至道無難禅師「無難禅師道歌集」(2)

十六、   道を問う

   鶯の子はまがいなきホトトギス

   何とて声の別に鳴くらん

  (鶯の子はまぎれもなくホトトギスである*

   どうして別の声で鳴いているのであろうか)

ホトトギスは自分の卵を鶯の巣に産んで鶯に育てさせる習性があることを言う。

 ここでは、苦しみに泣く衆生が仏の子であることを言ったものか。

 

十七、   大いなる仏法を理解できても実践しない人に

   説く法に心の花はひらけども

   その実となれる人はまれなり

  (説法で心の花は開いても

   その実となる人は稀なのである)

 

十八、   ある人に

   たちまちに死に果てて見る心こそ

   かりに仏と名は付けにけれ

  (実際に死に果ててものを見る心こそ

   仮に仏と名付けたのである)

 

十九、   坐禅

   生きながら畜生となる印には

   坐禅の床に居られざりけり

  (坐禅の床にとどまっていられないのは

   生きながら動物となっている印である)

 

二十、   同じく

   生きながら仏となれる印には

   坐禅の床に居らぬなりけり

  (坐禅の床に居ないというのは

   生きながら仏となった印である)

 

二十一、  同じく

   せぬ時の坐禅を人の知るならば

   何が仏の道隔つらん

  (していない時の坐禅ということを人が知るならば

   いったい何が仏の道を隔てることがあろうか)

 

二十二、  常に慈悲を行う人は家が富み、子孫が栄えるのである

   仏とはただかりそめの名なりけり

   慈悲は仏のかたちなりけり

  (仏というのはただ仮の名前であるよ

   慈悲は仏の姿なのだ)

 

二十三、  儒教の人に

   主(ぬし)に忠親には孝をなすものと

   知らでするこそ誠(まこと)なりけれ

  (主君に忠実に仕え、親には孝行をするものと

   知らないで行うことこそ誠の道であるよ)

 

二十四、  仏を問う

   いかにせん我さえ知らぬ物なれば

   人に教えむ言の葉もなし

  (どうしようか、自分でさえ知らないものであるから

   人に教える言葉もないのである)

 

二十五、  無題

   身のとがはそのしなじなに変われども

   色と欲とを根本と知れ

  (身の過ちはいろいろと種類が変わるが

   色事と欲が根本だと知りなさい)

 

二十六、  悟りの道を詠めと言った人に

   教えにもならいにもなき道なるに

   誰(た)がまことより知りそめにけん

  (教えにも世間の定めにもない道であるのに

   いったい誰が真実からこれを知り始めたのだろうか)

 

二十七、  無一物になると馬によく乗れると言う人に

   法(のり)の道は畜生までも移るなり

   何とて人はよそに見るらん

  (仏法の道は、動物にまでも移るものである

   どうして人はよそ事と見るのだろうか)

 

二十八、  儒教の仁の道についていろいろと語る人に

   一物もなき所より見るときは

   主(ぬし)にはおそれ親は尊し

  (一物もない所から見るときは

   主君には恐れ慎み、親は尊いものである)

 

二十九、  身を捨てることを知らない人に

   心にはたしかに入りし法の道を

   いくたびけがす我が身なるらん

  (心では確かに入った仏法の道を

   いったい我が身で何度けがすのであろうか)

 

三十、   道人といっても普通の人と変わらないと言った人に

   色好む女なりとも法の師に

   向かえば消ゆる時を知るべし

  (色事を好む女でも仏法の師に

   対面すると情欲が消える時があることを知るだろう)

 

三十一、  ある人に

   地獄餓鬼畜生修羅は世の中の

   凡夫の常の住みかなりけり

  (地獄、餓鬼、畜生、修羅*は世の中の

   凡夫**が日ごろ住んでいる所なのだ)

*地獄、餓鬼、畜生、修羅:輪廻転生する六つの道の四つ。あとは人間、天上。

**凡夫(ぼんぷ):仏法を知らない普通の人。

 

三十二、  罪を苦しむ人に

   思うままにこの身に罪を作らせて

   地獄の中へ突き落すべし

  (思うままにこの身に罪を作らせて

   地獄の中へ突き落しなさい)

 

三十三、  本来の所を確かに知らせるために

   おのずからただ何もなき所には

   ただそのままをそれと知るべし

  (おのずからただ何も無い所には

   ただそのままをそれと知りなさい)

 

三十四、  仏道を聞いていろいろ苦しむ人に

   物事にまかせぬる身はやすきなり

   我にまかする時ぞ苦しむ

  (物事にまかせている身は安心なのである

   自分にまかせる時に苦しむのである)

 

三十五、  悟りを知らないで山に入ろうという人に

   悟りをも開かで山に入る人は

   けだものとなる印なりけり

  (悟りを開かないまま山に入る人は

   けだものとなる印なのである)

 

三十六、  いずれ人の師ともなるべき人に

   修行者は男女のなかを遠ざけよ

   火には剣(つるぎ)もなまるものなり

  (修行者は男女の仲を遠ざけなさい

   火には剣もなまってしまうものだ)

 

三十七、  僧衣を着る人は自分の過ちを知りなさい

   身のとがのそのしなじなは消ゆれども

   色を好むは消えぬものなり

  (身の過ちのいろいろなものは消えるけれども

   色事を好むことは消えないものである)

 

三十八、  知らないで仏法を説く人に

   おのが身のとがをも知らで説く法を

   聞き得る人も同じ畜生

  (自分の身の罪をも知らないで説く仏法を

   理解できる人も同じ畜生である)

 

三十九、  はじめて仏法に近づく人に

   身のとがをおのが心の知る時は

   仏とならんしるべなりけり

  (自分の身の過ちを自分の心が知る時は

   仏となる手がかりなのである)

 

四十、   いずれ人の師となるだろう僧のあやまちを詠んだ

   無一物となりぬる時は何事も

   とがにならぬと見るぞ苦しき

  (無一物になった時は何事も

   罪にならないと思うのはいけない)