月庵禅師仮名法語(十八=終わり)

〇 在家の人に示す

 

 一切の道理は、自分というものがあるときに起こるので、自分を忘れるならば、いったいどんな道理がありましょうか。ただこれ、物事の成り行きに任せ、機縁に従うまでのことです。これは凡人の在り方でも聖人の在り方でもありません。また肯定するのでも否定するのでもありません。自然のままで自由な受け止めであって、どうして善悪を選ぶことがあるでしょうか。それだから「智者は物に任せ、おのれに任さず。愚人はおのれに任せ、物に任さず」とかまた「逆行順行、天も計る事なし(逆らって進んだり、そのまま進んだり、天さえも伺い知ることはない(1)」と言われるのです。もしこのところの道理を信じるなら、見聞きすることはその跡をとどめず、現われたり去ったり、生じたり滅したりすることも結局捉えることはできません。信ずる心が薄いので人に惑わされ、周りの状況に翻弄されて、主となることができません。ややもすれば、数えきれないほどあれこれ思案を起こします。これは実に、愚かに迷った者の虚妄の見解です。支持すべき主張ではありません。きっと身命を惜しまず、全力で取り組みなさい。忽然として大笑いすることがあれば、天地がひっくり返るでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)逆行順行・・・:永嘉大師『証道歌』に出る言葉。

 

〇 宰相中将殿の問いに答える

 

 問い。散り散りに乱れ飛ぶような想念が起こる時には、どのように応対すればよいでしょうか。答え。散り散りに乱れ飛ぶ想念というのは、起こる物も、起こす者もありません。ただ眼の病にかかっている人が、空中に花があるように見るようなものです。この花は眼から出たわけでもなく、空中から生じたわけでもなく、ただ眼に病があるから、みだりに空中に花の姿を見るのです。乱れ飛ぶ想念もまたそのようなものです。それゆえに、これを妄見(もうけん、虚妄の見解)といい、あるいは妄想といいます。眼病がなければ妄見はなく、思慮分別がなければ妄想は起こりません。ただ一切の迷って逆転した見解は、虚妄の心が思慮分別することから来ます。虚妄の心が起こらなければ、一切の心境はすべて正真の大道です。このところで即座に徹底しつくせば、あれこれの必要はありません。もしまたそうでなければ、ただ散り散りに乱れ飛ぶ想念のところについて、まっすぐにこれを窮めてみなさい。必ず透脱(とうだつ、束縛を脱すること)する時が来るでしょう。

 

仮名法語 終わり

月庵禅師仮名法語(十七)

〇 在家の人に示す

 

 仏が世に出られる所以のこの一大事は、天に先立ち地に先立ち、昔をはるかに過ぎ、今も超えています。凡人とか聖人とかの境地の中にはなく、考えや分別も及びません。これを名付けて不思議の法と言うのです。この法は、人々に具わっているのですが、みずから悟ることができないので、日々これを使っているのに知りません。目の見えない人が一日中、大通りを歩いているのに自分では見えないようなものです。自分で見ないので、これを信じず、また貴くも思いません。一歩一歩、悪所(輪廻してゆく地獄などの悪道)へ向かっていることに気づかず、ただ今の一生の身の上を良くしようと思うばかりで、いろいろと雑多なことをして、日ごと夜ごと、悪の業を積み増すばかりです。今の一生のことは、たとえ百年の寿命を保ったとしても、ほんの一時の夢の中の楽しみにすぎません。ずっとあることはできないのです。古人いわく、遠くを慮らなければ、近くの憂いがある、と。ただいっときに過ぎない妻子や仲間に愛着し、わずかな五欲(五感の与える欲望)や快楽に縛られて、一生はむなしく過ぎ、永劫という長いあいだ悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に落ちてしまうのは、憐れむべきものです。在家の人は、いかにも才知があるといってもこうしたことを思い知ることはなく、まして修行し仏道を心にかけ、坐禅参究してこの一生で一大事を悟ろうという人は、百人千人に一人いることもまた稀なのです。仏の力が業(ごう)の力に勝らなければ、たとえ仏や菩薩の慈悲・方便(手段)が深いものであっても、自分が造った罪の悪業が重い人をすべて助け尽くすことはできないのです。ただ自分で進み、励まないと、どうして生き死にを断ち切ることができましょうか。そもそもどのような手段で生き死にを断ち切るかというなら、まず大いなる願いの心と大いなる信念とを起こし、二十四時間、あらゆる機会、あらゆる状況、一切の物事を行う場面で、どのようなものが主人となってこのような事を行うのかと追究してみなさい。たとえば百万の軍の陣地へただ一人で乗り込んで、直接大将の首を取って出てこようと思うかのように、志を強く励まして、まっすぐに進んで心掛ければ、必ず無限の時間の生き死にという敵を滅ぼして、天地に先立っている自分の本来の清浄で円満な大いなる自覚の法王がたちまち現れて、世間のこと、世間を超越したこといずれも成就して、大いなる自由自在そのものの境地となり、生まれ変わり世を変わっても大安楽です。疑ってはなりません。

 

〇 病気の人に示す

 

 自分のこの身心は本来、生死を離れています。生死を離れているので、それ以上一切の理屈はありません。たとえいったん、父母の縁によって地水火風(1)が仮に合体したように見えますが、不生(ふしょう、生まれない)の生なので、本当に生があると思ってはなりません。また時期が来て、四大が分離するようにみえますが、不死の死なので、本当に死ぬと思ってはなりません。ただ生死(生き死に)去来(去ったり来たり)、是非善悪、一切のあらゆる物事は、夢まぼろしのようなものです。それゆえに、金剛経に言うには、「一切の有為(生成変化する)の物事は、夢や幻、水の泡や影のようなもの。露のような、また稲光のようなものです。まさにこのように見なさい」と。ただこのような道理を信じて疑ってはなりません。たとえ病の苦しみ、死の苦しみがあるといっても、このような正しい信念を守って一念を動かすことなく、病に任せ、苦痛に任せて、何とも疑い慮ることなく終わりなさい。今の一生で仏法を明らかにできないならば、後の世でどうなってしまうのかと、けっして疑い恐れてはなりません。ただ何とも思わない心、それがそのまま仏法なのです。信じなければ輪廻の業となります。そのまま信じれば、ただちに生死を断ち切るところとなります。疑ってはなりません。

 

(1)地水火風:四大(しだい)という、古代に考えられた世界を構成する四元素。

月庵禅師仮名法語(十六)

〇 また示す

 

