深く思いを入れているのは
死んで後にきっと紙を食べる虫となる印であるよ)
*しみ:和紙を食う小さい虫。
百、 無難の常日頃を問う人に
月も月花もむかしの花ながら
見る物の物になりにけるかな
(月も月、桜の花も昔の花のままであるが
見る物のその物になってしまったことだよ)
百一、 無題
仏道に入らんと思う人はまず
身より敵(かたき)はなしと知るべし
(仏道に入ろうと思う人はまず
わが身よりほかに敵はないと知りなさい)
[別の本ではここに一首多く入っている]
百二、人の身の消えはつる時天地(あめつち)と
一つになるを道心と言う
(人の身が消え果てる時に天地と
一つになることを道心と言う)
百三、無しと言えば有るに迷える心かな
それをそのままそれと知らねば
(無いと言えば有るに迷ってしまう心であるよ
それをそのままそれだと知らなければ)
百四、仏はと尋ぬる声を聞くときは
耳もけがるる心地こそすれ
(仏とは何かと尋ねる声を聞くときは
耳も汚れる心地がするのである)
百五、本来は確かに無きと知る人の
何のためにか身は残るらん
(本来は確かに無いと知っている人の
身が何のために残っているのであろうか)
百六、十悪*に五逆**の罪を作りそえて
地獄の窯の底は抜けけり
(十悪に五逆の罪を作り添えて
地獄の窯の底は抜けてしまった)
*十悪(じゅうあく):身(しん、身体)口(く)意(い)三つが作る十種の悪。 殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)の「身三」、妄語(もうご)・両舌(りょうぜつ)・悪口(あっく)・綺語(きご)の「口四」、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じゃけん)の「意三」を合わせて言う。
**五逆(ごぎゃく:五種のもっとも思い罪のこと。父を殺す、母を殺す、悟りを開いた阿羅漢を殺す、僧の間の調和を乱す、仏を傷つける、の五つ。
百七、老僧が思い出とてはこればかり
見る事もなし聞く事もなし
(私の思い出といってもこれだけだ
見ることもないし聞くこともない)
[別の本では「こればかり」は「ただこれよ」になっている]
百八、万法は只一如*なる法の道を
迷いて立つる宗旨なりけり
(あらゆる仏法はただ一如である道を
迷ってさまざまな宗旨を立てているのである)
*一如(いちにょ):一体でありのままの真実。
百九、仏道に隔つるものはなかりけり
よきもあしきもわがあらばこそ
(仏道に分け隔てするものは何もない
善いも悪いも自分というものがあってのことだ)
[「わがあらばこそ」は別の本では「我あらばこそ」となっている]
百十、親しみの過ぎるところにあやまりは
必ずいづるものと知るべし
(親しみが度を過ぎたところに間違いが
必ず出るものと知りなさい)
百十一、何事も道をば道にたておきて
心の慈悲に行いて知れ
(何事でも道と言われるものは道中に立てて置いて
慈悲の心で行いをすることでそれを知りなさい)
百十二、いくたびも我が身のとがを改めよ
身より敵(かたき)は他になきなり
(幾度も幾度も自分の身の過ちを改めなさい
我が身より他の敵はないのである)
百十三、心得し道に使えば使う人の
誤ることは常に無きなり
(人がよく心得た道に使えば、使う人が
誤るということは常に無いのである)
百十四、生き死にを逃れ果てずばもののふの
道も必ず誤ると知れ
(生き死にを逃れ果てなければ武士の
道も必ず誤ると知りなさい)
ある寺働きの子供が頼まれたのでこのように書いて送るのである。
江戸小石川戸崎町
至道庵蔵版
[東北寺所蔵写本には左(以下)の三首が多く入っている]
百十五、 欲深い人に
凡夫めらあまりに物な欲しがりそ
我が身さえ我がものにならぬぞ
(凡夫たちよ、あまりにものを欲しがってはならない
我が身さえ自分のものにならないのだ)
百十六、 人が苦しむ時、家は滅びるのである
かりそめも人の苦しむ事をせば
家の滅ぶる印なりけり
(ほんの少しでも人が苦しむ事をするなら
家が滅びる印である)
百十七、世の中を逃れて見事なるものは
坊主と色と欲となりけり
(世の中をすっかり逃れ去って見事なのは
坊主とその情欲であるよ)
(終わり)