至道無難禅師「即心記」(4)

一、悟りというのは、念を滅ぼすことを言うのである。念でもって身が作られる。悟れば、生きながら身が無くなる。

 

一、大道に入る人で、確かな師匠に出会わず、自分の情念に苦しみ、財宝を好むことを苦しむ人がある。大きな間違いである。大道に志す人は、あらゆる事柄の悪はみな身によって起こるものとして、天地の果てまで、古今東西を貫いて隔てないものがある、これをよく知って、その一(いち)*を守れば、自然と身の業(ごう)**が尽き果て、清らかになる事に疑いはない。

*一(いち):時空を貫いて一体のもの。

**業:過去にした行為の結果の集積。現在に影響を与えている。

 

一、人と生まれたからには仏道にはげむべきである。他のものではない。その人その人で良いところというのは、みなその身の仏が行っているのである。

 

一、ある人が大乗(だいじょう)*とは何かを尋ねた。私は答えた。身を正しくして、守る事がないのを、大乗と言うのである。

*大乗(だいじょう):大乗仏教のこと。

 

一、最上乗(さいじょうじょう)*は何かを尋ねた。私は答えた。身をのぞみのままにして、守る事がないのを言うのである。それだから重大なことなのである。そのようであるからこそ、世の中に稀なのである。

*最上乗(さいじょうじょう):ここでは「もっとも優れた境地」というほどの意味。

 

一、私の弟子に言ったこと。いろいろと工夫*するというので、難しいことを好むようではないか。平常はみな仏である。直(じか)に見て直に聞いている。臨済禅師**は、「聴法無依の道人あり。無依を悟れば仏もまた得ず。(今教えを聞いている無依の道人=何ものにも依拠しない真実自由の人、がいるぞ。その無依を悟るなら仏というものもまた無いのだ)」とおっしゃった。六祖大師***は、「まさに住する所なくして、その心を生ずべし。(どこにも留まることがなければ、きっとその心=悟りを生じるだろう)」という経文をお聞きになって悟りをお開きになったではないか。

*工夫:座禅等の手段によって真理に到達するよう骨折ること。

**臨済禅師:臨済宗の開祖、臨済義玄禅師(生年不詳-867年没)。

***六祖大師:中国第六祖、慧能大艦禅師(638年ー713年)。

 

一、世の末になるということを、知る人は稀である。

釈迦如来の仏法は、二千六百年あまりになり、日本に渡って来て千年に及んで、ことごとくすたれてしまい、確かにそうだとわかる。あらゆる物事がすたれる元は、我智(がち)*である。才知のある者は、おおかた信じる心はとぼしい。あらゆる物事の根本は信じる心である。信じる心がすたれる元は才知である。この才知によってどのような道もすたれてしまった。これを世の末というのである。仏法の大道は、努力して、その努力するということもない所に至れば強いものとなる。だいたいにおいて、師匠の道を自分のものにして努力する者は稀である。

*自分中心の考えやはからい、才知。

 

一、仏法の大道を行う人は、何でもよく承知しているでしょう、と言う人がいる。私は言った。あらゆる物事の根本を知るのである、と。その根本を知って、それぞれ自分の家の稼業の定めを立ててゆくのである。法師は、仏の他は、承知しないものであると言っても、愚かな人は理解できない。たとえば侍の道で言えば、それが自分たちの家業でも多くを知ることは難しいでしょうと言っても、理解しない。情けないことである。

 

一、いつも会うことができない女性に法語を書き送った。〔以下の四項目〕

 

一、人は家を作って住む。仏は人の身を宿にする。家のうちには、つねに亭主の居所がある。ほとけは、人の心に住むのである。

 

一、慈悲深く、何にせよ穏やかであれば、心がすっきりとする。心がすっきりとすれば仏が現れるのである。

 

一、心をすっきりとしようと思うなら、座禅して如来に近づきなさい。

 

一、工夫して、わが身の悪を如来にさらしなさい。このように努力することが確かならば、仏となることは疑いがない。

 年月日と日付を入れて書き送った。

 

一、物事には熟す時というものが確かにある。たとえば幼いときに、「いろはにほへと」を習い、世渡りをする大人になって、書類を書くとき、唐土のことも残らず書けるようになる。これは「いろは」が熟したのである。仏道も、修行をする人は、身の悪を去るうちは苦しいけれども、去り尽くして仏になって後は、何事も苦しみはない。また慈悲も同じことである。慈悲をしているうちは、慈悲というものに心が置かれている。慈悲が熟するとき、慈悲を知らない。慈悲をして慈悲を知らないとき、仏というのである。

  慈悲はみな菩薩のなせるわざなれば

  身の災いのいかであるべき

 (慈悲はいずれもこの身の菩薩の行うことであるので

  身にかかる災いなどどうしてあるはずがあろうか。)

 

一、この道〔仏道〕にいどむ事にも強い場合と弱い場合がある。私が若いころ、強くいどんだ。あるとき、孔子の言葉を見ていたら、「天下国家をも辞退すべし。爵禄をも辞退すべし。刃(やいば)をも踏みとおすべし。大敵をもかたぶくべし。中庸は用いがたし。(天下国家をも辞退せよ。貴族の位や役人の報酬も辞退せよ。刀も踏みつけよ。強敵も打ち破れ。中庸の真理を行うのは難しいことなのだ。)」と書いてあった。私は思った。本当にそうである。大道にいどむことが弱ければ、わが身の悪をどうして去り尽くすことができるだろうか、と。