老いの波が打ち寄せて来て、世間でも稀な年齢になった。夜、灯火のもとで昔のことを思い起こすと、私の友人は世を去ってもはや一人もいない。今夜にでも私もそうなる身の上であろうか。多くの人を見聞きしてきたのでその事を書き付けました。言葉の足りないのはお許しください。
一、鳥や獣に生まれ変わり、永遠に浮かばれる事がないのは、僧や尼僧の情欲である。
一、ある人が大法(だいほう、大いなる仏の教え)について尋ねた。私は、人の本心について教えた。また尋ねた。それをどのように養ったらいいでしょうかと。私は言った。悟りは世界に替えるもののない宝である。養うのは、あなたの心次第である。
一、門弟に向かって言った。身は大敵である。少しのあいだでも油断してはいけない。
一、お金は、飢えや寒さの心配をなくすためにある。悟りは身の悪を消し去るためである。
一、ある人が尋ねた。悟りをどのように人に示しますか、と。私は言った。目を開かなければ何事も見えない。悟らなければ仏性(ぶっしょう)*は現れない。
*仏性(ぶっしょう):仏である本性。お釈迦様が悟りを開いたとき、「一切衆生悉有仏性(いっさいの生きとし生けるものは、ことごとく仏の本性をもつ)」と言われたという。
一、或る人が尋ねた。昔から今に至るまで、得るのが難しいのは悟りだと言われます。どのようにして悟るのでしょうか、と。私は言った。六祖大師のもとに四十人あまり、馬祖大師*のもとに百三十人あまり、深く悟った人がいた。その人がまた尋ねた。悟りとはどのようなものか。私は言った。本心のことである。また尋ねた。本心とはどのようなものか。私は言った。無一物(むいちもつ、何も無い)だ。又尋ねた。無一物とはどのようなことか。私は無言であった。
*馬祖大師(ばそたいし):馬祖道一(ばそどういつ)禅師(709年~788年)。重要な祖師の一人。
一、凡夫は因果*の定めを知らない。悟ればそれで因果のことわりを知る。修行をして因果を離れる。
この国(日本)は聖人の統治した時代から随分隔たってしまった。しかし今すでに聖人の世となっている。このような時に生をうけることは、たいへん有り難いことである。
*因果:原因と結果のつながり。善なる原因が善なる結果をうみ、悪なる原因が悪なる結果をうむという善因善果・悪因悪果の思想は、仏教以前のバラモン教にもあり、それが仏教に流れ込んでいる。
一、ある人が言った。聖人の世だという印として人がうなずくような何かがありましょうか。私は言った。仏道に人の心が向かうこと、たいへん尊いことである。三事相応(さんじそうおう):といって、私事を越えた事柄がある。
:三事相応(さんじそうおう):三つの事柄が合致すること。
一、第一に、天下の君主が聖君となって、国を取り巻く状況が平和であること、これが一つである。世界が平和でも、人々の身が穏やかでなければ仕方がない。今幸いに、私の友人たちは平安である。これが二つ目。仏道の教えはいろいろであるけれども、正法(しょうほう、ただしい根本の教え)は人の心である。これは釈迦如来が直接お説きになったものである。この三つの事柄が合致していることは、昔から今に至るまで例のないことである。
一、ある人が、「唯有一乗法、無二亦無三(ゆいういちじょうほう、むにやくむさん)」*について尋ねた。私は言った。一乗法というのは、妙(みょう)のことである。妙というのは、心のことである。心は無一物である。無一物は天地の姿である。天地は姿なきものである。無二亦無三は、言葉が寄り付けないということである。
*「唯有一乗法、無二亦無三(ゆいういちじょうほう、むにやくむさん)」:法華経に出てくる文言。ただ一つの真理があるのであって、二つや三つやあるのではない、という意味。
一、ある人が尋ねた。五戒*を守るのは何故でしょうか、と。私は言った。殺生しない、盗まない、姦淫をしない、嘘をつかない、酒を飲まない、の五つである。これはすべて、身にある罪である。悟れば無一物である。
*五戒:戒は戒律で僧や信者が守るべき決まりのこと。五戒はそのうちの最も重要な五つ。
一、ある人が、五臓(ごぞう)*について尋ねた。私は言った。五臓を五知**の如来と名付け、六腑(ろっぷ)***を六地蔵****と名付け、七情*****を過去の七仏******と名付けるのである。本心は、このように動き働く。
**五知:五智に同じ。密教で如来のもつ五つの知恵を言う。法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智。
****六地蔵:地蔵菩薩の六つの分身で、輪廻の各世界で衆生を救う。
*****七情:人間の七つの感情。喜、怒、哀、楽、愛、悪(お)、欲。
******過去七仏:釈迦如来がこの世に出る前に成仏したと言われる七人の仏のこと。
一、ある人に言った。仏とは心である。地獄は身である。身の悪を仏にさらしなさい。身の悪が消えるとき、清らかになるのである。
身の業の尽き果てぬればいさぎよき
こころのままの仏なりけり
(身の業が尽き果ててしまえば、いさぎよい
心がそのまま仏なのである)