至道無難禅師「自性記」(11=終わり)

一、老婆にあう。本則*に取り組まれているとのこと。則は何ですか。お婆さんが言う。「阿誰(たそ)」**です。私がよく教えましょう。お釈迦さまも弥勒菩薩もすべて使うものがあります。こちらにおいでなさい、と言うと、お婆さんはそのまま近くに来た。私は言った。あなたの身をたった今使ったものは何ですか。お婆さんは言った。無一物。私は言った。老婆を使う無一物こそ、いろいろ名を付けて本則と言うのです。これを知らずに外に求めるので、迷うのです。お婆さんは言った。ありがたい、どのようにして養うことができますか。私は言った。身の悪に汚さないのを修行と言うのです。

*本則:ここでは公案(こうあん)のこと。公案は、坐禅をするときに師から出される問題のようなもの。

**阿誰(たそ):「誰だ」という意味。『無門関』第四十五則。五祖法演禅師が言われた。釈迦如来弥勒菩薩もみな彼の召使だ。言って見なさい。この彼とは誰のことか。

 

一、ある人に教えて。この世へは、まさに死にに来たのだ。生きに来たと思うので死ぬのが苦しいのだ。つねづね死のことを思う人は、一大事である死のことを心において、いったい何が死ぬのか、何が生きているのかと見るなら、心は虚空と一体であり、生き死にやあらゆる事柄を逃れているものである。身は生きたり死んだりするのである。身には何がなるのかと思えば、念が生を替えるのである。念は何がなるのかと思えば、心の滞った所がそれである。一念が強く生じれば、身の死をかえりみない。恐ろしいものである。いろいろに変わるのも念である。因果がはっきりと現れるのも、みな念によるのである。

 

一、私が昔思っていたのは、死んでから後は何もないだろう、生きているあいだこそ大事であると、そう思っていたのだが、死者が女に憑りついて金銭の出納の始末をつけたり*また蛇になって首に巻き付いたり**、考えてみると死んでから後があることは確かだと驚いた。仏は極楽世界に生まれて大安楽を得るのだろうと思っていたが、今のこの世で身の悪がなければ大安楽である。そうしてまた行くべき行き先も無い。ここにいる者も無い。あらゆる事柄に向かい、それぞれに応じて誤りがない。このように有難いこと、仏がこの世に出ていらっしゃった御恩、おそろかに思えば舌も裂けるであろう。地獄と言えば遠くにあるわけではない、直接この身の悪に苦しめられるのである。この悪、今の世で逃れてしまわなければ、この身がなくなるとき、その念が行って生を替えるのである。悪念があるのは、必ず畜生(動物)の姿に変わること、疑いはない。悲しいというのも愚かなことである。身の業が消え尽きないうちに人に仏法を語ってはならない。人に迷いをかけることになるから、また報いを受けること疑いはない。身の業を消し去るには、仏の教えにまかせ、自分の身の過ちを、つよく仏に祈って、強く消し去りなさい。必ず身の過ちは消えるのである。

*『自性記』(6)に出てきた逸話。

**『自性記』(4)に出てきた逸話。

 

一、ある人が神道の話をいろいろと難しく語るので、私は教えて言った。たとえば須佐之男命(すさのおのみこと)は、大荒神(おおあらがみ)である。出雲の国へ追い入れて、天照大神(あまてらすおおみかみ)が日本の主とおなりになったこと、万事によかったことである。これは、人の身を須佐之男命にたとえたのである。身の念が起こるとき、死をかえりみない大きな悪を行うものである。身がなければつねに豊かである。これは人々の心を天照大神にたとえたのである。

 

一、仏法は、釈迦如来の教えからそれてしまった。唯心浄土(ゆいしんじょうど)は、心の素直であるのをおっしゃったのである。己身(こしん)の弥陀は、身を直接おっしゃったのである。三尊の来迎、紫雲などと方便(ほうべん)に迷う。禅は、法論(仏法の理論的議論)に気を荒立て、妙法*阿字**は祈念にまぎれ込んでいる。このようになっていることは、情けないことである。

*妙法:ここでは法華宗のこと。

**阿字:ここでは真言宗のこと。

 

一、神に向かって、君臣、親子、夫婦、兄弟、友達のあいだでも語らないことを祈る時は、その心が罰を受ける。

 

一、仏に向かって、妄念を取り除き、成仏することを祈る時は、罪業が消滅する。

 

一、聖人には少しも知恵はない。賢人には上々の知恵がある。上々の知恵をもって聖人のことを推し量ることは危うい。

 

一、聖なるものは、天地万物を貫いている。たまたま人間の姿を得て、もしこれを知ることがあるとしても、知恵が出て、太陽や月が雲に隠れるようなものである。

 

一、聖人は、今の世、来る世のことを知らない。

 

一、凡夫は、今の世、来る世のことを知る。

 

〔以下、無難禅師による漢文の跋文(あとがき)〕

 私は、若い頃から狭い路地で生活し、素性もつたなく、美濃の国、関が原の藤川の里に住み、常日頃は牧牛業をしていた。十五歳になって父に従って京都に出向き、ぶらぶらとして壮年の年に至った。浮き世の変りやすいことを見て、別伝の旨(禅宗が「教外別伝(きょうげべつでん、教えの他に伝えること)」とする本来の所)を思い、わざわざ髭と髪を剃り落して 墨染の黒い衣に変え、師を尋ねて仏道を求め、東や西にさまよって野宿し、年を重ねるばかりであった。その折に濃陽、東北の山陰に導師があって、人のために心にささる釘・楔を抜いていた。私はただちに行って師の教えを受け、お諭しを被って以来二三十年、茶を飲み飯を食べる日常においてこの事を養い保った。ある時、儒者の客があって訪ねて来て会った。昔からの知り合いで、粗茶と粗食を差し上げて客に一泊してもらった。この客が私に言うには、仏道はいたずらに高尚なことを言うがすべて実はない。あなたはどうしてそんな所にはまり込んだのかと。私は応えて言った。儒教の聖人の書を見ると、自分を褒めて他人を貶すような言葉はない。あなたの言葉と聖人の言葉はどうして異なるのか、と。客は口ごもってはっきりしなかった。それゆえにしばしば儒教の聖人の言葉をとって、このごろ筆を加えて、彼が来て微笑むのを待つのである。

                               至道菴主

寛文十二壬子(寛文十二年=1672年)仲秋(陰暦八月)の日

 

                                 〔終わり〕