至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(3)

 真実にかなった問いをした人がいた。私は教えて言った。その問う主(ぬし)は誰か。彼は言った。知らない。私はまた問う。その知らないものは誰か。彼は言った。何も無い。また言う。いろいろと変わるものは誰か。彼は言った。もとは何も無いものである。私は言った。外には仏はない。それがすなわち仏である。仏とは無いものの名である。

 

 昔、臨済禅師の絵を持って来たので、私がその上に書いた。

  己めが破戒の比丘(びく)となる事は

  仏祖を殺す報いなりけり

 (自分が戒律を破る僧となる事は

  お釈迦さまや祖師がたを殺す報いなのである)

と詠んだのである。

 

 どうして世の人は、こんなにまで迷っているのだろうか。自分の手足を動かし、ものを言わせ、自分の身の主(ぬし)を見れば、これと言って何も無いものである。

 

 自分がたいへん若いとき、ある姿のかわいい稚児の傍で過ごしている時、心のうつることを確かに覚えたので、迷いということをよく知ったのである。

 

 たいへん美しい女の傍にいて、何とも思わなければ、悟りということをよく知ったのである。

 

 ある人が、本来は迷いも悟りも無いと言ったことを、今よく思い当たったことである。

 

 心経(しんぎょう)*に魔訶般若(まかはんにゃ)**と言っているのは、身を無くしてあらゆる事柄に対応することだというのを、今よく知ったのである。

*心経:般若心経のこと。

**魔訶般若:魔訶は「大いなる」般若は「知恵」

 

 修行をする人は、第一に身の業を消し去るのだということを、今よく知ったのである。

 

 修行者は、身を痛めつけるということを、今よく知ったのである。

 

 天下国家を治める人に仏法を教えよということを、今よく知ったのである。

 

 天下国家の主(ぬし)は、主(ぬし)であるということ、今よく知ったのである。

 

 時が到来する、到来しないということ、今よく知ったのである。

 

 報いがあるということ、今よく知ったのである。

 

 たとえば自分の子どもに教えて、主人によく仕えなさい、人の悪口を言うな、あらゆる事の道理をよくわきまえなさい、というばかりである。愚かなことである。仏法の大道に至る人は、人の悪も善も言う事がない。君主に仕え、親に孝行をするものである。あらゆる事柄を聞いて、人はただ平常の心を知らせたいものである。何もなくなれば、何を言うこともないものである。常に賢そうな人は、胸がつかえるほど人の良し悪しを知るので、言うまいと思っても、その心に押さえているので、やはり言ってしまい、また言葉をうまく添えるので、人を大悪人としてしまう。このようなわけで、世の人は交わりを正しくすることができないのである。情けないことである。

 

 ある法師が「即心即仏」*について尋ねた。私は言った。詮索の外。

*即心即仏:『無門関』第三十則。仏とは何ですかと尋ねた僧に対して馬祖道一(ばそどういつ)禅師の言葉。「その心がそのまま仏である」。また、あるときの答えは、次に出る「非心非仏」(心ではない、仏ではない)。

 ある人が「非心非仏」について尋ねた。私は言った。詮索の外。

 詮索の外とはどういうことかと尋ねる。私は言った。詮索の外。また尋ねる。私は棒で叩く。彼は理解しなかった。

 

 山に住む人が来て話すのを聞くと、なかなか世間を見下して、高くとまっていること甚だしい。

 ある寺に住む法師が話すのを聞くと、低劣で話にならない。

 とかく、人が成就できない仏道である。ある人は高く、ある人は低い。本来無一物を知らない。

 

 ある人が、男女の交わりを忌み嫌った。私は言った。仏道ではない。男女は交わるものである。

 ある法師が来て、大道人は、男女の交わりに関わらないと言う。私は言った。自分の道でないことを言ってはいけない

 

 妙心寺の関山国師*は、公案一則で仏道を悟ったが、今三百則を越えさせるとは、どのようなことなのかと尋ねた人に、私は言った。朝夕、米を食べているがその味を知る人は稀である。もし知る人がいれば、食べない人である。

*関山国師妙心寺の開山、関山慧玄(かんざんえげん)禅師(1277年~1361年)。大燈国師につき、「雲門の関字」の公案で悟る。

 

 ある夕暮れに、たいそう寂しい感じであったが、鐘の音が響いたので、ふと心を動かされて、

  慣れて聞くこの夕暮れの鐘の音も

  思えばいつの別れとかせん

 (聞きなれたこの夕暮れの鐘の音とも

  思えばいつ別れがくるというものだろうか)

 世の中の無常を思えば、この夕暮れも惜しむべきであるのは、道理であることだ。

 

 世間の身分の高い人、低い人が集まって仏について尋ねたので、手を打って、この音を聞くのは一つである。どうして各々の身分が高い低いということで変わりはあろうか、と問うと、それでは身を思えば高い低いが分かれる、身を知らないときは隔てはないと言った。また私は言った。その隔てない所を知るものは誰か。集まっている人のなかで、ただ一人、「今日もまた日暮れになった」と言う。