盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(9)

(二十二つづき)私の親はもと四国の浪人であって、しかも儒教の人でありましたが、ここに住むようになりまして、私を産みましたが、父には幼少のころ離れまして、母の養育で育ちましたが、腕白もので、そこらじゅうのすべての子どもに対して悪さばかりする子であったと母親が話しました。とはいえ二三歳の頃から、死ぬということが嫌いだったと言うのですが、それゆえ泣けば、人が死んだ時のまねをして見せるか、人が死んだ事を言って聞かせれば泣き止み、悪い事をするのもやんだと申します。

 次第に成人しまして、幼少の頃にはこちらでは儒学がたいへんはやりまして、私も師匠を取りまして、母が『大学』*の素読(そどく)**を習わせ、『大学』を読ませましたときに、「大学の道は明徳(みょうとく)を明らかにするにあり」という所に来まして、この「明徳」ということが分かりませんで、疑わしく思いまして、しばらくのあいだこの明徳について疑いまして、あるとき儒教の人たちに聞きましたのは、この明徳というものはどのようなものですか、どのようなものが明徳ですか、と言って聞きましたが、どの儒者も知りませんで、ある儒者の言いますには、そのような難しいことはよく禅僧が知っているものなので、禅僧の所へ行ってお聞きなさい、私らは自分の家の書物で、日夜、朝夕、口では文字の道理を説明してよく言いますが、実際に私らは明徳というものはどのようなものが明徳というものなのか、知りませんと言いましてらちが明きませんでしたので、そういうことならと思いましたが、そのあたりに禅宗はそこここにはありませんで、聞きようもなく、

 そのとき思いましたのは、どうにかして、この明徳のらちを明かして、年をとりました母親にも知らせまして、死ねせたいことかなと思いまして、いろいろとあがき回りまして、明徳のらちが明くだろうかと思いまして、こちらの談義、あちらの講釈、あるいはどこかに説法があると聞けばそのまま走って行ってききまして、尊いことを戻って母に言って聞かせ聞かせしますけれども、その明徳はらちが明きませんでしたので、

 それから思い付きまして、ある禅宗の和尚に所へ参りまして、明徳の事を尋ねましたところ、「明徳が知りたければ座禅せよ、それで明徳がわかるから」と仰られましたので、それからはすぐに座禅にとりかかりまして、あちらの山へ入っては七日もものを食べず、こちらの岩へ入っては、直接とがった岩の上に着物を引きまくってすぐに座禅を組むが最後、命を失うことも顧みず、自然(じねん)ところげて落ちてしまうまで、座を立たずに、食べ物は誰かがもってきてくれるはずもないので、幾日も幾日も食べないことがしばしばございました。

 それから故郷へ帰りまして、庵を結びまして、そこにとどまって修行しまして、あるいは横にならずに念仏三昧にしておりました事もありまして、いろいろとあがき回ってみましても、あの「明徳」はそれでもらちが明きませんでした。

玄旨軒眼目[詳しく禅師の因地(いんじ)の修行(悟りを開く前の修行)のことを聞くと、中国の僧にも稀なことである。たとえば京の五条の橋の下で乞食生活を四年送っている。あるとき、同じ乞食の中に一人、銭をなくした者がいて、禅師を疑い、この坊主が盗んだものであろうと言って、いきなり半死半生になるほどに理不尽に打ち叩く。しかし禅師は言い訳もせず知らぬ顔をして叩かれていたと言う。後ですぐに別の乞食が盗んだことが分かって、そこでまた禅師を拝み、罪を悔い、侘びを言う。しかし禅師はこのときにも別に喜ぶということもなかったという。また禅師が言うには、人からどのような難題を言いかけられても、自分さえ確かであれば、自然に事が判明になって来て済むものであるから、しいてこちらから言い訳するには及ばないものじゃと言う。そうしたまた、山城(京都)の松の尾(松尾大社、まつのおたいしゃ)に住み、拝殿で座禅し、昼夜脇を床に付けず、横になることなく七日間断食(だんじき)をした。神社の人ははじめは非難して疑い、あとでは立派なことと思って、お粥などを煮てふるまったという。その後、禅師が瑞世(ずいせい、住職となる資格を得ること)のとき、神社の人もそのことを聞いてお見舞いを差し上げ、禅師もまた使いの僧をやってお礼を言った。また、摂州(摂津の国)大阪の天満(てんま)の不動のあたりにも、ときおり乞食して、むしろを着て寝ていたことがあったという。これはある時、ご自身の話であったという。天満の寒山寺でお話しのあった日、玲岩和尚に仰るには、私が若いとき、このあたりに居りましたときには、石不動へかつて行ったことがなかったことだと。あるいはまた数か月、川の中に立って修行してみたり、あるいは豊後(大分県)のあたりでは、癩病の乞食と食事を共にしていて、ある時はかったい(癩病で風貌が著しく変ってしまった人)と一緒にいて、食べ物を分けてもらって食べ、またかったいへも与えてお互いに日を送って修行してもみ、また吉野の山に住んでも見た。いろいろ様々の方々にあって人知れず修行したという。その因地の修行の詳しい様子は、本当のことを言えばいい尽くすことができない。以上は万分の一である。]           (つづく)

*『大学』:儒教の四書の一つ。

**素読(そどく):内容の理解はしばらく置き、読み方を学習すること。