 自分の心がもとより仏です。仏というのは、迷わない心を言うのです。迷わないところを悟れば、一切の仏や菩薩はすべて一心のうちに具わって、別の本体があるわけではありません。そうとは言っても、その徳(優れた性質)によって、しばらくの間、名前を付け替えるので、いろいろと名前が変わります。阿弥陀というのは、インドの言葉です。中国の言葉では無量寿(むりょうじゅ)と言います。無量寿というのは、量ることのできない命です。はかることのできない命というのは、生まれるようでありながら全く生まれることがなく、あたかも死ぬようでありながら全く死ぬことがなく、生死がないところ、すなわち人々の自性(じしょう、本性)を言うのである。これを阿弥陀仏と言います。薬師というのは、元来生死のないところを示すのに、仏法の薬で差別の病(本来一心であるものを種々区別すること)を治すということです。そえゆえ生死のないところを悟れば、さまざまな病はことごとく除かれます。それゆえに薬師と名付けるのです。宝生仏(ほうしょうぶつ)というのは、万法(まんぽう、すべての物事)が本来差別なく、一切の有情無情(こころの働きを持つものと持たないもの)も等しく、まったく去るとか来るとか過去や未来の道理がないことを言うのです。釈迦というのは、万法がもとより不生不滅であり、これを「諸法従本来、常自寂滅相(あらゆる物事は本来、常に自ずから寂滅の姿である)(1)」と言います。寂滅(じゃくめつ)の姿というのは、有でもなく無でもなく、前でもなく悪でもなく、生でもなく死でもなく、迷っているのでもなく悟っているのでもなく、様々な優れた姿かたちや理論を離れています。この真実の本体を示すのを釈迦というのです。これら(阿弥陀仏、薬師物、宝生仏、釈迦仏)を四仏と言います。このほかに真言宗は、大日如来を立てます。大日如来というのは、万法の正体であり、一切の根本です。たとえば大いなる日輪(太陽)が虚空に出る時、広く一切の世界を照らしてその跡がないようなものです。観音(かんのん)というのは、慈悲を本体として、音声を働きとします。勢至(せいし)というのは、正しい道理にかなってその力を施すのを言います。文殊もんじゅ)というのは、大いなる知恵を言います。大智(だいち)というのは、さまざまな見解や分別を離れた無智の智を言います。普賢(ふげん)というのは、一切のあらゆる修行を勧めて、僧となり俗人となり、男となり女となり、親となり子となり、主人となり従者となり、あらゆる人を助ける行いをなすのを普賢と言います。地蔵(じぞう)というのは、人々が本来具えもっており、各々が円成(円満に成就)している心地(しんぢ、一切の基盤である心)を言います。心地より一切の物事が出で来たります。たとえば大地が万物を生じるようなものです。虚空蔵(こくうぞう)というのは、自分の心も体も周りの世界もすべて実体はなく、虚空のようなもの。虚空のようなところから一切の物事が仮に姿を現します。それゆえに虚空蔵と言うのです。このような仏や菩薩たちは、すべて一心(いっしん)の徳(優れた性質)です。迷っているとこのことを知らずに、凡夫だと思っています。悟れば別に仏はないということを知ります。けっして外に仏があると思ってはなりません。また別の仏を頼りにしてはなりません。ただ一心が正しければ、一念一念に仏や菩薩が目の前に姿を現すのです。本当にその通りなのですが、このようなさまざまな法門は、少しのあいだ、知恵に暗く迷っている人のために名前を付け、道理を説いて真実のところを悟らせるための方便門(手段)なのです。真実のところに到達すれば、仏もなく菩薩もなく、心もなく仏法もなく、迷いもなく悟りもなく、さまざまな縛りを離れます。このところをまっすぐに信じて坐禅修行をするなら、火が燃える中に雪が積もらないようなもの。どのような道理であっても、懐に掛けとどめてはなりません。たとえ習慣のようになっている思いが起こってきても、すぐに切って捨てて二度継いではなりません。三世(さんぜ、過去・現在・未来)の諸仏や菩薩がた、歴代の祖師がたがこの世に出られ、人々のために導かれる本心はこのようなものなのです。疑ってはなりません。

 

(1)「諸法従本来・・・」:法華経方便品に出る語。

月庵禅師仮名法語(十五)

〇 明貞道人に示す

 

 自分のこの身心全体は、もとより迷うことのないものです。それゆえにこれを名付けて仏と言います。そもそも仏というのは、容貌が厳格で赤々とひかり輝き、自由に空を飛び、神通力で姿を変えるといったことを言うのではありません。そのような仏は、ただいっとき、無知な凡夫のために優れた姿を現して信仰を生じさせ、真実の道に導きいれるための手段なのです。真実の仏というのは、有相(姿かたちのある)のものではなく、さまざまに執着する心がなく、念々に精進をする姿、そのものなのです。また自分のこの身も、本当に姿かたちがあると思ってはならず、四縁(しえん)(1)が仮に合わさってできただけです。四縁というのは、地水火風です。この地水火風は、姿かたちがあるようには見えますが、実際には姿かたちはありません。夢まぼろし、水の泡や影のようなものです。この四縁が仮に合わさって人となると、自分ではないものを本当に自分であると思って我執を深くします。それゆえ自分に従う者を愛して喜び、自分に背くものを憎みねたみます。この心が悪道に落ちる業(ごう、自分の行いの結果)となって、生まれ変わり世を変えて輪廻の苦しみが絶えませんが、これもまた別のことではありません。直に仏であるといっても、愚かな人はまったく信じることなく、その教えを用いることができません。それゆえに、釈尊は、韋提希婦人(いだいけぶにん)(2)のために西方極楽世界、阿弥陀仏を信じて念仏称名して一心に念じれば臨終のときに必ず迎えに来てきっと往生すると説かれました。これを信じてひとえに他力を頼み、念仏するなら、どのような極悪な人でも仏法との縁が絶えることはなく、後には必ず極楽往生して十二大劫という長いあいだ蓮の腹に身ごもられて、その後、観音菩薩勢至菩薩などの菩薩が大乗仏教の真理をお説きになるのを聞いて、初めて菩提心仏道を求める心)を起こすだろうと言われます。自分の心がそのまま仏であることを信じない人のために、その人の素質をあれこれ言わずに(3)方便を用いてこのように説くことは最も大事なことでしょう。少しでも霊性のある人は、十二大劫の過ぎた後で初めて道心を起こすはずのことを延々と待つべきではなく、ただまっすぐに道心を起こして直ちに仏法を明らかにすべきです。そうであれば、釈尊阿弥陀仏の本意にかなうでしょう。そもそも仏法を直ちに明らかにしようと思うのなら、ただ心に生じてくる一切の念、あらゆる行いは、すべてこれ仏です。このように直接示してもやはり疑いがあって真理に遠いように思われるならば、まず心の一切の念をやめて、何ともかんとも知られないところにむかって坐禅参究しなさい。心を静めて坐禅すれば、何ということのない思いが始終起こってきて、その後は眠るばかりです。念が生じるのも眠気が来るのも、みなこれ仏の心です。すべては別のものではないと深く信じて、嫌いいやがる心を起こしてはいけません。ここにおいてまた何とも知ることができないので、何か茫々暗たんとして取り付くところがなく、進むべき道もないと思って退いてはいけません。もし少しでも取り付くところがあるならば、それは生死の絆(きずな)です。何とも知ることのできないところ、それがそのまま生死を出る路であると、深く信じて疑わず、夢が覚めるようにして、一切の疑いがたちまちやむ時が来るでしょう。この時はじめて自分のこの身心が何でもありはしないことを悟って大いに笑うでしょう。またたとえ今の一生でこのように明らかにすることが間に合わなくても、こう信じる力が強ければ、業に引かれて悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に落ちることはありません。再び人の身を受けて幼いころから仏法に入って、すみやかに悟る人になるでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)四縁:物事の原因を四種に分類した説を言うが、ここでは地水火風(四大)と捉えている。四大は古代に考えられた世界を構成する四つの元素。

(2)古代インドのマガダ国のビンビサーラ王の妃。夫が子のアジャセ(阿闍世)王に幽閉された時、釈尊に教えを請い、釈尊が浄土往生を説いたとされる。観無量寿経に出る。

(3)原文は「機をもをさゝる」とあるが意味が取りにくく、ここでは「機を申さざる」と理解する。

 

 

月庵禅師仮名法語(十四)

〇 豫洲太守(1)に示す

 

