大応仮名法語(十=終わり)

〇   病中の者に示す

 病の中での工夫(くふう:心を尽くして修行に打ち込むこと)は、ただ心に物を懸けないことである。これは今生での祈祷であり、また来世での菩提(悟りの境地)である。これ以上のことはない。たとえ死の免れがたい状況であっても、必ず助かることがあるであろう。また、死去したとしても、それ以上六道四生(ろくどうししょう)に浮き沈みすることはない。ただひたすら打ち払って一切の事を打ち捨て、無心の時に取りすがるところが無い状態は、自己の根本、悟りを得るのに近いのである。また、取りすがるところが無いといって、仏を念じたり他の工夫をしたりすべきではない。そのような雑事があれば、この大法に入ることはできずに、生死の海に輪廻して六道を離れない。古人が言うには、心で何か作ることがあれば禍が身にある、と。大善知識に会って、このようなことを了解できることでもって、無限の過去から大願を固く持ってきた人だと知れるのである。それ故に、「道無心合人、人無心合道(道は無心にして人に合し、人は無心にして道に合す)*」と言うのである。一心にこの言葉を信じて疑ってはならない。法華経に言う、「諸法寂滅相不可以言宣(諸法寂滅の相は言をもって宣ぶべからず)(物事の寂滅の姿は言葉で述べ伝えることはできない)**」と。行住坐臥、無相無念(念によって姿を捉えない)ならば悪い業(ごう)のすべては清らかな光明となり、三世(前世、現世、来世)十方(あらゆる方角、世界すべて)は寂滅為楽(じゃくめついらく)***となり、煩悩がそのまま悟りの境地となる。生死がそのまま涅槃(生死を超え、輪廻を脱したところ)だということが納得され、病の苦しみに任せて取りすがるところも無い時、本当に心からこのように信じれば、仏祖の本心に通じて、二世(現世と来世)に渡る願いが成就する。疑うなかれ、疑うなかれ。謹んで心を捧げて信じるべきである。

 

*道無心合人、人無心合道:中国唐代、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師(807~869年)の語。『祖堂集』巻二十。

**諸法寂滅相不可以言宣:法華経、方便門第二。

***寂滅為楽:無常偈といわれる『涅槃経』に出る偈。「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(しょぎょうむじょう、ぜしょうめっぽう、しょうめつめつい、じゃくめついらく)」と続く。一切の物事は無常である。これは生まれては滅びるという真理である。生まれては滅びるということ自体が滅したのちの、寂滅の境地に平安がある。

 

(仮名法語 終)