(続)法華宗で[南無妙法蓮華経の]妙の字を説明するときには、妙とは心であると言う。このように心得れば、唱えなくとも常に念仏し、修行を行わなくとも自然と極楽の衆生である。これは教家*の言うところである。もし教外別伝**ということになれば、鏡もそこに映る姿も打ち砕いて、すべて六識***でする考えを絶し、迷いと悟りの区別をなさず、念は有るなら有ればよし、無いなら無いでよし、それにもかまうことなく、是非を思わず、是非を離れず、ただ師の示した一句を離さず、確かに[公案を]透過しようと努めるのである。その一句というのは、例えば師が授けて次のように言う。「父母未生以前の本来の面目、一句に答え来たれ(父母が生まれる前のお前の本来の姿について一言いってみよ)」と。これに答えようとすると、心や意識を働かせて思案することはできないし、それを離れて思案することもできない。道理をもって答えることはできないし、道理を離れて答えることもできない。ただ問えば答えるだけである。鐘を打つと鐘が木に従って鳴り響くようなものであり、名前を呼ばれて名前に従って返答するようなものである。素質の優れた者は、一句を与えればたちまち答える。素質の優れないものでも、半年、一年、十年、二十年と退かず辛苦すれば、ついには透過しないということはない。古人が言うには、敵に向かってたった今勝負を決めようとするようにせよ、毒矢が胸にささっているが如くにせよ、胸のうちにひとかたまりの火が燃えているようにせよ、父母を一度に亡くしたかのようにせよ、百万貫****の借金をして支払う方法がなく恥辱を与えられているが如くにせよ、と。このようにすれば、必ずわずかでも会得することがあるはずである。公案は全部で千七百あると言うけれども、山河大地、草木樹林、目に触れ耳に聴くもの、すべて公案でないということはない。この禅宗においては三重の道理があり、いわゆる理致、機関、向上というのがそれである。初めの理致というのは、諸仏の教え、並びに祖師がお示しになった心の本性などについての道理を言う言葉である。次に機関と言うのは、諸仏や祖師が本当に慈悲を発揮されて、いわゆる鼻をねじり上げ、目をパチパチ瞬かせ、とっさに泥牛飛空、石馬入水(泥の牛が空を飛ぶ、石の馬が水に入る)などと言ったりするのがこれである。後の向上というのは、仏や祖師が直に説いたところ(仏祖直説)、様々な物事がそのまま真の姿であること(諸法実相)など、すべて異なることはない。いわゆる天はこれ天、地はこれ地、山はこれ山、水はこれ水、眼は横で鼻は縦など、これである。そうはいってもこの三句を会得して通過することは難しく、ある者は理致に留まって知的理解を生じて言葉で説かれた文字の意味を理解し、ある者は機関に従って茫然として疑いを破ることができないまま、ひとえに働きに留まってしまい、ある者は向上に落ち着いて物事すべてそのまま真理だという見解を起こして無事甲*****(何事も無いという殻)の中に落ち込んでしまう。そうは言っても、時節因縁(じせついんねん)が到来して、三句を透過する者も多い。たとえ納得できない者でも、寝ても覚めても、立っていても座っていても、専心に眼を付けて、心をゆるさずに行ずるのがよい。そのようにするならば、遂には獲得しないということはない。仏法の心得は、他の事を思ってはいけない。ただ志の無いことを嘆くべきである。大賢者は言っている。初めて道に入ることは常に難しいものであり、難しいからといって退いてしまっては、一体いつ獲得できるというのか。たとえ獲得できずとも、そのように嘆いて亡くなるとすれば、臨終のときには獄卒(ごくそつ:地獄の悪鬼)の杖に打たれるはずもない。一念一念相続して般若の工夫(真如そのものである実践)を続ければ、どうして空しいことがあろうか。次の生には必ず大事を成す(修行を完了する)はずである。
*教家(きょうけ):教義を説く諸宗のこと。禅家(ぜんけ)に対比して言う。
**教外別伝(きょうげべつでん):仏法の真理は教義の他に伝えるものであることを言う。禅宗は「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を標榜すると言われる。
***六識(ろくしき):六種類の認識のこと。眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六つ。
****貫(かん):昔の重さ、金額の単位。一貫は100両。
*****無事甲(むじこう):何事も無いというカブト。虚堂録に出る語。虚堂智愚(1185-1269)は、中国・南宋時代に活躍した禅僧で大応国師の師。元は、大慧宗杲(だいえ そうこう、1089年~1163年、中国の宋代)の語録に出る。大慧禅師はいわゆる無字(むじ)の公案にちなんでこの語を出しているので、「むじこう」と読まれているが、臨在禅師には「無事(ぶじ)これ貴人」などの語もあり、ここでも意味上は「ぶじこう」と読んでもよいように思われる。