 即心是仏(心がすなわちこれ仏である)。外に向かって仏を尋ねてはなりません。即心是法(心がすなわちこれ仏法である)。他にさらにどのような仏法を求めましょうか。これら真実の一句は人の常日頃の心情を絶って思考の働きは停止してしまいます。智慧の優れた人は言下にたちまち悟って、一切の疑心が一度にやんでしまう。素質の優れない者はそのような事を聞いても直ちには信じず、ただ難行苦行をして、長い間功徳を積んた後で仏になろうと思い、朝夕仏を念じ、お経を読み、焼香、礼拝、散花行道(さんげぎょうどう(2))、あるいは布施や持戒(戒律を保つこと)、忍辱(耐え忍ぶこと)精進(励み務めること)といった修行をし、あるいは長時間座って横にならず、仏を念じ仏法を思う。はなはだ愚かしい者は、断食をし、塩を絶ち、肘を断ち指を切り、無言の行や裸形(はだか)の行などのあらゆる苦行を行う。これらはただ今の一生で直にさとるべきことに思いも寄らず、ひたすら生まれ変わった後の世での成仏を希望するばかりなのです。このように仏法を遠く思いなす心があるのであれば、たとえどのように我が身や命や財産を捨てる苦行を行うといえども、すべてはれ有相執着(うそうしゅうじゃく、姿形をあるものと思い捉われる)の間違った信念であるのですから、ついに正しい仏道を成就することはできません。たとえ、いったん、果報の力(善行の結果生まれる力)を得て、地位が高く人徳が優れ、幸福や安楽が思いのままになったとしても、善行の力が尽きてしまえば、また戻って悪道に落ちるでしょう。昔の人はこれを「住相の布施は生天の福、猶お箭(や)を仰いで虚空を射るが如し。 勢力つきぬれば箭還って堕つ、来生の不如意を招き得たり。 いかでか似かん無為実相の門、一超直入如来地(姿形の世界に捉われての布施は、天に生まれる福徳を与えたとしても、やはり矢を天上に向けて射るようなもので、勢いが尽きれば矢は落ちてしまい、来世の不幸を招いてしまう。どうして生滅を超えた真実世界の門より優れたことがあるだろうか。ひと飛びで如来の本地へ直に入るのだ。)(3)」と言ったのです。まずこのような道理をわきまえて、姿形の世界の仏を望んではなりません。たとえまた即心是仏を信じる人でも、素質が優れないことから、直に透脱(とうだつ、姿形の世界を超えること)することができず、ただ外に仏を求めてはならないので、自分の心がそのまま仏なのだと信じるばかりです。あるいは、即心是仏というのは、ただ他に特別な道理があるわけでもなく、物を見、声を聞き、ないし一切の事を行う所が、ただそのままで二度念をつがないことでよいのだと思っている。このような人は、ただ当て推量をして信じているだけで、実際に悟らないので、ただ口では即心是仏と言い、心で即心是仏と思っているばかりで、徹底して落着することはないのです。それゆえ、ややもすれば疑心が生じて来て、まさかたったこれだけのことではないだろう、この上にもっと何かあるだろうと思うのです。このような思いに邪魔されて、本心をくらましてしまうことを知りません。あるいは本当に仏道を求める心はなくて、なまじ小智慧があって賢しい人は、高飛車な禅のやり方を好んで、即心是仏という法門はただ赤子が泣くのをとめる匙加減であり、まったく迷っている在家の人などのためにはそのような法門を勧めて導く方便もあるだろうが、仏や祖師方の最終的な境地をもってこれを見ればまったく浅いものである。こられの法門をもって究極だと思って留まる人は、本当に仏や祖師方の骨髄を知ることはできないなどと思っています。これは思いあがった慢心であって実際の悟りがないので、このような人はついに外道(げどう:仏道以外の教え)や天魔(てんま:仏道を妨げる悪魔)の仲間となってしまうでしょう。むかし、大梅和尚が馬祖大師に仏とはどのようなものかと尋ねました。馬祖が答えて言うには、「即心即仏」。大梅はこの言葉でたちまち大悟して疑いの心がすっかり止んでしまいました。「獅子の一滴の乳が百斗の驢馬の乳を四方に散らす」(4)とはこのことです。ある時、一人の僧が来て語って言うには、最近馬祖大師の法門は異なっています、人に道を示すのに、多くの場合「非心非仏」と言っています、と。大梅が答えて言うには、あの親爺、人を惑わしてまだそんなことを言っているのか。非心非仏ならそれでもよい。私はただこれ即心即仏だ、と。実際に悟った人はこのように足が実地を踏んでいるので、まったく躊躇って振り返ることがありません。また、水潦(水老)和尚が馬祖に達磨大師が西へ来た本当の意図は何でしょうかと尋ねました。馬祖が言うには、礼拝しなさいと。水潦がわずかに礼拝しようとすると、馬祖はたちまち胸のあたりを蹴飛ばしました。水潦は忽然として大悟しました。起き上がって手を打って大声で笑って言うには、何ということか、何ということか、幾多の三昧(雑念の無い済んだ心の状態)、無量の優れた教義も、ただぎりぎりの所に向かって根源を知れば、流れの源に行き着き、雲の沸くところを見るだけだ、と。それから後は、何か尋ねられることがあっても、ただ大声で笑うだけだったといいます。このように、徹底して身を翻すならば、どうして仏法の勝ち負けとか、公案の深浅とか、あれこれ、究極だ方便だと論ずることがありましょうか。本当に優れた人は一度に決定して一切が了ります。中くらいの人は多くを聞きますが疑念も多い。ただ猛烈な志のあるような人は、わずかばかりの修行の功徳を要することなく、一言一句のもとにきっぱりと断ち切って、さらに疑念を重ねません。もしまた志が弱く、素質の劣った人は、このように脱することができなければ、ただ念々、志を励まして絶え間なく、心とも仏とも何ともかとも思いはかることなく、ただ志を命とし、願いを力として、道のないところに向かって歩みを進めてごらんなさい。必ず、覚えず知らないうちに、十方(上下、四方八方)の虚空がその身と一体となり、一挙に打破する時がやってくるでしょう。この時に初めて知るでしょう、即心即仏、非心非仏、そのほか一千七百の公案および無数の法門は、すべてこれ門を叩く石であったことを。こういうわけで、「骨をくだき、身を粉にしてもまだ報いるに足りず、一句において決定して百億の方便を越える」というのです。本当に仏や祖師方の方便や教導によらずしては、いったい何劫を経た未来に生き死にや苦しみを離れて大いなる解脱、大いなる安楽の田地(でんち、立脚地)に到達するでしょうか。この恩に何をもって報い尽くすべきでしょうか。針芥相投の譬え(5)はまったく疑いがない。このように、わが身の大願が成就すればそれで満足だと思ってはなりません。なお縁のない衆生を救い尽くし、等しく仏道を成就させようと思う大願を起こして、在家の人、出家の人一切の人を憐み、恵み、救い導く大慈悲心を起こしなさい。これこそ本当の仏祖の弟子、末世のこの世に再来した菩薩に違いありません。努めなさい。努めなさい。

 

(1)豫洲太守:豫洲は伊予国(今の愛媛県)、太守は領主のこと。

(2)散花行道:仏の周りをまわりながら地に花を撒くこと。

(3)住相の布施は・・・:永嘉禅師『証道歌』の言葉。

(4)獅子一滴乳・・・:底本の頭注では、「悟り了れば煩悩即ち菩提となるの意なり」とされている。

(5)針芥相投:磁石が針をひきつけ、琥珀が芥をよく拾うように、互いに合致することを言う喩。

 

月庵禅師仮名法語(十三)

〇 道漸居士に示す

 

