至道無難禅師「即心記」(8)

[寛文十一年版にはここに即心記(下)という標題がある]

 

    ある人が仏道について尋ねたので答えて

  松風を麻の衣に綴じ付けて

  月を枕に波のさ筵(むしろ)

 (松を吹く風を粗末な麻の衣に綴じつけて

  月を枕にし、波を筵にして寝る)

  仏はと問えば迷わぬ人ぞ無き

  己が心と知る人もがな

 (仏とは何かと問えば迷わない人はいない

  自分の心がそれだと知る人がいてほしいものだ)

  法(のり)の道深く尋ぬる人あらば

  浅き所に残る物なり

 (仏法の道を深く尋ね求める人がいるならば

  その人は浅い所に残っているものなのだ)

 

    法語

一、身のほかは仏である。譬えるなら虚空のようなものだ。そうであるがゆえに、位牌の上に帰空(きくう)と書くのである。

 

一、常に何も思わないのは、仏の稽古である。

 

一、何も思わないものから、何もかもするのがよい。

  

  生きながら死人(しびと)となりてなり果てて

  思いのままにするわざぞよき

 (生きながら死人となり尽くして

  思うままに行う行いこそ善いものである)

  諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽*、これがこの和歌の心である。

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめっぽう しょうめつめつい じゃくめついらく):涅槃経に出てくる俗に諸行無常偈と呼ばれる詩句。「もろもろの物事はとどまるものではない。これは何かが生じたり、また滅したりする姿である。この生じるとか滅するとかそのものが滅しおわったとき その寂滅=涅槃は真の安楽である。」

 

    神道について問う人に

一、高天原(たかまがはら)は、人の身である。神がとまるというのは、胸のうちがすっきりと明らかであるのを言う。

 

  儒教の道を問う人に

一、天命、性と言う。身のほかは天である。胸のうちに何も無いのは、天より命じているというのである。それをすなわち性と言う。この性に通りに行うのを道と言うのである。

 

  仏道を問う人に

一、身をなくすことである。身に八万四千の悪がある。身が無ければ大安楽である。そのまま神である。直に天である。仏教では仏というのである。

 

  出家精進を問う人に

一、出家して僧となり、精進する*のは何故かと言えば、五辛(ごしん)**酒肉によって血気が盛んになるので、胸の内が清らかにならないから、それを避けるのが第一である。有情(すべての生き物)は我が友であること、これが第二。君臣父子夫婦兄弟盟友(主君や臣下、親子、夫婦、友達)の誰かが魚や鳥に生まれ変わっているかも知れない。こうしたことから五辛酒肉を避けるのである。

*精進(しょうじん):修行に励むことであるが、ここでは、肉や魚、辛い物など食べ物を制限すること。精進料理を食べること。

**五辛(ごしん):仏教で食べるのを避ける五種類の辛味のある食物。にら、ねぎ、にんにく、らっきょう、はじかみ。

 

一、ある人が民衆を手なずける事を尋ねた人に答えて言った。喉が渇いた人には水を与え、寒い人には衣服を与え、飢えた人には食べ物を与えれば、民衆はなつくでしょう。

 

一、少将でいらした人が、厳子(げんし、他家の息子)に領地を譲られたとき、

   第一 慈悲

   第二 無欲

   第三 万依怙無く(よろずえこなく、何事についても不公平のないように)

 この三語で国を治めなさいと言われた。ものを読まなくとも、心の真実を明らかに理解されていた印である。

 

一、釈迦に釈迦はなく、仏法はなく、教えはなく、決まりはない。

  ここを「妙(みょう)」と名付けて妙法を説き、

  阿字(あじ)と名付けて真言を説き、

  仏と名付けて阿弥陀経を説き、

  四十九年一字不説(しじゅうくねんいちじふせつ)*とおっしゃった。根本において何も無いからである。元来、このところは言葉で言うことはできない。それだから、この一字のことは説法なさらなかった。これを会得するのを禅というのである。

*四十九年一字不説(しじゅうくねんいちじふせつ):普通の解釈では、「お釈迦様はその49年に及ぶ生涯のあいだ、一文字も説法されなかった」と理解する。しかし、文脈からするとここで禅師は、「妙」「阿」「仏」といった一字、これはいずれも仏法の根本を表すものだが、この一字は言葉で説明できないものなので、お釈迦さまは生涯のあいだこれについて説法されなかった」と読んでいるようにみえる。

 

一、仏道を修行する人で、それを理解する人はいても、千万人に一人も、それを自分のものにする人はいない。自分のものにする人がいても、それを捨てる人はいない。

 

一、大名や高家(こうけ、格式の高い家柄)に生まれることでさえ、世間では稀である。過去でよくよく慈悲の行いをし、功徳をほどこして、今の世で大名や高家など、それぞれの身分や家柄に、その因果が現れているのである。たまたま大名に生まれたからといって、自分の思うままに、いろいろと悪事をすれば、昔よりもひどくなるだろう。情けないことである。ある人が私に尋ねた。生まれ変わるということは本当なのでしょうかと。私は言った。あなたの生まれた国(地方)はどこか。彼は答えて、西国(さいごく、かんさい)です。私がまた問う。その生まれた所に行ってごらんなさい、と言うと、確かに行って、私の元の屋敷や居た所が今目の前にありますと言う。私が言う。たった今、あなたの身はありますかと問うと、何もありません、と言う。このところでよく理解してください。その身が死ねば、思う所に留まるのです。西国へ、指をパチンとはじく間もなく念が行くのです。あなたは、今ここに何のために来られたのですか。彼は、仏法のためです、と言う。私は言った。仏法のためには寺へ来る。情欲を好めば遊女を尋ねて行く。常に汚い心があれば畜生に姿を変える。清らかな心で慈悲心があれば人に生まれる。疑ってはなりません。念は方々へ行きます。身は念の宿るところです。仏というのは、あちらにも行かず、ここにもおらず、一念もない、身もない、虚空と一体である、と。彼は確かに理解して帰った。