至道無難禅師「即心記」(2)

一、ある僧の弟子が昼夜座禅して、我と人の隔てもない、生き死にもないと言う。どんなことを悟ったのか問うと、かえって恐れて、私のような者の到達できる所ではありませんと言う。仮にも師匠は大事である。特に仏道は、師匠なくしては成就することは難しい。彼は、座禅しているときと、普通のときとで違う事を苦しんでいた。たった今、目の前のことに、どんな相違があるのかと聞いても、らちがあかない。味噌の味噌くさいのは食べるによくない*のである。

*「味噌の味噌くさきは食われず」「味噌の味噌くさきは上味噌にあらず」という諺がある。

 

一、私は弟子に向かって言った。必ず修行を成し遂げることができないというのであれば、還俗(僧侶をやめて俗人に還る)しなさい。そうすればその罪は少ない。僧侶の身でありながら卑しい心があるならば、畜生(動物)となることに疑いはない。この世はわずかの時間にすぎない。あれこれしている内に時間はあっという間に過ぎてしまう。俗人には報いはあるといっても、出家した僧侶の報いには比べられないのである。

 

一、無といっても二種類がある。悪いことをして罪が無いと思うのは悪い無である。善悪や邪正が寄り付かないのが、お釈迦さまの仏法である。

 

一、念仏は利剣(りけん=鋭い剣)である。身の業を滅ぼすにはよい。しかしきっと仏になろうと思ってはいけない。仏にはならないのが仏である。

  身の業の尽き果てぬれば何もなし

  仮に仏と言うばかりなり

 (身の業が尽き果ててしまえば、何もない。 

  仮にそれを仏と言うだけのことである。)

 

一、八万四千の悪い業があるのが身というものである。だから水や火の責め苦にあう。この身を思うことは怖いことである。

 

一、罪に重い、軽いがある。虫より魚は重い。魚より鳥は重い。鳥よりけだもの(動物)は重い。けだもの(動物)より人は重い。

 

一、教えは大いに誤る。それを習うのはいっそう誤る。ただじかに見て、じかに聞きなさい。じかに見るというのは、見る者がない。じかに聞くというのは聞く者がない。

  見ず聞かず思わず知らぬ思い手を

  なにとて己(おの)が他に為すらむ

 (見ないし聞かない、思わないし知らないで思うその人を

  どうして自分ではないとしてしまうのだろうか。)

 

一、伊勢の国*に、一生座禅して死んだ人がいる。その人の身のためには尊いことである。一方、その身が座禅して死ねばよいけれども、病気で苦しんでいたのではそうもいかない。私の師匠は、ひと時の座禅は、一生の座禅だとおっしゃった。有り難いことである。

*今の三重県、愛知県、岐阜県の一部。

 

一、ある人が、お釈迦さまの仏法が衰えてきたことを聞いた。私は、それはなかなか言葉で言うことは難しいと答えた。髪を剃れば、私も「出家」*という二字を汚すことになる。これは恐ろしいことである。普通の家庭を出て、三衣一鉢**を携えて木の下や岩の上に寝る生活をしても、それで真の出家と言うことはできない。真の出家といって望みが深いのであれば、我が身には八万四千の悪があるものなのである。その中でも大将と扱われるのが、色欲(性欲)、利欲(金銭欲)、生死(生きたい死にたくない)、嫉妬(他人を羨む)、名利(名誉欲)の五つである。これらは並大抵のことでは退治できない。昼夜、悟りをもって一つ一つ身の悪を滅ぼし、清らかにならねばならない。悟りというのは、私たちの本心のことである。ものごとの是非、邪正をよく知り、邪を去り、正を保ってそれを深く守り、常に座禅して如来を助け、工夫して悪を去り、そうして年月の功績が積もり積もれば、必ず心が平安になるはずである。そこでいっそう怠らずに励むということになって、五欲を滅ぼし、悟りが成就して、地獄、餓鬼、畜生、修羅の苦しみを離れ、平常を守ってその功績が積もり、後は何もなくなって、万法(あらゆる事柄)に身をまかせて誤るところがない。努力してここに至って、世間の人に仏法を勧めて、上根機(悟る素質の高いこと)の人には直接、目の前の真実を指し示して教え、中根機の人には、方便を使って座禅をさせ、下根機の人には念仏して来世の幸福を願わせ、そのようにして人を助けるのを真の出家というのである。いいかげんなことでは成れないのである。

*出家(しゅっけ)は家庭を出ること、あるいは家庭を出た僧侶のこと。在家(ざいけ)に対する。

**修行僧が所有することを許された六具のうちの四つ。大衣、上衣、内衣、鉢。