 我が身は本来、実体はなく、ただ父母の縁によって四大(しだい)が仮に合わさって成ったまでです。四大とは地水火風です。地大というのは、髪や毛や爪や歯や皮膚、肉、筋骨、垢などの物体です。水大というのは、唾や涙や膿や血、その他の水分、痰、大小便などです。火大というのは、暖かみのこと。風大というのは、動く姿です。この四大が合わさって、その中に対象を認識する気があるのを思慮分別の心と名付けたのです。この四大が分離する時、水はもとの水に戻って五体は乾いて潤いがなくなります。火はもとの火に帰って全身が冷えて暖かみが消えます。風はもとの風に帰って全身はすくんで動きません。このようになってから焼いたり、あるいは埋めたりすればもとの土に帰ります。認識する心は、四大が分離するとき、一緒に散りじりになって消滅します。迷っている凡夫は、この四大が仮に合わさるのを本当に生じることだと思い、この四大がもとに帰るのを本当に滅することだと思っています。こういうわけで、生き死にがないところに生き死にを見、身心がないところに身心があると思って、自分というものにとらわれる心が深いのです。それゆえ輪廻する業の報いが絶えません。このことを悟る人は、四大の姿かたちは、空を舞う花のようなもの。あるように見えるといっても実体はありません。生死が去来するのもまたこれと同じです。一切の姿かたちは、夢まぼろしのようなものだと悟って、あらゆる事柄において執着の心がない。執着の心がなければ生き死にはたちまちに絶えて、輪廻は永遠に止みます。まずこのような道理をよくよく思い知って、坐禅探求をしてください。坐禅探求するとき、また他の心の用い方があるわけではありません。ただこれと言って慮る心なしで、直に行ってください。この時、取り付くところもなく、進む方向や場所もなく、道は絶えてしまい、進めないと思ってへこたれてはいけません。もし進む方向や場所があり、取り付くところがあるなら、それこそが生き死にの根本なのです。もろもろの道理を離れて、何ともかんとも慮ることができないところ、そこがすなわち生死を離れる時なのです。このようにそのまま信じて、生涯疑わず、探求し、心を用いるなら、生き死にがやって来る時、必ず力を得て、正念(しょうねん、正しい心の持ち方)に安住して終わるでしょう。このことに思いをかけなさい。

月庵禅師仮名法語(十二)

〇 簡入禅人に示す

 

 四大(1)はもともと、主体がありません。五蘊(ごうん)(2)は本来、空(くう、実体がない)です。たとえ父母の縁を借りていったんこの世に生じたように見えるといっても、実際には生じるものはありません。またこの人間界の縁が尽きて、しばらく滅するように見えても、実際には滅するものはありません。これを水中の月、鏡に映る姿に譬えるのであり、その姿があるように見えたとしても、それはただ光影(見え姿)に過ぎず、本当の主体があるわけではありません。このことを悟る人は、生き死にをも恐れず、涅槃(輪廻を脱した悟りの境地)をも愛さず、煩悩をも断ち切らず、菩提(悟りの知恵)をも求めません。生まれ出ることも死に入ることも、自由自在に遊ぶかのようなもの、順境も逆境も、優れた働きを示して滞ることがなく、千回生まれ変わり一万劫という長い年月を経ても、まったく移り変わるという道理がありません。ただそれぞれの特性にまかせ縁に従っているまでです。さかさまに見ている迷った衆生は、このような道理を知らず、ただ目の前の姿に迷わされて、肉体にふけり声に捉われ、香りを愛し味を好み、さまざまな姿形に執着の心を深くして、即座に離れることができません。これを生死のきずな(生き死にの世界に深くつながれていること)と言うのです。たとえまた、このような世間の姿やさまざまな欲求を恐れる人も、生死がないのに本当に生死があると思い、さまざまな姿形がないのにさまざまな姿形があると思うことによって、いよいよ迷いに迷いを重ねて、即座に想念がやむことがかなわないのです。それゆえ、さまざまな仏や祖師方、善智識(指導する僧)がこの世に出られて、教え導き、直に見て、直に聞き、直に行い、直に悟らせるのです。素質の優れた人は即座に納得して、さらに重ねて生死の念を持ち続けることはなく、一切の疑いの心はその場でたちまち止んでしまう、これをその場で成仏する人と言うのです。素質の中くらいの人や劣った人は、このようになることはできず、ややもすれば道理に執着する心が絶えません。それゆえしばらく想念をおさめ、心をやめて、一切慮ることなく、坐禅して探求せよと教えるのです。この教えに従って、さらに重ねて疑うことなく、さまざまな道理や思慮を絶って、まったく死んだ人のように何の心もなくして直に参究するなら、本来の面目(元来の真実の姿)が脱体現成(だったいげんじょう、物の束縛を脱して仏性が現前する)するでしょう。この一念の信念を堅固にもって、別の念をまじえなければ、それはただ今の人生のみではなく、生まれ変わり死に変わりしても悪道に落ちず、大解脱した大安楽の人となるでしょう。たとえまた命が尽きる時に、どのような病気の苦しみや死の苦しみに強くおかされても、また数知れない善悪の様子が現れたとしても、一念も動ずることなく、さまざまな姿形に目をかけることなく、何とも思わずに命を終えるならば、それがそのまま生死裁断(しょうじさいだん、生き死にを断ち切ること)の時にほかならないのです。疑ってはなりません。

 

(1)四大:物質の世界を構成すると考えられた四元素、地・水・火・風。

(2)五蘊:物質を表す色(しき)、精神の要素を表す受(じゅ、感覚)、想(そう、表象)、行(ぎょう、意志)、識(しき、認識)の五つで物質界精神界の全体を表す語。

月庵禅師仮名法語(十一)

〇 在家の人に答える

 

 およそ坐禅の修養は、初めからどのような道理をも心にかけることなく、ただ仏法を明らかにしたいと思う志を命としてこころがけるべきです。極め来たり、極め去り、仏法を明らかにしたいと思う心も、自然と忘れ果てて、ただ身は体ばかりが立ち働いているかのようになる時、悟ろうと思う気持ちもないときに、即座に夢が覚めるようになる時があるはずです。この時、有るとか無いとか、生じたとか滅したとかいう様々な道理にかかわることなく、別に透脱(ものの呪縛を離れる)の活路があります。初心の人はこのような事を知らず、日ごろの心持ちに変わってあるいは無と思い、あるいは空と思う見解が浮かんでくるのを本当の悟りだと思って、真実の善知識(指導者)にも会わず、自分の胸中はもはや明白だと思って慢心を起こすので、かえって邪魔となってついには無間地獄に落ちます。このような間違った見解の者は、仏法を志す心のない者よりも遥かに劣っています。それは、仏法を志す心のない者は、不思議なご縁に会って、初めから真実の指導者に勧められて仏法に入る道が正しいということもあるでしょう。しかしこのように間違った見解の者は、自分で苦しんで悟り出した者であって、指導者に教えられたのでもなく、また人から伝えたのでもなく、これを「教外別伝」だと思って、人の言う事にも耳をかさず、ただ自分の感情に基づくだけなので、悪道に落ちるのです。古人が「善い原因であるといってもかえって悪い結果を招く」と言っているのはこのことです。苦心して正しい仏法を明らかにするのでなければ、結局地獄に落ちてしまうことは悲しいことであり、きっと慎まねばなりません。まずこのようなことをよくよく理解して、初めから道理を作らず、赤ん坊が有るとも無いとも世間の道理とも仏法とも知らないごとくに、あれこれと心にあてがうことなく、ただ道心だけが真実の悟りだと思って、悟りを待つ心があってはなりません。そのように思えば、悟りを待つ心に隔てられて、速やかに悟ることができず、ただ心身を放って何ともならばなれ、また自分の心に立ち返って、有と思い無と思い、また何者が自分の主体なのかと思うさまざまな道理を作らず、二十四時間、行住坐臥、心をこめて用心するならば、必ず大願成就するでしょう。

 

〇 宗通居士に示す

 

