至道無難禅師「即心記」(3)

一、私が若かった頃、ある侍が使っていた童子が私に向かって、私の主人に断って私を弟子にして下さいと頼んだ。けなげに言うと思って、どうしてそうしたいと思うのか尋ねると、出家は世をわたるのに楽しかろうと言ったその一言に驚いた。この童子がこうした気持ちで僧になれば、かならず畜生となるであろう。仏法への志を初めて起こすときから仏法一筋に心をかけるのであれば、それはすでに菩薩の行いである。仮にも世渡りに心をかけるのは、、畜生になること疑いがない。

 

一、ある人に示して言った。仏法は、今の世では乱れてしまい、外に向かって仏を求めている。例えば、妙*は元来無一物**(もともと何もない所)である。法(さまざまな物ごと)というのは、この妙が動いて出たものである。物ごとの姿をとらなければ妙は現れることがない。それだから妙法と二字を続けて言うのである。物ごとの良し悪しをみてその人を知ることができる。見性(けんしょう)***して日常なにをするにも、この仏性にまかせて自分の身を使うとき、それを仏法というのである。

*妙:言葉に表せない優れた真理のこと。

**元来無一物:中国第六祖、慧能(えのう)禅師の「本来無一物」がよく知られている。慧能禅師がまだ寺男として働いていた頃、その寺の修行僧のリーダーだった神秀(じんしゅう)が壁に書いた詩「身はこれ菩提樹 心は明鏡台のごとし 時々に勤めて払拭して 塵埃を有らしむることなかれ(私たちのこの体は悟りの元となる菩提樹 私たちの心は真理を映す澄んだ鏡 注意してこれを磨いて 塵やほこりがつかないようにせよ)」の隣に慧能が書いた詩は「菩提もと樹なし 心もまた明鏡台にあらず 本来無一物 いずれのところにか塵埃をひかん(悟りには元になるものなどない この心も鏡などではない 本来何もないところ どこに塵やほこりが付こうか)」であった。この詩を見た師匠の中国第五祖の弘忍(ぐにん)禅師は、慧能が悟っていることを知った。(『六祖壇経』)

***見性:自己の本性である仏性を悟ること。

 

一、見性することは難しいという。難しいのでもなく、簡単なのでもなく、あらゆる物が寄り付かず、良し悪しに応じているが良し悪しを離れており、煩悩の中にいるが煩悩を離れ、死ぬが死なず、生まれるが生まれず、見て見ず、聞いて聞かず、動いて動かず、物を求めて求めず、罰を受けて受けず、因果*の連鎖に落ちて落ちず、凡夫**(ぼんぷ)は言うに及ばず、菩薩でもそこを行なうのは難しい。だから仏というのである。

*因果:原因と結果のつながり。

**凡夫:悟りを開いていない普通の人。

 

一、迷っているうちはこの身に使われ、悟るとこの身を使う。

 

一、ほとけの教えは、何の事もないのだが、人の心の愚かなことよ。世の中の人で、名*に迷わない人はいない。情欲に迷い、財宝に迷うのはもっともだけれども、それさえはかないものと知れば、この名というものはどれほどはかないだろうか。仏という名を願い求める心に誘われてその後どうなるのか、あてにならないことだ。

 名に迷う浮世の中の大たわけ

 我が名も知らぬ者となれかし

(名前や名声に迷っているこのはかない世の中の大馬鹿者よ

 自分の名さえ知らない者となれよ)

*名:名前、名声。

 

一、自分を基準にして他人を見るものである。愚かな人が他人を見るのはこわいことだ。自分に利益を求める心があれば、他人をもその心で見るのである。情欲の深い者は情欲を基準に見るのである。聖人・賢者と言われる人でなければ、正しくものを見ることはおぼつかない。仏法の大道に到達した人がいても、それを見て知る人は稀である。空しく顧みられなくなってしまう。賢い人は、自分に合わない人でも、その人の性格を見分けて、その人の得意な所を用いる。それでその人は活かされる。仮にも、何かで人の上に立つ大将となる人は、心得ておくべきことである。

 

一、ものを寄せ付けないことは簡単である。ものが寄り付かないようになるのは難しい。

 

一、たとえば火はものをこがす。水はものを潤す。火はものをこがすと、その火自身が知っているわけではない。水はものを潤すと、その水は知らない。仏は慈悲をして、慈悲を知らない。

 

一、念の深いのは畜生。念の薄いのは人。念の無いのは仏。

 

一、人は愚かなものであることよ。法師が教えて、念仏を唱えなさい、そうすれば仏になるぞと言えば、もっともなことと受け取って念仏を唱える人ばかりで、その仏とはどのようなものですかと聞く人はいない。

 

一、自分の振る舞いが乱れるとき、天から必ず罰を受けるものである。天下の主は、天下がそのまま家である。国の主は、国が家である。大小にかかわらず、家の中の悪事は、その家の主の罪科である。治めることができなければ、天災を受けるのである。

 

一、清浄心(しょうじょうしん)*は、道理を述べて言ったものである。その清浄という道理も無くなった所は、自分でなければ知らないのである。しかし、自分が知るといううちはいけない。知らない所のその知らないということにある。

*清浄心:きよらかな心。「自性清浄心」と言い、人はみな本来清らかな心をもつとされる。