至道無難禅師「即心記」(6)

    夢ということを問う人に

  寝ても夢おきても夢の世の中を

  夢と知らねば夢はさめけり

 (寝ていても夢、起きていても夢であるこの世の中を

  夢だと知らないのなら、夢は覚めてしまった)

 

    多くの使用人をもつ人に

  心得し道に使えば使う人の

  誤ることは常になきなり

 (その人がよく心得ている道にその人を使うなら

  使う人が間違うということはけっしてないのだ)

 

    武士の道をたしなむ人に

  生き死にを逃れ果てずば武士(もののふ)の

  道も必ず誤ると知れ

 (生き死にをきっぱり逃れてしまわなければ武士の

  道も必ず誤るものだ)

 

    世渡りを苦しむ人に

  世の中は瓢(ふくべ)の尻に鯰(なまず)の尾*

  押すが如くに渡るべらなり

 (世の中は、ひょうたんの底やなまずの尻尾のように捉えどころが

  ない。ただ前へ前へと押し進むように渡るのがいいよ)

*瓢箪と鯰は、室町時代如拙の描いた『瓢鮎図』の題材としてよく知られている。瓢箪で鯰を取るという主題は、捉えたと思うと逃げてしまう、捉えどころのない禅の真理を象徴するものと考えられている。

 

    仏道はありがたいと言う人に

  物事に心とむなと説く法(のり)の

  法(ほう)に心をとむる人かな

 (物事に心をとどめてはいけないという教えの

  その仏法に心をとどめる人だよ)

 

    強く仏を求める人に

  さかさまに阿鼻地獄(あびじごく)*へは落つるとも

  仏になるとさらに思うな

 (真っ逆さまに阿鼻地獄へ落ちるのはよいが

  けっして仏になろうと思ってはいけない)

*阿鼻地獄(あびじごく):八大地獄の一つ。無間地獄(むげんじごく)ともいう。最悪の地獄。

 

    仏法の大道の根本を問う人に

  思はねば思わぬものも無かりけり

  思えば思うものとなりけり

 (何も思わなければ、思っていない者というのも無いのだ

  思うなら、それを思う者となってしまう)

 

    仏法の大道を得心しても実践しない人に

  説く法(ほう)に心の花は開けども

  その実となれる人は稀なり

 (説法を聞いて心の花が開いたとしても

  それが実となる人は稀であるよ)

 

    儒教を信奉する人に

  主(ぬし)に忠親には孝を為すものと

  知らでするこそまことなりけれ

 (自分の主人に忠誠を尽くし、親には孝行を行うのだと

  頭で知らないで行うことこと本当の姿なのである)

 

    直接見て、直接聞く事を

  主(ぬし)なくて見聞覚知(けんもんかくち)する人を

  生き仏とはこれを言うなり

 (見聞きする主体がなくて、見たり聞いたり気づいたりする

  その人を、生き仏と言うのである)

 

    修行にゆく人に

  身のとがを己が心に知られては

  罪の報いをいかで逃れん

 (わが身の過ちを自分の心に知られては

  罪の報いをどのように逃れようか、逃れることはできない)

 

    悟ることはできないと言う人に

  悟らねば仏の縁は切るるなり

  一切経は読み尽くすとも

 (悟りを開かなければ仏法との縁は切れてしまう

  たとえすべてのお経を読みつくしたとしても)

 

    念仏行をする人に

  唱えねば仏も我もなかりけり*

  それこそそれよ南無阿弥陀仏

 (念仏を唱えなければ仏も我もないではないか

  その無いというところこそ阿弥陀仏に帰依したところである)

*仏も我もなかりけり:時宗の開祖一遍上人(1239年~1289年)と臨済宗の法燈国師(1207年~1298年)との逸話が知られている。一遍上人が、法燈国師に会ったおり、自分の境地を和歌にして「唱うれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と示したが、認められなかった。そこで次に「唱うれば我も仏もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と詠んで、国師はその境地を認めたという。至道無難禅師のこの和歌は、この逸話を踏まえたものと思われる。

 

    ある人が仏を求め願って夢の中で見たが、起きても

    まだ仏の近くにいるような気持ちがするという、その人に

  思うままに為せばなりぬる心にて

  後世(のちのよ)願う人ぞはかなき

 (心は、今自分が思うとおりしようとすればなるものなのに

  死んで後の世を願う人はむなしいものだ)

 

    極楽を願う人に

  極楽の玉のうてなは他になし

  生きながら身の無きを知るべし

 (極楽の玉座は他にあるわけではない

  生きながら身が無いことを知りなさい、そこがそれである)

 

    仏法を説く法師に

  殺せ殺せわが身を殺せ殺し果て

  何も無きとき人の師となれ

 (殺せ殺せわが身を殺して殺し尽くし

  何も無いときに人の師となりなさい)

 

    仏道を教えて

  でくるぼう*を回すは人の回すなり

  人を回すは一物(いちもつ)もなし

 (あやつり人形を動かすのは人が動かすのである

  人を動かすのは何もないそれである)

*でくるぼう:出来坊。でくのぼう。あやつり人形のこと。

 

    座禅にとって重要な事

  せぬときの座禅を人の知るならば

  何が仏の道隔つらん

 (座禅をしていないときの座禅ということを人が知るならば

  いったい人を仏の道と隔てるものなどあろうか、何もない)

 

    心

  仏神また天道と名を変えて

  ただ何も無き心をぞ言う

(仏とか神とか天道とか名を変えるが

 いずれもただ何も無い心を言うのである)

  何も無き心を常に守る人は

  身のわざわいは消え果つるなり

 (何も無い心を常に守る人は

  身のわざわいは消え果るのである)

 

    念仏行をする人に

  仏とはなに馬鹿やつが言いそめて

  何も無きものに迷いこそすれ

 (仏というのはどんな馬鹿者が言い始めたのか

  何も無いものに迷うだけではないか)

 

    あまりに欲の深い人に

  凡夫めらあまりにものな欲しがりそ

  わが身さえ我がものとならぬぞよ

 (迷える人々よ、あまりにものを欲しがってはならない

  わが身さえも自分のものとならないではないか)

 

    法師に

  衣をば虚空になりて着れば着る

  坊主の着るは罰受くるなり

 (僧侶の衣は、己が虚空になって着れば着れるのである

  だが坊主のまま着れば罰を受けるのだぞ)

 

    仏道が知恵を嫌う事を

  人の上わが身につけていろいろの 

  悪しきに出(い)づる知恵と知るべし

 (人の事やわが身の上にいろいろと

  悪い所があると出てくるのが知恵というものだと知りなさい)