 そもそも心が迷えば仏はそのまま衆生となり、心が悟れば衆生はそのまま仏となります。それゆえに仏と衆生とはまったく別物ではなく、ただこれ迷っているか悟っているかという見解の違いがあるだけです。迷いと悟りという異なる見解がなければ、心でもなく仏でもなく、物でもない。一切の道理を離れて、全身が一塊の鉄のごとくです。生まれ出るのも死に入るのもただ一時の縁に従っているだけで、来たり去ったりということもなく、その跡形もなく、依拠するところもなく、留まるところもありません。鏡がそこに映る像に対するようであり、また谷がこだまを受けるのに似ています。内に主体というものはなく、外に対象はありません。地獄も天国も心に任せて遊び、苦楽や逆境順境もそれぞれの所に従って自在です。どこに生死を恐れるところがありましょうか。どこに禅の道といって求めるべきものがありましょうか。大千世界は海中の泡のようなもの、一切の聖人賢人は稲妻のようなもの。ここに至って手をあらゆる聖なるものの外へと放しながら、足はただ今の俗世の苦労の中に巡らせて、道理のないところに道理を立て、是非のないところに是非を見分けます。これは、世間の迷いの中にある凡夫が無い物を有ると執着する見解ではありません。ただ無心のところにおいて一切の物事を決してゆくのであり、これを俗世でも超俗の世界でも為すべきことを終えた大丈夫の漢(だいじょうぶのかん、立派な人)というのです。仏や祖師も彼の居場所を知らず、悪魔や外道はどうして彼の姿を伺うことができるでしょうか。あなたがもしこのところを完全に会得しつくせば、無限の昔からの無知や煩悩は、今の一念のうちにことごとく消滅して、諸事において妨げるものなく大いなる解脱を得、大安楽の人となるでしょう。まだそのようでなければ、しばらく引き下がって、自分についてその心の源は何かと究めてみなさい。ただ坐禅をするときだけではなく、二十四時間、行住坐臥、見たり聞いたりするとき、服を着、食事をし、あるいは一切の事を行うところにおいて、鋭く目をつけて直に見、直に究めなさい。修練が混じりなく熟するなら、必ず大いに透脱する(物事の呪縛を離れ解脱する)時が来るでしょう。疑ってはなりません。

月庵禅師仮名法語(十)

〇  信秀禅人に答える

 

 坐禅の探求を行うとき、ただ昏散(こんさん(1))ばかりで、即心即仏(そくしんそくぶつ、その心のままで仏)にもなり得ない。もし昏散もない時、即心即仏とも、本分の所とも言うべきでしょうか。特別に得法(とくほう)といって悟りを開くときがあるのでしょうか、とのお尋ねを承りました。そもそも昏散は、もとより嫌うべきことでもありません。昏のときは、全体ただ昏、散のときは、全体ただ散。一つでもなく二つでもなく、同じということもなく、別ということもない。すなわち、これを即心即仏とも、またまた現成(げんじょう、目の前にありのまま現れること)する本分の事とも、本来の面目とも、天真の自性ともいうのです。迷う人は、ただこの直心(じきしん、直観の本体)を知らず、ややもすれば思考を働かせて、昏散を嫌い、昏散のないところに向かおうとします。このような心自体が自分にとって妨げとなるので、昔の人はこれを昏散の二病と言ったのです。もし直心を覚るならば、いったいどんな病があるというのでしょうか。一了一切了(ひとたび悟りおわれば一切おわる)。一明一切明(その場で明らかとなればすべて明らかとなる)。心々不可得(心をこれと把握することはできない)。念々大解脱(一念一念はすべて大いなる解脱となる)。このほかに、さらに生まれたり死んだり、来たり去ったりという姿形を求めても得ることはなく、一切の物事は本来寂滅(じゃくめつ、生滅が終わるところ(2))です。返す返すも、昏散がないところを即心即仏の本分の所と思ってはなりません。そのように思うならば、二法(二つに分裂した事柄)となってしまい、一心の道を見損なってしまいます。もしそのような考えを持つなら、みずから間違った見解を抱いて、長く暗黒の地獄に落ちてしまうでしょう。恐ろしいことです。恐ろしいことです。また、とりたてて仏法を会得して悟りを開く時があるのかという疑問ですが、これは迷った転倒した見解であり、正しく信じる道を知らないからです。ただ一念において解脱するなら、すなわち本来迷いも悟りもありません。心によって心を求めてはなりません。衆生は転倒して(ひっくり返った見解をもって)己を見失って物を追いかけるというのは、このことです。ただ、是非とも昏散の二病を心にかけず、ただちに一切の分別を断ち切って、念を追って念をつかず、勇気をもって心を励まし、死に至るまでこのように修練しなさい。必ず仏祖の教えの外に透り抜ける一路を得るでしょう。たとえまた今の一生で悟ることが遅くとも、このように修行するならば、六道四生(ししょう、(3))に輪廻する苦しみを離れて、必ず清らかで大いなる解脱という宝の在りかに到達するでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)昏散:昏は、意識がもうろうとしてはっきりしなくなること。散は、逆にいろいろな想念が浮かんで一つに集中しないこと。

(2)寂滅:『涅槃経』のいわゆる「無常偈」と呼ばれるものに「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(諸行は無常である。これは生滅の法である。生滅が滅し終わって、寂滅を楽と為す)とある。

(3)四生:衆生を生まれ方で四種に分けたもの。胎生(母胎から生まれるもの)卵生(卵から生まれるもの)湿生(湿気から生まれる虫など)化生(自らの業の力で生まれるもの)の四つ。

 

 

月庵禅師仮名法語(九)

〇  宗真居士に示す。

 

 諸仏が世に出られ、また達磨大師が西から来られたが、かつてたった一つの真理でも人に与えたものはありません。ただ人々が本来もっている自分の本性(ほんしょう)を直接さし示すだけなのです。そもそも本来もっている自分の本性というのは、教家(きょうけ、教えに基づく宗派のこと)があれこれと言う理性の意味ではなく、ただちに教外(きょうげ、教えのほか)の宗旨のことであり、全体作用(ぜんたいさゆう、仏性そのもののはたらき)のところなのです。計らいや思慮の及ぶ所ではありません。それゆえ、昔の人は、誰かが少しでも口を開いて「どのようなものが・・」と尋ねようとすると、たちまち大声を発し(喝)、たちまち棒でなぐりつけ、あるいは押し出し、あるいは踏み倒します。これは骨までしみとおるような慈悲であり、老婆のごとき非常な親切なのです。どのような恩の力もこれには及びません。素質が高く智慧が鋭い人は、即座に身を翻して跡を残さず、思いは世界の外へ超え出て高らかに笑うのみで、どうして禅の道だとか仏法だとか、迷いや悟り、凡人と聖人などといった考えがありましょうか。大千沙界(無数にある世界)は海の泡のようなもの、森羅万象は赤く燃える囲炉裏の上の雪のようなもの。素質の中くらいの人や劣った人はこのようにはならず、ただちに脱することができません。それゆえ昔の人はやむを得ず、まげて方便をつかって、坐禅したり教えを学んだり、修行し、努力することを勧めるのです。坐禅し、教えを学び、修行し、努力することはまた、別の道理があるわけではありません。ただ直(じか)に見て、直に行う所です。初心者はこれを知らず、坐禅修行のことを、優れた師のところへ行ってその教えのとおりに努力して、仏法を会得し、悟ることだと考えて、死んだ手本を探し求めて、どんな公案(こうあん)でも私にお示しくださいと言う。近頃はこのような風潮が非常に盛んであり、もしこのようにして仏法を明らかにしようと思うのであれば、棒を精一杯上に上げて太陽を打とうとするようなものです。いったいつ打ち当てることができましょうか。また空中にはしごをかけて、天に昇ろうとするようなもの。無限の時を経ても昇ることはできないのです。愚かな人が仏法に入って、むなしく苦労ばかりしてついに成就することができないのはこのようなものであって、実に憐れむべきものです。あなたはまず、よくよくこのような事を承知して、骨に透り、髄に透るほどの真剣な志を奮い立たせて、大いなる誓願の心を起こして、四六時中、行住坐臥、あらゆる事を行うところで、念々に怠らず、しっかりと眼をつけて、直に身、直に進んで、第二念(起こった想念にさらに加えて念を起こすこと)を起こさず、前後左右を顧みず、思いを巡らして考慮したり、さまざまな理屈を立てたりしてはなりません。もしそのように親身に努力するなら、修行が熟して、探求する心がみずから尽きる時、必ずや忽然として夢からさめるようにして、大いに悟る時があるでしょう。疑ってはなりません。

