永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(八)

〇 大徹

 

大徹(だいてつ)というのは次のようなことである。常日頃の心の在り方が霊妙であり、あらゆる物事が明白で、物事に妨げられることがなく、一切に透徹していることは、傷のない宝玉がよく物を透し、すべての現象を映し出すようなものである。それゆえ、自分の心の宝玉が、煩悩という瑕がなく、虚妄の姿があらゆる世界に映っては消え去るが、心の本性は霊妙でまったく透過しないということがない。それゆえ自分の心の有り様を指して大徹というのである。我々衆生は、心の宝玉に移り来たり移り去り、虚妄の姿のあらゆる世界の姿形に動転し、心の働きはしばしば暗い所から暗い所へ入り、苦しみから苦しみへ入る。ただ願わくば、仏道を学ぶ人は、虚妄の姿に留まって、あらゆる想いを生じさせてはいけない。姿形の有るところに念をとどめて執着の姿をなしてはならない。念に留まって心を求めず、虚妄をも除かず、真実をも求めてはならない。また、ひたすら無念無想になれと言うのではない。念はあっても念に執着するな。姿形であっても姿形に執着するなという意味である。このように納得して、一念も生じないところを行ずるのを大徹の人と言うのである。納得できないと思うなら、見なさい。大いなる虚空に風が吹いたとしても、いまだに虚空が破れ去ることもないことを。

 

〇 本来の面目

 

本来の面目(めんもく)というのは、威音劫(いおんごう)以前の心の本性、父母未未生以前(ぶもみしょういぜん、自分の父も母も生まれる前)の真実の霊妙なる心である。威音劫以前というのは、天地がまだ開けない前を指すのである。父母未生以前とは、父母の体内に宿らない前のことである。威音劫以前父母未生以前の心霊を、三世の諸仏もいまだお説きにはならず、歴代の祖師もいまだ伝えられてはいない。なぜそうなのかと言えば、威音劫以前の心の本性というものもなく、父母未生以前の真実の霊妙なる心という心もない。それゆえ諸仏の心といって、別に衆生の心のほかにないのであるから、これを諸仏の心、これを衆生の心という各々別の心はないので、諸仏もお説きにならないというのである。喩えれば大海の水、小さい河の水と言って、いれ物は別であるけれども、水の本性は同じようなものである。祖師の一念不生の心と我々の思慮分別の妄想の心と微塵ばかりも分け隔てはないのであるから、祖師もお伝えにならないと言うのである。喩えるなら山の峰と平地のようなものである。高い低いの名前は違っていても、土の本性はまったく一つであるようなものである。それゆえ金剛経には、過去の心も捉えられない、現在の心も捉えられない、未来の心も捉えれない、と説いている。私たちの心の本性は、もとより過去現在未来の三世に渡る心だというのだが、別に三つの本性は無いのであるから、三世不可得(さんぜふかとく、過去現在未来いずれも捉えれられない)というのである。三世の道理を知らずに、三界(さんがい)*に深く沈みこんで様々な苦しみを受けるのである。三世不可得の心を悟ることを、本来の面目を悟ると言うのである。そのものの心は、もとより不生不滅(うまれず、ほろびない)であり、この心はまったく本来の面目である。この心がまさに威音劫以前の心である。この心をはなれて別に求めてはならない。もしこの心を離れて別に求める者は、喩えるなら身体を離れて名前を求め尋ねるようなものである。このように説いても、本来の面目に立ち返らないというのであれば、見るがよい。昨日出た太陽も今日出た太陽も、夜を隔てているとはいえ日輪に変わりはないということを。

 

*三界:欲界、色界、無色界の三つ。