澤水禅師仮名法語(十)

十四 和光行脚(一)の時に学士に逢ったことを示す事

 

 師がある日、大衆に語って言うには、むかし老僧(わし)が和光行脚の時、越後の国[今の新潟県]に言った。ある領主の家中に一千石(二)を持っていた侍があり、若年から学問を好み、文章の才能が非常に優れ、近隣の寺の和尚や長老たちといえども、匹敵する者がないほどであった。それで、儒教四書五経朱子による注釈(三)を元にして、仏法を排除し、ないがしろにして、僧侶を下男であるかのように見下していた。その者の親の一人が、後日の果報を恐れて老僧(わし)から意見をするように求めた。老僧(わし)は直ちにその者に対面して、次のように言った。あなたは仏法を排除し、憎まれているということを聞いたが、仏法の本体、仏法の根源をよくよく見定めて、本当に悪であるということを知り尽くした上で、そのように仏法を非難し、憎まれるのか。仏法だけではなく、世間の一切の事でも、よくその根源を尽くさなければ、確かに善であるとか、確かに悪であるとか判断し難いものであるが、あなたはどうなのか、と。その士が言うには、どうも大変厳しく難しいご質問です。これほど詳細な質問は初めて受けました。ただ仏法は、地獄があると説き、鬼がいると説いて、すべて方便と作り話で、元来は何もないものだと思い、それで仏法を非難したのです。老僧(わし)は言った。さてもまあ、学者には似合わないことです。ただこれだけのことを難しい質問などと言い、あるいは仏法は方便と作り話だけであって、元来何もないものと思われていることは恥ずかしいことです。仏法とは何物を名付けて仏法と言っているのかをお知りにならず、かえって仏法を非難し、憎まれることは、誤りと言うべきか、愚かと言うべきか、言語道断のことです。何物を名付けて地獄と言い、何物を名付けて鬼と言い、何物を名付けて仏法と言うのかという事をお知りにならないのであれば、何物を名付けて儒と言い、何を明徳(めいとく(四))と呼ぶかということも、いまだご存じではないでしょう。そもそも仏法とか仏道とか呼んで、名前が世間に流布し、後世にまで響き渡っていることは、仏法に確かに本体があるからです。本体が確かにあるから、仏法と名前を付けたのです。ただ仏法だけではなく、世間一切の物でも、本体がない物にはその名前を付けがたいものです。書籍は確かに本体があるので、書籍という名前を付けており、硯(すずり)は確かに本体があるので硯という名前を付けている。鎧(よろい)と名付け、甲(かぶと)と名付けることも、またそのようなことであって、一切の木や草や動物たちに至るまで、確かにそれぞれ本体があるから、それぞれその名前をもっているのです。風というものがあり、目にも見えず、手に取ることもできないけれども、枯れ木を吹き倒し、人家をくつがえして、確かに音という相を備えている。それによって風という名を付けている。影[姿]というものがあり、鏡にうつる影、人の影、それ以外のすべての影は、手に取ることもできず、ないと言ってもよさそうであるけれども、確かに色(しき(五))という相を備えている。だから影という名を付けている。世間の一切のもので、音の相もなく、色の相もなく、行の相もなく、すべての形態を欠くものには、その名はつけがたいものです。ただ何もない所は、空というほかは名付けられません。仏法も、もし何もないのであれば、ただ空と言うべきでしょう。ところが昔から仏法、仏道と呼んで国家の施策に用い、人々の議論の口に上がるのだから、どうして仏法に本体がないことがありましょうか。士は、頭を下げて言った。私ははなはだ道に迷っております。願わくば、仏法の本当の教えを伺いたい、慈悲をもって詳しくお示し下さい、と。老僧(わし)は言った。そもそも仏道というのは、別のことではありません。ただ、今、手を動かし、口を開くこと、これはいったい何ですか。これは誰でもに備わっている仏法の妙用(みょうゆう(六))なのです。この一心の名を仏法と名付け、仏道と名付けているのです。それを仏道は元来何もない事だと言うのでしょうか。もし元来何もないことならば、たった今、手を動かし、足を動かす者、それはいったい何者でしょうか。仏法とは、自分の一心の名だということを知らずに、かえって仏法を非難して憎むのは、直接自分の一心を非難し、憎むことに他ならない。これは大変愚かなことではないですか。まったくの無知ではないですか。あなたが学んでいる書籍は、いったい何の書籍ですか。天地のあいだにあるあらゆる書籍は、あるいは儒教の書か、神道の書か、仏法の書か、道教の書か、和歌の書か、兵法の書か、医学の書か、いずれもみな身と心との二つを説いています。けっきょくこれは何を研究しているのですか。身と心とを離れて、そのほかに書籍があると言うのであれば、それは邪書であり、外道(げどう(七))の書です。士は言った。私は罪多くして、今日初めてこのような霊妙な道理を伺いました。たった今からこれまでの考えを翻して、願わくば、師の教えをたまわりたい、と言って何度も礼拝をした。老僧(わし)は、この士の家に三十数日滞在したが、この士は、その後、立派な修行者となった。

 

(一)和光行脚(わこうあんぎゃ):和光は自分の光を和らげ、人々に交わること。和光同塵とも。行脚は諸国を巡ること。

(二)一千石(いっせんごく):領地の価値を石で表す石高制(こくだかせい)は、明治になって廃止されるまで続いた。一石は大人一人が一年間で消費する米の量を表すとされる。一千石は家臣1,000人を養える土地を意味する。

(三)四書五経朱子四書五経儒教聖典朱子南宋時代の儒学者である朱熹(しゅき)で、その教えは朱子学として日本には鎌倉時代には伝わったが、江戸時代になると官学(政府の公式な学問)となった。

(四)明徳:みょうとくとも読む。四書の一つ『大学』冒頭に「大学の道は明徳を明らめるにあり」とある。

(五)色:色(しき)は五蘊(ごうん:人や世界を構成する語要素)の一つで、物質的要素。他は受(感覚)・想(想念)・行(意思)・識(認識)という心の要素。

(六)妙用:霊妙で優れた働き。

(七)外道:もとはインドで仏教以外の教えを外道(げどう)と言った。ここでは間違った教えというほどの意味か。