月庵禅師仮名法語(八)

〇  了仁居士に示す

 

 生死事大(しょうじじだい、生死の事は重大であり)、無常迅速(むじょうじんそく、無常は素早く到来する)、百年という月日も一回指をはじく間のように一瞬です。この身がむなしいものであることは、風が吹く前の塵、草葉の上の露と同じ、あるいはまた稲妻のひらめき、水の泡のようなもの、出る息、入る息を待つことはなく、今日とか明日とかと推測することも難しいのです。この間、たとえ栄華や富貴が思うままであったとしても、ただ昨日の夢のようなもので、長らく保つことはできません。今の世での楽は、必ず後の世での苦しみとなります。ひとときの楽を誇りに思って、永遠の苦しみを受けてはなりません。たまたま受けがたい人の身を受け、あい難い仏法にあって、仏道を求める心もおこさず、仏法をも悟らないのであれば、一度人の身を失ってしまえば長く地獄に沈み果ててしまうこと、悲しまずにおられましょうか。それゆえ昔の人が言うように、光陰矢のごとし、歳月人を待たず、この身を今の一生で救うことを目指さずに、いったいどの一生で救うというのか、と。もしこの身を救おうと思うなら、まず生死という重大事を明らかにしなければなりません。生死の重大事というのは、生まれてもそこから来たという所を知らないこと、これが生が重大だということです、死んでもどこへ去るかということを知らないこと、これが死が重大だということです。それゆえ生死が重大事だというのです。この生死が行き着くところを知らなければ、生まれ変わって何度世を変えても、真っ暗な所をさ迷い、茫漠とした苦しみの海に沈んで、六道輪廻の苦しみがやむことはありません。このようなことをまずよくよく思い知って、大いなる誓いの心を起こし、勇猛な志を推し進めて、生死の根源はいかなるものかと極め見なさい。生死の根源というのは、ただ自分が日夜に発する心の念なのです。そもそもこの心の念がいったいどこから起こり、またどこに去るのかと、少しも怠ることなく、真剣に目をつけて極め見なさい。ただ坐禅の時だけでなく、四六時中、一切の事をするようなときも、そのように志を忘れず、用心して見るのです。修行が熟せば、必ず大いに悟る時が来るでしょう。この時初めて知るでしょう。自分のこの心の想念は、もとより起こる所もなく、去る所もなく、とどまる所もないということを。生死もまたそれと同じです。生まれても、もとより来るところもなく、死んでも本当に去る所もなく、現在もまたとどまる所もありません。三世(過去・現在・未来)の心は捉えることができず、跡形もありません。このように明確に悟ることができれば、自分のこの身が衆生でもなく、仏でもなく、生じるでもなく滅するでもなく、始まりのない無限の過去から終わりのない無限の未来に至るまで、どんな姿もなく、どんな道理もない。これを一片々了々の田地(いちへんぺんりょうりょうのでんち)と言います(1)。この無心の境地に至ることができれば、一切の姿かたちを破ることなく、あらゆる道理を嫌うこともなく、縁に従い、物事に対応して、無限の働きをするのです。ここのところを、所に従って主となれば立所皆真(りっしょかいしん)、我れ法王となって法において自在なり、と言いました。生死の中に出入りして、ついに生死をうけず、苦楽の状況に対面して、また実際の苦楽がありません。このように大安楽、大解脱の身となるはずの事を知らず、ただ何ということのないことを考え、振舞って、無駄に月日を送り、むなしくこの身を捨ててしまう事は、本当に憐れむべき者です。必ずこのような事をよく思い知って、自分の心の師となって、自分の心に基づかずに、常日ごろ我が身をいましめ、辱めて、綿密に用心しなければなりません。後悔を残してはいけません。心しなさい、心しなさい。

 

(1)一片々了々の田地:出所不明。その都度都度の現実に法体が明々に表れていることを言ったものか。

 

 

月庵禅師仮名法語(七)

〇  在家の女性に示す

 

 自分の心は本来これ仏なのです。千回生まれ変わり一万劫という長い時間を経ても、けっして迷ったということはないのです。迷ったということがなければ、また悟らねばならない真理というものもありません。すでに迷いとか悟りとかいうことが無ければ、そのままで真実であり、元来、生死を離れています。生死を離れているので、来るといってもそこから来る所もなく、去るといってもそこへ去る所がなく、とどまるといってもとどまる所がありません。三世(過去・現在・未来)の心は把握することができないので(1)、すべての物事は、みな等しく解脱(げだつ)しています。どこに滅ぼすべき無明(むみょう、真理に暗い無知)がありましょうか、どこに断つべき煩悩がありましょうか。善悪がないので地獄も天国もありません。邪正がないので仏の世界も魔の世界もありません。心念が生じるようでいてまったく生じてはおらず(不生)、心念が滅するようでいてまったく滅してはおりません(不滅)。それゆえに、一切すべての物事、心を持つものも持たないものも、最終的に空寂(くうじゃく(2))なのです。このような本来の真理を知ることなく、ただ目の前の姿形について限りない妄念を起こし、生死がないところに生死を見、迷いも悟りもないところに迷いと悟りを分け、何度も生まれ変わって輪廻を繰り返す業(ごう)が絶えないのです。それゆえ法華経に、「舎利弗当に知るべし 鈍根小智の人 著相憍慢(じゃくそう・きょうまん)の者は是の法を信ずること能わず(3)(舎利弗よまさに知るがよい、素質が悪く智慧の乏しい者、姿形に捉われて驕り高ぶる者は、この真理を信じることはできない。)」と言うのです。それゆえ、龍女が成仏した(4)のは初めて成仏したのではありません。ただ本来これ仏である道理を明らかにしたのです。実際に男女の相があると思ってはなりません。そえゆえに龍女は姿を変えて男子となったと言うのです。また元来迷いも悟りもありませんから、たちまち南方世界に行ったと言うのです。このように身心が本来清らかである事をそのまま信じるなら、たとえ今の一生で悟ることがないといっても、この信じる力によって未来永劫悪道(地獄・餓鬼・畜生道)には落ちず、成仏することは疑いありません。

 

(1)「三世の心不可得」:金剛般若経に、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とある。

(2)空寂:実体がなく有無、生滅を越えている。

(3)方便門に出る語。

(4)法華経提婆達多品に出る話。

 

〇  慶中大師に示す

 

 様々な仏が世に出られたことも、祖師西来(そしせいらい、達磨大師がインドから中国に来たこと)もすべて、ほかの事ではなく、ただ人に本来備わっている自らの本性を直接指し示すだけです。その本来備わっている自らの本性とはどのようなものかと言うなら、見聞覚知(けんもんかくち、見聞きすること)語黙動静(ごもくどうじょう、話しても黙っても、動いても留まっても)あるいは一切の働き、一切の境地、すべてがそれです。少しでも想念を起こしてなるほどと頷こうとすれは、たちまち離れてしまいます。それゆえ、臨済禅師の門下に入れば、すぐさま一喝を浴びせ、徳山禅師の門下に入れば、すぐさま棒で殴りつけ、どうしてためらいや思案の入る余地がありましょうか。あなたはただその場で見てとりなさい。このほかにさらに何事を説くというのでしょうか。

