至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕

*〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。

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 ある法師が来て尋ねた。「即心即仏(そくしんそくぶつ)」*とはどういうことですか。私はこの法師を棒で打って言う、「即心即仏」とはどういうことか。彼は礼拝して去った。

*即心即仏:中国の馬祖道一(ばそどういつ)禅師(709年~788年)の言葉。『無門関』第三十則にある。「そのままの心がそのまま仏だ」。

 

 老婆が来て尋ねた。死んでから後はどうなるでしょうか。私は言った。死なない。また尋ねた。生きている所はどのようなものでしょうか。私は言った。一物も無い。老婆は答えなかった。棒で打つと礼拝して去った。

 

 年老いた僧が来て言った。本有円成仏(ほんぬえんじょうぶつ、本来のすでに全き仏であるもの)が、どうして今あなたとなっているのか。答えて言った。知らない、和尚は分かりますか。僧は棒で私を打とうとした。私はその棒を奪い取った。老僧は行ってしまう。私もまた去った。

 

 ある人が尋ねた。迷えば悟るとはどういうことですか。私は言った。迷わず、悟らず。

 

 女が尋ねた。地獄とはどのような所でしょうか。私は言った。苦しむ所である。極楽を尋ねた。私は言った。喜ぶ所である。この人が仏を尋ねた。私は言った。ありがたいものである。そこからありがたい心が出てきたので、そのありがたいのはどのようなものかと問うと、知らないと言う。私は言った。その知らない所を常に努めなさい。この人はのちにとうとう道に到達した。

 

 人に仏道をすすめようと思うのであれば、慈悲を第一としなさい。対面する人がどれほど愚かであっても、かわいそうだと思って教えなさい。

 

 ある老いた尼僧が来て尋ねた。私は年が七十歳になって、今にも仏のお迎えが来るかと思っておりましたが、いまだに命ながらえておりますと言うので、教えて言った。仏というのは他のことではない、あなたがいつも唱えている念仏である。南無阿弥陀仏と唱えれば、何の心も無いのを仏と言うのである。かならず怠らずに念仏を唱えて、ありがたくて何の心も無いようにすれば、そのまま仏であると教えた。この人はとうとう往生を遂げたのである。

 

 ある男の子で、心の働きが活発な子が仏について尋ねたので、すぐに坐禅させると、何の心もない。それを常に守るがよい、と教えて、しばらくしてから、さまざまに変わった心の様子を尋ねると、彼は理解して去った。

 

 男女にかかわりなく、まず見性(けんしょう)*させて、そうして坐禅させるのがよい。見性が十分なところへ至った時に、さまざまな物事に対応する事を教えなさい。

*見性:仏性を悟ること。

 

 悟ったと同時に、それを守らせなさい。悪念が出ることはない。久しい年月のあいだ養えば、道人(どうじん)となるのである。

*道人:仏道を成就した人。

 

 悟ったと同時に、あらゆる事柄がこれである、と教えると、だいたいは悪人になるものである。悟りだけを守る人は、だいたい坐禅にとりつかれて律宗(りっしゅう)*になるものである。仏法の大道をはやく教えていい場合と、はやく教えてはいけない場合と、その人によるのである。よくよく心得て教えなさい。誤ってはならない。

律宗:戒律を重んじる宗派。

 

 ある時、儒教の人に尋ねた。天命というのは何を天ということで指しているのか。主命(主人の命令)という場合には確かにあるけれども、と言うと、言葉がなかった。

 

 またある時、「到智格物」*とはどういうことかと尋ねたが、返事がなかった。

*「到智格物」:「格物到知」のこと。儒学の経典『大学』に出る言葉。

 

 また、ある儒学の人が言うには、仏道の教えは人の子孫を断絶してしまうと言う。私は言った。孔子、曾氏、子思の教えはお釈迦さまと変わらない。どうして儒教では人の子孫のことを悩むのか。釈迦尊仏の教えを悪く解釈して人に言う事、誤りの上の誤りである。世尊は六年間、仙人につかえて身の業を消し尽くされたのである。六年坐禅して心を磨かれたのである。それゆえに、釈迦尊仏には、身なく、心なく、生なく、死なく、良し悪しを逃れて善し悪しに交わり、有る無しを離れて有る無しに交わられたのである。教えをお説きになったのを、名前をつけて、あるいは法華、浄土、真言、禅と言ったのである。禅は釈迦の大いなる道の心の名前である。本来無一物を述べておかれたのである。

 孔子が「学而」*とおっしゃたのは、本心を見つけられたのである。「時に」というのは、常日頃のことである。「習う」というのは、修行のことである。「悦ぶ」というのは本心にかなうことである。曾氏の「明明徳(めいめいとく)」**というのは心を明らかにすることである。「格物」とは何も無いものになることである。子思の「天命」***とは、魚が水に住むように、人は天に住むのである。身の中に天があるのを「性」と言うのである。性の通りに行うのを道というのである。このような教えであるから、妻子眷属の詮索はまったくない。釈迦如来ともとは一つなのである。

*「学而」:『論語』に出る言葉。「学而時習之 不亦説乎(学びて時にこれを習う、また悦ばしからずや)」。

**「明明徳」:『大学』に出る言葉。「大学道在明明徳(大学の道は、明徳を明らかにするにあり)」。

***「天命」:『中庸』に出る言葉。「天命これを性といい、性に従うこれを道といい、道をおさむるこれを教えという」。