至道無難禅師「自性記」(7)

一、修行を深く思って、厚くみることによって誤りが多い。本来空を知らねばならない。心の念を払い尽くしたところである。六祖大師は、菩提(ぼだい)の自性(じしょう)(悟りの知恵を備えた自分の本性)は、本来清らかなもの、これを用いて、じかに悟って成仏せよとおっしゃった。ありがたいことである。

 

一、仏を敬い、お香や花を供える人に向かって、たいへんありがたく尊いことです。常々おこたらないようになされと言い、また教えて言った。このあなたが尊いと思われている仏の姿を写しておかれたのは、確かに仮の事である。本当の仏のいらっしゃるのは、心の中である。そこをいいかげんにして罰を受けないようになさい、と言うと、少し驚いた。本当の仏を知らなかったことの情けなさよ、と言って手を合わせ、持仏などに向かっている時の間を大事だと思い、常日頃はいやしく汚いことを思って、どれほどか心を汚した誤りは、たいへん悲しいといって苦しむのである。

  誰とても仏の道に入る人は

  おのが心をいさぎよくせよ

 (誰であっても仏の道に入る人は、

  自分の心をいさぎよくしなさい)

 

一、仏法を知る者は必ず罰を受ける。仏法を行う者は必ず仏の加護を得る。

  恐れて人に恥じる時は過ちが多い。恐れて天に恥じる時は過ちは無い。

  恐れて天に恥じない時は道である。人はよくそれを知るものである。

 

一、ある年老いた尼僧が言った。自我偈(じがげ)*で、釈迦如来は、「この大勢の人々を連れてここを去ろう。しかしたとえ去っても私は常にここにいるだろう」とおっしゃられたのが、わかりません、と。私は言った。たった今、妙(みょう)**はどうですか。尼僧は、無念です、と言う。それこそ天地に満ちる妙である。お釈迦様が常に住んでおられる家である。尼僧は、もっとも、言って手を合わせて帰った。

*自我偈:法華経の第十六、如来寿量品のこと。

**妙:言葉に表せない優れたもののこと。ここでは、「たった今の目の前の真実」といったほどの意味か。

 

一、ある人が尋ねた。孔子が言っているが、「学びて時にこれを習う(学んで、そのあと時折これを復習する)」*というのはどういうことですか、と。私は言った。この一言は、あらゆる事柄に適応するもので、まことに聖人の言葉である。どのような道でも、学んで、よく復習せよということである。

*「学びて時にこれを習う(学んで、そのあと時折これを復習する)」:『論語』の言葉。以下四節も同様。

 

一、「また悦ばしからずや(なんと喜ばしいことか)」とは何のことですか。私は言った。どのような道も、成熟した時には喜ぶのである。

 

一、「朋(とも)あり、遠方より来る。また楽しからずや(友達がいて、遠くから尋ねてきてくれた。これも楽しいことではないか)」とは何のことですか。私は言った。自分の好きな友達が来ることである。また楽しい、とはその道でもって遊ぶことである。

 

一、「人知らず、しかるを憤らず、また君子なるかな(人は知らなくても怒らない、また君子であることだ)」この一言、大聖人である孔子が、人が知らないのを嘆かないといって君子だとおっしゃるのは、どうしたことか、凡夫(普通の人)も、人が自分のことを知らないからといってどうして怒るだろうか。不思議に思って、よく見てみれば、まったく理解が間違っていたのだ。孔子は、「人知らずして憤らず」とおっしゃったのである。人はみな、自分の中に自分に知られない所があり、それは怒らないものだ、と本心をお教えなさったのだ。ありがたいことである。素直に読めば、孔子のみこころにかなうのである。

 

一、ある人が、孔子の「人知らず、しかるを憤らず」というのは、たとえば人のために大変善いことをしても、その人が知らずに、かえって悪くあたったりしても、怒らないのが聖人であるとおっしゃったのだ、と言う。私は言った。いかにもその通りである。そうであればこそ、天下の人はみな、自分を知らない所に到達してこそ、人が知らないことを怒らないようになるのである。すこしでも自分があれば、かならず怒るのである。

 人を自分の向こう側にするので、孔子のみこころに背くのである。孔子は、各々のことを指しておられる。

 

一、「大学の道は明徳(みょうとく)を明らかにするにある」*とはどういう事か。私は言った。心を明らかにすることである。

儒教の経典の一つ『大学』に出る言葉。以下も続く。

 

一、「民に親しむことにある」とはどういう事か。私は言った。心が明らかであれば、民衆と親しむのである。

 

一、「至善(しぜん)にとどまる事ににある」とは何の事か。私は言った。民衆と親しむのは、至極の善にとどまるからである。彼はうなずいた。

 

一、「とどまる事を知って後に定まるということがある、定まって後によく静かである。静かであって後によく安らかである。安らかで後によく思慮をめぐらせる。思慮をめぐらせて後によく獲得する」とあるのを思えば、至極の善にとどまるからである。

 

一、「ものには本末がある。事には始めと終わりがある。先になり後になる所を知るときは、道に近い」とはどういう事か。私は言った。この次を言いたいためである。

 

一、「昔の、明徳を天下に明らかにしようと願った者は、まずその国を治める。その国を治めようと願った者は、まずその家を整える。その家を整えようと願った者は、まずその身を修養する。その身を修養しようと願った者は、まずその心を正しくする。その心を正しくしようと願った者は、まず気持ちを誠実にする」とはどういう事か。私は言った。だんだんに移って行って、心に行き当たる。そうして心が動く所を述べるためである。これは、「事には始めと終わりがある」を言ったものだ。