 

〇 かさねて示す

 

 仏祖一段の大因縁(仏や祖師方が世に出られる所以であるまさにこのこと)は、天をおおい、地を覆って行き届かないという所はなく、過去に渡り、現在に渡って断絶した時というものもなく、これはまた心を持つだとか持たないとかの境地を超えていて、どうして思慮分別が及ぶところでしょうか。それゆえ昔から確かな目をもった尊敬すべき師が人に示すために、少しでも心の働きが出る前に直ちに裁断して疑念を入れさせず、まるで稲妻が走り、流れ星が飛ぶようなものです。たとえば、ある僧が雲門禅師に尋ねた。仏とはどのようなものですか。答えて言った。乾いた糞の棒だ。また尋ねて言った。一念も起こさない時は、落ち度があるでしょうか、無いでしょうか。答えて言った。須弥山(しゅみせん、世界の中心にある高い山)のようだ。ある僧が趙州禅師に尋ねた。犬には仏性があるでしょうか無いでしょうか。答えて言った。無。またある時言った。有。また僧が尋ねた。祖師(達磨大師)が西からやってこられた意図は何でしょうか。答えて言った。庭先のイブキの木。倶胝(ぐてい)禅師はおよそ何か尋ねられると、ただ指を一本立てた。魯祖禅師は僧がやって来るのを見ると壁を向いて座ってしまう。臨済禅師はすぐさま喝し(大声で叫ぶ)、徳山禅師はただちに棒で殴る。素質がよく智慧の優れた人は、即座に身をひるがえして古来の路に行き、手放しですべての働きが生き生きと卓抜である。素質や知恵が中ほどか劣っている人は、反応が遅いし鈍く、そのようにはいかない。それゆえ昔の人は、仮の手段を設けてしばらく坐禅して探求することを進めるのです。そうはいっても、坐禅して探求しても悟ることが遅くて、ひょっとすると十年、二十年を経る人もいる。また一生のうちについにかなわずに空しく終わる人もいる。これらは皆、正しく信じる心がなく本当の志が薄いことによるのです。洞山禅師がある僧に尋ねた。世間でいったい何が最も苦であるか。僧が答えて言うには、地獄が最も苦である。洞山が言うには、地獄はいまだ苦ではない。袈裟を着ていながら仏法を明らかにせず、人の身を失うこと、これが大いなる苦しみであると言う。まずこのことの意味をよくよく理解してください。そもそも在家の人は、非常に多くの重罪をおかし、口業(くごう、言葉によって悪い結果を招くこと)も深いので、地獄や餓鬼といった諸々の悪道に落ちるとは言っても、不思議な仏法の縁にあってそこから浮かび出て、また人の身を受けることもあるでしょう。しかし出家の人で道心がないのは、仏の衣鉢(いはつ、袈裟と鉢)を盗み、僧や尼の姿をまねているばかりで、むなしく信じず、気づかず、先達の勧めにあっても気づかず恐れず、ただ自分の感情に基づいて、思うように振る舞い、怠惰でなまけ、恥を知らず勝手きままなので、今の一生だけではなく、たとえ無限に長い時間を経ても、仏法の種がなく、縁もないので、道心の起こることはまったくあるはずがないのです。長く人の身を失って、悪道に沈み果ててしまうこと、これは大いなる苦しみではないでしょうか。仏も、縁のない衆生はお救いにはならないので、どのような慈悲や方便も役に立たず、本当に憐れむべき者なのです。このような道理を思い知って、大いなる誓いと努力の力を奮い立たせて、正しい信念を起こし、本当の志を進めて、今の一生で仏法を明らかにしようと思ってください。そもそもどのようなものが正しい信念かと言えば、ただ一切の思考や配慮、さまざまな道理を離れた所を、仏法に入る道の入口だとまず信じなさい。たとえこのように信じたとしても、本当の志がなければ、悟ることは難しい。本当の志というのは、さまざまな道理がないとき、教外別伝(きょうげべつでん)の所とはどのようなものかと、真剣に目をつけて極め見てください。かえすがえすも少しも怠らず、ほんのしばらくも放置することなく、行住坐臥一切のところ、一切の時において、たいへんな悩みのある人のように、念々忘れてはなりません。昔の人は、これを譬えて、父母が一度に亡くなったかのように、自分の頭を切られたかのように思いなさいと言いました。そのように熱心に心を傾ければ、修行の機が熟して、必ず悟る時が来るでしょう。この時初めて知るでしょう。金屑眼中翳(きんせつげんちゅうのえい)(尊い金のかけらも目に入ればかげとなる)

衣珠法上塵(えじゅはほうじょうのちり)(衣に縫い込まれた宝石も仏法の塵)。

己霊猶不重(これいなおおもんぜず)(自分の精神すらも重んじない)。

仏祖是何人(ぶっそこれなんぴとぞ)(仏や祖師方が何であろうか)。(1)

 

(1)雲門禅師(862~949年、雲門宗の開祖)の詩(『雲門広録』)。後半に関しては、石頭禅師(700~790年)の「不慕諸聖 不重己霊」(聖人を慕わず、己の精神も重んじない、『祖堂集』)を踏まえるか。 

 

月庵禅師仮名法語(六)

〇  妙光禅人に示す

 

