十二 禅師の所で、常に律院(戒律を厳守する寺)を設けて、律僧(律宗の僧侶)の人たちに夏(げ:一夏の間籠って修行すること)を過ごさせなさっていた。大結制(修行期間の初め)の時は律僧が五十三人いて、そのうち二人の僧が禅師に尋ねて言った。わたくしどもは常に二百五十の戒律を保ちまして、それで成仏を遂げようと思っておりますが、これでよいのでございましょうか、それとも悪いのでございましょうか、と言う。
禅師が仰るには、いかにも悪いことではありません、よい事でございます。しかしながら最善というわけではありませんな。それは戒律を表に立てて、律宗といって最善のもののように思うことは恥ずかしい事でございますな。もともと戒律と申すものは、悪い僧侶のためにこしらえたもので、本来の僧侶たるものは、決まりを破って戒律を受けるようなことはしでかしませんわな。酒を飲まない者には不飲酒戒(ふおんじゅかい、酒を飲むなという戒律)は不用で、盗みをしない者には不偸盗(ふちゅうとうかい、盗むなという戒律)もいりません。嘘を言わない者には不妄語戒(ふもうごかい、嘘をつくなという戒律)もいらないようなわけでありますな。ところが皆さんが戒律を保つと言うが、戒律を保つの保たないのという事は、悪い僧侶についての事でこそあれ、私は律宗ですと言って、戒律を外に立てて、最善のもののようにいう事は悪い僧侶だという看板を出すようなもので、善いものも悪いものに似せて、悪いもののまねをするようなものでございますわの。だとすれば恥ずかしい事ではございませんかの。不生であるのが仏心でございますから、不生の仏心でいれば、初めから戒律を保つの保たないのということはございませんな。保つの保たないのというのは、生じた後の名を言えば、不生の場からは第二、第三のずっと末の事で、みな後の沙汰なのですな。このようなお示しを聞いて、二人の僧は、たいへんごもっともなことで、ありがたく存じますと言って、深く納得したということであった。
十三 禅師が説法の後で仰るには、私が讃岐の国(今の香川県)の丸亀にいました頃、城下の女中がたも説法を聞きにまいりましたが、ある女性がいらしたときに、下女や姥(うば、お付きの老女)が付いて来まして、みな私の教えを聞いて帰りまして、その後またこの女性方も姥も来まして、その時に、この女性のおっしゃるには、私の姥は和尚さまにお目にかからない前は常に短気でわがままな者でありまして、少しの事でもよく腹を立てましたが、先月のお示しをうけたまわりましてから、かなり時が経ちますけれども、その時からただ今に至るまで、ずっと腹も立てません。その上、かえって賢い道理にかなったことばかりを申しまして、言っても仕方ないことなどは考えもしません。それゆえに、私も今ではかえってあの姥に恥ずかしくなるほどでございます。ただ和尚さまのお教えをよく飲み込んだものと見えまして、本当におかげ様に存じますとおっしゃった事でありましたが、その後も様子をうかがう所では、いよいよ再びすっかり迷うようなことは致さないと、皆さんが言っておりました。私が申し上げる不生であるのが仏心、仏心は不生にして霊明なもので、不生で一切の事が整いますから、不生で一切の事を行う人は、人を見る目が開けて、人々はみな今日の活き仏だと確信しますから、讃岐の姥のように、再び迷わないようになりまして、仏心の尊いことをお知りになるので、もはや迷いはせぬようになりますわの。みな仏心の尊いことを知らないがゆえに、あらゆる事柄について、一時的なわずかな事についても迷いの心を出して、みな凡夫になっている事でございますわな。
ただ今、女性の方もこの説法の集まりに大勢いらっしゃるが、女性というものは、特に何事につけ、仕方のないことに腹を立て、不生の仏心を修羅に変え、愚痴の畜生に変え、欲の餓鬼に変えてしまいまして、種々さまざまに流転して、迷う事でございますわの。ですから女性の方々よくお聞きなさい。人を使う家には子供や下女がたくさんいるものですが、自然とその中の者で失敗をして、家の秘蔵の道具や茶碗のようなものを思いがけず割ってしまうようなことがあると、それほどまで言わなくても差し支えない事を、ことの他にとがめて、顔に血をあげて腹を立てますが、たとえどのように大事な茶碗でありましょうとも、わざと割ったわけではなく、思いがけず割ってしまったのであれば、どうしようもない事ですのに、大切な親の産み付けてくださった仏心をば、自分の欲のきたなさに、軽々しく修羅に変えてしまうことですわの。茶碗は買えばまたあわてて元に返されもしますし、その上また高麗茶碗で飲む茶も、伊万里焼の茶碗で飲む茶も別に茶の風味の違いもなく、茶を飲むことに事欠くわけではありませんが、ひとたび立てた腹は元に返されることはありませんな。これは茶碗一つについての事ですが、よく納得すれば、あらゆる事は言うに及ばす皆同じ事で、いちいち申し上げなくても知れたことでございますな。他の事についても、ものをぐいぐいと思い続けて、仏心を修羅に変えることなく、愚痴に変えることなく、自分の欲についても、仏心を餓鬼に変えてしまうことがなければ、おのずから不生の仏心でいるより他のことはございませんですな。仏心の尊いことを知れば、いたくなくても仏心でいねばならぬようになりますわの。私が申し上げるのは、この仏心を三毒〔三つの煩悩、貪・瞋・痴〕に変えないということはいかにも大事なことですから、これをよく聞いて納得し、不生の仏心を他のものに変えてしまわないように、きっとしてくだされ。
ただ今になって聞こえる鐘の音は、まだ鳴らず、聞かない先でも鐘の事はみなよく知っておりますわな。鐘の鳴らない先でも通じている心が、不生の仏心でございますな。鳴ってから後に聞こえて鐘だと言うのは、生じた後の名で、第二第三に落ちた事でございますの。