塩山仮名法語(2)

、そもそも、たった今、目では色を見、耳で声を聞いたり、手を挙げ、足を動かしている主人は、いったい何者かとみれば、こうしたことは皆、自分の心の行うことだとは分かっているけれども、本当のところ、どんな道理なのかは知らない。これは何も無いのだと言おうとすれば、使おうと思えば自由自在であることは明らかである。だから有るものだと言おうとすれば、その姿はまったく見えない。ただ不思議なだけであって、どのようにしても理解できる姿かたちが無いままで、考えがまったく絶え果ててしまい、どのようにもしようがなくなる、これは良い参究の仕方である。

 

、このような時に、退いてしまう心なく、いよいよ志が深くなって極まる時、深い疑いの念が、底に通って破れる時、自分の心が仏であることは疑いがなく、嫌わねばならぬ生き死にはなく、求めるべき仏法もない。

 

十一、虚空の世界はただ私の一心である。たとえば夢の中で、知らぬ所へ迷い出て、自分の故郷へ帰る道を見失って、人に聞いたり、神に祈ったり仏に祈ったりしても、まだ帰ることができない者が、その夢がはっと醒めてしまえば、ただ元の寝室の中にいる。この時、自分で、夢の中の旅から帰るのは、目覚めるより他に別の帰り道はなかったのだと知るようなものである。これを本(もと)に還り、源に還るとも言い、安楽世界に生まれるとも言ったのである。これは、少し修行が力を獲得した筏(いかだ)のようなものである。

 

十二、座禅をたしなみ、参究をする人は、在家(ざいけ)であっても出家であっても、皆、これくらいの成果はあるのである。これはもはや、参究をしない人が知ることのできるものではない。

 

十三、「これは、すでに本当の悟りである。私の仏法において疑いはない」と思うなら、これは大きな間違いである。これはただ、銅を見つけて、金を得ようという望みを止めてしまうようなものである。もしこのような様子になってきたときには、勇気を出していよいよ深く参究をせねばならないのは、自分の身を見るのに幻のように見、水の泡のように見ることである。

 

十四、自ら心を見てみれば、虚空のようである。姿形はない。この中で耳で声を聞き、音の響きを知る主人は、さて何者かと少しも許さずに深く疑うばかりで、まったく知られる道理の一つも無くなり果てて、自分の身のあることを忘れ果てるとき、先の考えは絶え果てて、疑いが十分になれば、悟りが十分になること、桶の底がはずれる時、入っていた水が残らないようなものである。

 

十五、枯れ果てた木に、たちまち花が開くようなものである。もしこのようであるならば、仏法において自由自在の境地を得て、解脱(げだつ)*の人となるであろう。

*解脱(げだつ):生き死にや、輪廻の苦しみから解放されること。

 

十六、たとえこのような悟りがあっても、ただ何度も悟られるその悟りを打ち捨てて、悟る主人に還って、根本に帰ってそれを固く守れば、情識(じょうしき)*が尽きるににしたがって自分の本性が明るく照りだすこと、宝石を磨くにしたがって光を増してゆくようなものであり、ついには必ず世界全体を照らし出すことになろう。このことを疑ってはならない。

*情識(じょうしき):誤った認識と感情。

 

十七、もし志が深くなければ、今の人生でそのように悟ることが無かったとしても、参究の中で命を終えるような人は、次の世では必ず容易に悟りを開くこと、昨日やりかけたことが、今日は簡単に進むようなものである。

 

十八、参究を行い、座禅をしている時、想念が起こるのを嫌ってはいけないし、またその想念に愛着してもいけない。ただその思念の源である自分の心を見究めるべきである。心に浮かび、目に見えることを、皆幻であって真実ではないと知り、それらを恐れることなく、また尊ぶこともなく、愛着するのでもなく、嫌うのでもなく、心が物に染まることがなく、虚空のようであるならば、命が終わる時も、天魔(てんま)*に心を犯されることはまったくないであろう。

*天魔:仏道修行を妨げる邪悪な魔物。

 

十九、また、参究を行う時には、このような事、このような道理を一つも心の中に置くことなく、ただ自分の心はいったい何かというだけになりなさい。またたった今、あらゆる音を聞いている主人は何物かと、これを悟るならば、この心は、もろもろの仏や衆生たちの本源(本来の根源)である。観音菩薩は、音をきっかけにお悟りになったので、観世音という名になったのである。ただ、この音を聞いている者は何物かと、立っったり座ったりするときもこれを見つめ、座禅してもこれを見つめるとき、聞いている者も知られず、参究もまったく絶え果ててしまい、心が茫然となるとき、そうした中でも音が聞こえることは絶え間ないが、いよいよ深くこれを見つめる時、茫然とした様子も尽き果てて、晴れ渡った空に一片の雲もないようになる。

 

二十、ここにおいて、自分というべき物はなく、音を聞いている主人も見当たらず、この心は十方(じっぽう)*の虚空と等しいものであり、しかも虚空と名付けるべきところもない。このような状態のとき、これを悟りだと思うのである。この時また、大いに疑わねばならない。ここにおいては、誰がこの音を聞くのだろうかと。

*十方:八方位と上下を合わせて言う。すべての方向のこと。