永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十四=終わり)

(「僧俗(僧侶と俗人)の因果の事を示す」の項つづき)

 

三つ目は順後業。これはこの世で作る罪が、三世四世あるいは百世千世の後でもきっと報いを受けるというものである。順後生受業と言うのである。影が形にそうようなもので、必ず因果が合致したときにこれを受けるのである。これを修因成果と言う。また、本当に善事の功徳を行うなら、重い地獄の業をこの世での重い病気などに転じ変えて受けるのである。これを転重軽受と言って、深い業を軽く受けるのである。また、転軽令無と言うのは、軽い罪が転じて消えることである。善の功徳によって浅い罪は無くなるのである。三宝(仏・法・僧)を敬う善人の中には、あるいは病気になって具合が良くない事もあるし、人に軽蔑されたり、また早死にするなどの人もあるが、これはその人の罪とがではなくて、昔の業が少し残っていたのを今の世の善によってそのような事柄に転じ変えて、今の一生のうちに業を果たすのである、疑ってはならない。ここにまた、立ち返って見るべき事がある。これらもろもろの業は、もとより迷いの心から生じるのである。迷いの心では、善い事でも悪い事でも、いまだその本当の姿を知らないということをよく参究すべきである。寂々然(ひっそりとして静か)である。霊々として(霊妙で不可思議)自覚することを仏道を悟る最上の法門とする。

 

〇 一無位人(いちむいにん)の事を示す。

 

人があって、在家でもなく出家でもない。もしこの人を見きわめることができたら、一生で学ぶべき事はおわりである。この人を知るには、知恵をもっても知ることができず、知識をもっても知ることができず、知でもなく、本性が無いことを知るのでもなく、師によらない智でもなく、自ら証する智でもない。これをどんな人と名付ければよいか。出家の人と名付けようとすれば、本来の家を離れてしまう。在家の人とすれば、有り様はすでに異なってしまう。日は出てもこの人を照らさず、月は出ても愛でず、春が来ても雪は消えず、夏が来ても熱くない。この人は師匠も授けることがなく、自分でも得ることがなく、元より法皇と崇め、中ごろは六根と親しまれ、今は六境と使われ、本当に六識(1)として用いられる。八万四千の毛穴の親族を従え、三百六十の骨や頭を奴隷とすると喩えている。三十六仏が新たに世にお出ましになり、ありとあらゆる手段で説法をなさるのが常である。三界や六道が自分の家でないということはなく、十界や三千世界というのも我らが業を作る事でないということはない。名前は人が呼ぶのに答えて言うのであり、それゆえ三界とも答え、一心とも答え、法界とも答え、唯識心とも答え、煩悩とも答え、見浄虚融とも答え、諸法とも答え、実相(ありのまま)とも答え、須逆(すべからく逆)とも答え、憎愛とも答える。名前の他に実体はないとも言われ、実体の他に名前はないとも言われる。そうはいってもこれを見ることはなく、これに逢うこともなく、父もなく、母もなく、兄もなく、弟もなく、天にも住まず、地にもおらず、須弥山よりも高く、芥子粒よりも小さい。水に姿を映さず、稲光のように跡がない。夜も目が開かず、昼も顔を隠している。自分にも疎遠で、人にも馴染まず、このように不思議な人は、行住坐臥(ぎょうじゅうざが、動いても留まっても座っても寝ても)いつでも伴っている。ここにも見聞覚知(けんもんかくち、見たり聞いたり知ったり)に露呈している。そもそもこれはどのような人なのか。

 

(1)六識:六根により六境を対象とする六つの認識。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の総称。

 

右の一つ一つは、仏心宗(禅宗)の一大事因縁(最も肝心なねらい)である。印可を受けた人(修行がなったと認められた人)と言えども許されず、引き受けて筆舌の及ぶ所ではない。日本で述べるにあたっては仮名でこれを書き、願わくば仏眼を開いていない人もはっきりと、眼を開いてこの肝心な所を明らかにしてほしい。建長二年(庚戌=1250年)八月十二日、山下老夫婦にこれを授与し終わる。

 

永平仮名法語 終わり