至道無難禅師「自性記」(6)

 一、先日のこと、ある一国の大名に仕える侍が、百姓の代官をしていたのだが、急に死んでしまった。妻子が嘆く様子は耐え難いものであった。特に、金銭の出納をどうしようかと苦しんでいた所に、若い下女が急にものにとり憑かれたようになり、亭主の座るところに飛び上がって、私は金銭の出納をしないで死んでしまって妻子の苦しみはもっともである。それをするために来たのである、と言う。いろいろと不思議な事が多い。自分たちだけで済ますわけにいかないと、お上に届け出たのである。その頃の家老をはじめとして、何人もが代官の家に集まった。先の下女は、多くの下代(げだい)*を呼び集めて、勘定をいちいち吟味したが、その時ある下代が女の言うことに従わなかった。女は怒り、そんな事は言わせないと言って家の奥へ飛び入り、古い証文を取り出して、これでも違うと言うのかと言ったところ、下代は非常に驚き、実際に生きている人に対面しているように、膝を立て、畏まって、勘定を済ませ、証文に手形(判)を押して妻子に差し上げた事、確かにあったことである。

*代官のもとで働く役人。手代(てだい)。地域に詳しい百姓、町人などから選ばれた。

 

一、あるいは、人に生まれて道という事があるといって、古い文書などを読んでひたいに皺を寄せ、人を見下し、世を渡る人もいる。

 神道には重大な事があると、朝夕に身をあらため、なにやらくどくどしく、人に見せないようにして口に言葉を唱え、仏道孔子の道をそしり、神こそ霊験あらたかで優れていると祈る人もいる。

 

一、酒を飲んで、前後不覚となり、自分の好きなように世を渡る人もいる。

 

一、神に熱心に祈っている人に気持ちを聞いてみると、たまたまこの世に生まれても貧乏ほどの苦しみはない。子孫がいないのも苦しいといって、景気よく繁盛し、子孫が長く栄えることを願うと言うのだが、いろいろと善いこともあり、悪いこともある。

 

一、子孫に宝をゆずってはいけない。必ず無くなるものである。ただ、仏道に入ることが大切である。いろいろの善いことは、仏法に入れば確かにある事、疑いはない。仏の道に入ることができないのであれば、心がけて、慈悲をするようにしなさい。慈悲すれば、天の恵みにあうことは疑いない。もしかしたら、本当の慈悲というものに到達するだろうか。本当の慈悲というのは、常日頃いつでも、正しい道を行い、愚かである事である。

 

一、六祖大師の坐禅に関する事*、言葉ではいい尽くせない。有り難いことであるが、少女のような未熟な者が理解するには難しいところがある。私は、大師の心を受けとって、言おう。

    坐禅

 いろいろと妄想が起こるとき、強く禅定(ぜんじょう、心が統一された状態)に入りなさい。清らかになる。禅定の功徳(くどく)である。

    坐禅が成就する時

 心も身も無い時、確かに知るのである。色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)**に落ち着く時、

 諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)***となることに疑いはない。

*六祖大師の坐禅に関する事:六祖大師は、中国第六祖、慧能大艦(えのうだいかん)禅師(638年~713年)。「外、一切善悪の境界に向かって心念起こらざるを名付けて坐となし、内、自性を見て動ぜざるを名付けて禅となす(外は、あらゆる善悪の事象に対面しても想念が起こらないのを坐とし、内は、自らの本性を見て動じないのを禅とする)」という言葉がある。(『六祖壇経』)。

**色即是空、空即是色:よく知られた般若心経に出る言葉。色(しき、形あるもの)は空(くう)にほかならず、空は色にほかならない。

***諸悪莫作、衆善奉行:七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ、お釈迦さまも含めて過去から世に出た七人の仏様がみなお説きになった戒めの言葉)と呼ばれる四句のうちの二句。全体は、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」。もろもろの悪をなすことなく、もろもろの善を行ない、みずからその心を清くする、これがもろもろの仏の教えである。

 

一、ある人に言った。「凡夫(ぼんぷ)すなわち仏(仏法を悟らない普通の人がそのまま仏である)」であるけれども、そのことを知らないので、身のために苦しむのである。悟って、如来に身の悪をさらしなさい。これを修行というのである。いさぎよくなる時、仏である。

 

一、ある人が言った。天下に死霊というものがあって、人も家も滅びること、確かである。私は言った。霊には四つの種類がある。一つは国の霊である。国の霊は、昔の国のあるじが、子孫に伝えようと思う念が残るのである。二つ目は屋敷の霊である。三つ目は家の霊。城も同じことである。この三つは、場所を離れれば特に問題はない。名字(姓)の霊は、どこに行っても逃れることはできない。徳のある僧侶を頼んで弔えばよい。

 

一、ある人に、本心をどのように養うかを教えて言った。本心を見つけたら、ただちに、赤ん坊を育てるようにしなさい。常日頃いつでも、心にとめて、七情*の気に汚すことなく、本心を守れば、ついに長生きして、あらゆる事が心にかなわないものはなくなる。このようにありがたい事、おろそかに思うのは、情けなく、悲しい事である。人にとっての重大な問題であり、一生の疑いが晴れる起請文(きしょうもん)**の極意はこれである。軽々しく思えば、罰を受けること疑いはない。人間の世界に生をうけ、ありがたいということは、他でもない。この一生で、解脱(げだつ)を得るためである。ところが、この世を渡ることが大事だと思い、妄念に引かれて、たちまち死の間際になって、どうしようかと嘆く。どうして何とかなるものだろうか。お釈迦様がこの世に出られて、本心をお教えになり、じかに生き死にやあらゆる事柄を離れ、この身があること確かだが、確かに無い事を知り、見たり聞いたり気づいたりということも確かにあって、確かに無いことを知る。このようにありがたい事は、仏道修行の功徳である。軽々しく考えては至り得ないのである。

*七情:七種類の感情。喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲。

**起請文:神仏への誓いを記した文書のこと。