至道無難禅師「自性記」(9)

一、ある人が尋ねた。生きとし生けるもの、その姿かたちはいろいろであるが、本来決まった根源があるのだろうか、と。私は言った。根源がある。心は天地一体である。彼が言う。一体である印は何か。月を見、花を見、鐘を聞く、誰か違いはあろうか。これが一体の印である。念にはいろいろと八万四千の変りはあるけれども、第一に、四生(ししょう)*に分かれる。胎卵湿化がそれである。

*四生(ししょう):仏教における生物の四種の分類。母親の胎内から生まれる胎生(たいしょう)、卵から生まれる卵生(らんしょう)、じめじめした所から生まれる湿生(しっしょう)、何も無いところから業によって生まれる化生(けしょう)の四種。

 

一、胎生は、そのままの姿で生をうけるのである。人や獣のたぐいである。愛欲の思い、念が深いのを元にして現れるのである。過去において愛欲が軽く、善根の重いのは、今人として生まれ、九品(くほん、九種)*に分かれている。あるいは天下の主人となり、国の主人となり、以下は言うに及ばない。過去において愛欲が重く、善根の軽いのは、畜生(動物)のたぐいになって生をうける。

*九品:中国における人の分類。全体が上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)の三種に分かれ、それぞれがさらに三品に分かれて九種類になる。

 

一、今の世で、仏道を知らず、愛欲の深いのにまかせて、我がままが多い人は、死んで体は元に帰るが、悪念が残って餓鬼・畜生*になるのである。

*餓鬼(がき)・畜生:輪廻する六つの道の二つ。餓鬼は常に飢えと渇きに苦しむ者。畜生は動物。

 

一、今の世で仏法がありがたいと思い、慈悲を第一にして、良し悪しを離れ、身の悪を去り、自分と他人の隔てなく、身の念がすっと消えてなくなった人は、生き死にやあらゆる事柄を離れ、解脱(げだつ)*を得るのである。

*解脱:悟りを開き、欲望と輪廻の苦しみから解放されること。

 

一、卵生(らんしょう)は、魚や鳥のたぐいである。悪欲が深い人は、恩を返すことを知らないので、死んでから後、自分の肉をもってその恩を返すのである。

 

一、湿生(しっしょう)は、人で愚痴が深く、悪意や悪念にまかせて死んだので、じめじめした所から生まれる虫となって、仏法を聞くことができず、非常に長い間の苦しみに落ちるのである。

 

一、化生(けしょう)は、一念の悪意によっていろいろとさまざまな姿を得るのである。あらゆる物は、ひとしく心は姿形に従うことは疑いがない。牛の姿を得れば車を引くし、馬の姿を得れば背中に物をのせるようなものである。

 

一、あるとき、悪い心の強い人が寝ている所に行ったが、ふと起きて、夢の話をして、いろいろ恐ろしい事にあって苦しんだと語った。お経の中に思い当たる事がある。人間の一生の悪念は、臨終のときにことごとく現れ、見ることに深い罪のある人は、天地がものすごい火となり、いろいろとすさまじい姿の者がやって来て連れて行き、地獄に落ちると思われる。耳や口の罪も同じ事であると仏がお説きになっている。この悪人の夢の話でいよいよ思い当たったことである。ほんのひと時のうたた寝でさえ、体は動かないのに、悪念はあちらこちらへと飛び回って苦しむ。ましてや死んでこの身が失われれば、悪念が地獄に落ちて苦しんでも、目を覚まさせることのできる姿形はない。よくよく心にかけてわきまえるべきである。

 

一、ある人に教えて言った。自分より上にいる人、ましてや仏道を行う人、徳のある人を悪く言うと、かならず罰を受けるのである。

 

一、ある人が罰ということを尋ねた。過去、現在の罰がある。一般に人は、あるいは死ぬとか、あるいは子孫が絶えるとか、あるいは身体を失うとか、あるいは収入を失うというのを罰と言う。もっともだけれども、いつも思っていることがうまく行かず、あれこれと違うのは、特に目立つことはないが苦しむ。これは人知れない罰である。

 

    心

 仏である。神である。天道である。見たり聞いたり気づいたりする主(ぬし)である。あらゆる事柄を離れて、あらゆる事柄に行き渡り、生き死にを離れて、常に大安楽である。

 

    念

 見たり聞いたり気づいたりする主(ぬし)である。情欲、金銭欲、嫉妬が深く、常にわが身を思うので、苦しむのである。将来を願い、過去を悔い、自慢して高慢な気持ちがたいへん強い。

 

    ある人に(詠んで贈った)

 いろいろと妄想おこるくすりには

 ただ禅定(ぜんじょう)に如(し)くものはなし

(いろいろと妄念が起こったときに薬としては

 ただ禅による集中ほどよいものはないのである)

 

    ある人に

 平常に五戒を強く保ちなば

 ついに破戒の比丘となるべし

(常日頃、五戒*を強く守るならば

 ついには戒律を破る僧となってしまうだろう)

*五戒:殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘をつくな、酒をのむな、の五つの戒律。

 

    ある人の求めにまかせて

 いかにせん法(のり)の道にはうとくとも

 死ぬるまことを知る人もがな

 (仏法の道がよくわからないのは仕方ないとしても

  死ぬという真実を知る人がいてほしいものだ)

 

    常に知恵の深い人に

  かしこきはわが身のためのかたきなり

  愚かになれば住みよしの神

 (かしこいというのはわが身のための敵である

  愚かになれば住吉の神に似て、この世は住み安いのである)

 

    この一生が長いものと思っている人に

  世の中は隠れ遊びにさも似たり

  迷いの内をわが身とぞ思う

 (この世の中はかくれんぼによく似ている

  鬼が迷って探しているその間だけのわが身なのだ)

 

    達磨大師について

  ありがたきまことの法(のり)の教えかな

  知らぬ所をわがものにして

 (ありがたい本当の仏法の教えであるよ

  知らないという所を自分のものにして)

 

    大いなる仏法を問う人に

  心こそまことの法のまことなれ

  いかにとしても知られざりけり

 (心こそ、真実の仏法のなかの真実であるよ

  どのようにしても知られるということはないのである)

 

    ある人に

  さりとては死ぬるというをほかにして

  いかでか法の道に入るべき

 (何といおうと死ぬのだ、ということをほかにして

  どのように仏法の道に入ることができるだろうか)

 

    たしかに仏道を尋ねる人に

  朝夕に誠に死ぬる人あらば

  じきに浮き世はよそに渡らん

 (朝に夕に、本当に死ぬ人があるならば

  ただちにこの浮き世の苦しみから逃れて暮らすだろう)

 

    仏道に心をかける人に

  さかさまに横すじかいに問うときは

  我が物ならぬ我が物もなし

 (さかさまに尋ねたり、側面から尋ねたりして探究すれば

  自分のものが本当に自分のものとなる)

 

    あまりにも人の良し悪しを言う人に

  さらでだに己が迷いのいぶせきに 

  担い添えたり人の良し悪し

 (そうでなくとも自分の迷いで心が重いのに

  人の良し悪しまでも加えて担いでいるよ)

 

    この世を長いと思う人に

  いつまでを我が物とせん世の中は

  昨日に今日は変わるならいを

 (いつまでを自分のものとすべきだろうか 世の中はいつも

  昨日は今日に変わってしまってもう手が届かないのに)

 

    仏を願うが誠実であることを知らない人に

  わが胸の仏をけがす悪念は

  畜生となる印なりけり

 (自分の胸のうちの仏をけがす悪念は

  畜生となる印であることだ)