 先日の十八首の素晴らしい和歌は、言葉の意味が絶妙であり、特に目も心も驚かすようなものでしたので、重ねて法語一篇をお示しすることを承りました。山野は私の老いや病をともに害して、明け暮れ臥せり、心身はぼんやりとして、ただ愚かにしているのみです。仏法などかつて知らず、言葉もまた理解せず、その上いったい何を説き、またどのように示そうというのでしょうか。そうとはいっても、ただこの知らず、理解せず、三世(さんぜ、過去・現在・未来)の仏たちもついにどうすることもできず、歴代の祖師方も息をのみ声をつぐんでしまう所、全世界の人は、いったいどこに向かって尋ね求めようと言うのでしょうか。ここに至って、あなたはどのように推し量り、何に照らし合わせるでしょうか。私はただちにこのように言いましょう。常日頃腹の底から徹底的に疑い尽くした、と。あなたは理解したでしょうか。もしまた元来の思いが行きつ戻りつして(1)垣間見ることができなければ、ただこの知らず理解せずという所について、一日じゅう、行住坐臥、茶を飲み飯を食べるときも、笑っている時も語っているときも、一切の振る舞いをしながら、大いに勇猛の志を起こし、しっかりと眼をつけて、一瞬一瞬、これは一体何であるかと極め見なさい。およそ仏道を学ぶ人は、この知らず理解せずという所を、即座に抜け出して悟ることができず、ある場合には、すでに知らず理解せずというのだから、さらに何を極め、何を悟るというのかと思う人もいる。またある場合には、知らず理解せずと思ってさらに進むことのできない人もいる。あるい場合には空劫已然(世界が滅亡して何もない時よりさらに過去のこと)だと思い、あるいは常日頃の心の持ちようだと思い、ある場合には、すべての物ごとが自分の本性だと思い、ある場合には本来の面目(本来の自分の姿)だと思い、ある場合には即心即仏(そくしんそくぶつ、心がすなわち仏である)と思い、ある場合には非心非仏(ひしんひぶつ、心にあらず仏にあらず)と思う(2)。ある場合には不是心、不是仏、不是物(ふぜしん、ふぜぶつ、ふぜもつ、心でない、仏でない、物でない)と思い(3)、ある場合は、山はこれ山、水はこれ水、柳は緑、花は紅、と思い、ある場合は全体作用(ぜんたいさゆう)(4)と思い、ある場合には教外の玄機(教えの外の深い働き)だと思い、少しでも口を開けばいつわりとなり、念を動かせば背いてしまうと言う。ある場合には人にちょっと問われて棒でなぐったり、喝を発したり、近づいて叉手(さしゅ、腕を胸の前で重ねて敬意を示すこと)したり、袖を払ってさっさと行ったり、いろいろの技量を示すものもいる。このように様々に異なる見方や間違った解釈は数えきれない。これらはみな天魔外道(てんま げどう(5))の心です。多くはこのような間違った道に落ちてしまって正しい道を知らず、ただ今の一生のことだけではなくて、千回生まれ変わり一万劫という長い時間、生死の海に浮き沈みして出ることができず、まったく憐れむべき者です。これはただ誠の志がないことによって、命を捨てるまでの限界に到達することができず、ただただ妄念妄想で仏法を見積もって推し量ることによるのです。それゆえ素質が悪く無知な者は、どのように励ましても気づく心はありません。あるいは、知恵がないので、少し思い知った程度のことを究極のことだと思って、それ以上修行に励む心がありません。また賢く聡明な者は、真実のところが少なく、見掛けだけのことが多いので、知らないことを知っていると思い、明らかにしていないことを明らかにしたと思って、いろいろと尽きない屁理屈を出し、自分が至らず及ばないところまでも推測して、仏法でも世間的真理でも知らないことはなく疑問はないと思っています。このような衆生は千の仏が世に出られても救う手立てはないので、どのように救済すればよいのか。これもただ、最初の志が薄く、善知識(ぜんちしき、よい先導者、師匠)に会わなかったことで邪正を見分けることができず、自分の考えだけに基づくことによるのです。もしこのような道理を正しく判断して端的な所を本当だと見て取れば、いったいそれ以上何をあれこれ論じましょうか。路が無くなった所でさらに歩みを進めて、確信の力が極まったとき、いよいよ志を励まして、精神を尽くし、腹の底から極め極めて見なさい。必ず無心の中に忽然として身をひるがえす時が来るでしょう。その時に初めて知るでしょう。私が言う知らず理解もしない所という語は、あなたの眼を見えなくする害毒、あなたの身を縛る縄であることを。そうとはいっても

 不因樵子径(しょうしのみちによらざれば)

 争到葛公家(いかでかかっこうのいえにいたらん)

   樵(きこり)の行く小道を通らねば

   どうして葛洪(6)の家にたどり着けようか。

このことを良く思案しなさい。

 

(1)原文は「根思遅回にして」。「遅回」は「遅廻」として「根思」は未詳だが今、このようにとっておく。

(2)馬祖道一禅師(ばそ どういつ禅師、709-788年)は「即心即仏」とも「非心非仏」とも説かれた。(Cf.『無門関』第30則、33則)

(3)不是心、不是仏、不是物:南泉普願(なんせん ふがん禅師、748ー835年)の語。南泉禅師は馬祖禅師の法嗣。

(4)全体作用:臨済録に出る。

(5)天魔外道:天魔は修行をさまたげる悪魔、外道は仏教以外の教え。

(6)葛公:葛洪水(二八四―三六四)は道教の研究家。もと唐代の詩『過楼観李尊师』から禅家が用いるようになったらしい。文脈からすると、人も知らぬ険しい山の小道を行くような労苦を重ねてこそ、無為の住まいに初めて到達する、といった意か。

 

 

月庵禅師仮名法語(五)

〇  信女(1)慶明に示す

 

 仏法というのは別の事ではありません。ただ自分の心のことなのです。自分の心を善く保てば、そのまま仏の心であり、自分の身を善く持てば、そのまま仏法です。自分の心を悪く持てば凡夫の心であり、自分の身の振る舞いが悪ければ、凡夫の行いです。凡夫の行いというのは、目に好ましい物を見て欲を起こし、耳に好ましい声を聞き、鼻に好ましい香りをかぎ、舌に好ましい味をなめ、その身は男女に互いに触れて喜ぶ気持ちを起こすことです。それゆえ、自分に従うものには愛執の心を深くし、自分に背けば怨敵だという念を強くします。この身がはかないものであることは、夢幻、水の泡や影のようなもの。今日生きているといっても明日まで期待することはできません。たとえ百年の年齢に至ったとしてもただ昨日の夢のようなもの。そのようにはかないものであることを思い知らず、いつまでもこの世に居られるように思って、妻子や身内のさまざまな好みや困りごとに明け暮れ対応するばかりで心も疲れ、身も苦しく、何かにつけて難しい事が絶えません。また財力のある人は、いよいよ財宝を重ねて持ちたいと思うので、利息付で金を貸したり売り買いをしたり様々な事をして、絶えず飽き足らない思いをしています。貧しい者は、自分の身一つでさえ助けることが難しいので、妻子や身内まで養うことはできず、あれこれと明け暮れ考えてはみるものの良い考えも浮かばないので、盗みもしようかとさえ思うけれども、それはまた命を失う事であるから、怖く思ってできず、物乞いなどもまた、自分一人の事だけでもすまないので、それもまたかなわず、どうしようも手だてがなく、明け暮れ嘆き悲しむばかりです。善きにつけても悪しきにつけても人間のすることには苦しみが多く楽は少ないのです。今の苦しみはそのまま来世での地獄、餓鬼、畜生、修羅などもろもろの悪道の業となって自分の身を焼き焦がす炎、また切り裂く剣に違いありません。これらすべては他人がしでかした過ちではなく、ただ自分の心遣いや身の振る舞いが悪いことによって、そのような苦しみを受け、幾度も生まれ変わって悪道に浮き沈みするのです。たとえまた人間に生まれて、位の高い人とか裕福な者となり、あるいは天上に生まれてあらゆる楽しみを受けたとしても、これも真実の道心がなくて名誉や利益のために善行を積んだ報いであるから、一時の楽しみばかりであって、死んでしまえばまた悪道に堕ちるので、これもずっと楽しむことはできません。これらはみな善悪の違いはあっても、心の持ち方が悪いことによって直ちに仏法を悟ることができず、生死の輪廻を免れることはできません。そもそも心を善く保ち、身の振る舞いを善くするとはどういうことでしょうか。自分の心は、自分の身がまだ生まれず、父母の縁がまだない以前に、非常に明瞭に、隠されずくらまされず、迷うこともなく何の差し障りもないものです。上は仏や祖師方と同じく、下は一切の衆生(命あるもの)あるいは心のない草木までも、一体であってまったく二つということも三つということもない、この心は天然で私(わたくし)とうものがなく、それゆえ仏においても増すことはなく凡夫にあっても減ることはありません。さまざまな善悪においても隔てはなく、僧侶も俗人も変わりはありません。このようにありのままであることを知らず、仏を貴く思い、衆生をいとわしく思うことによって、自分の心のありのままであることをも弁えず、本来生死がないことをも知らず、ぼんやりとして日々を明かし暮らすばかりなのです。これはすなわち、生きながら暗い地獄に落ちているということです。この暗い闇を離れて、ただちに明るい仏の心になろうと思うならば、ただ一切善悪是非の思いを打ち捨てて、わが身のいまだ生まれない以前の心はそもそもどのようなものかと立っても座っても忘れず、念々に極めてみなさい。もしまたあらゆる事柄に遭遇して難しく、紛らわされてしまうように思うのであれば、閑寂な場所で静座して、まずお香をたき、仏を三度拝み、そのあとで手を組み、足を組んで坐禅しなさい。手の組み方は、まず右の手を上向きにして下に置き、左の手を上向きにしてその上に重ねて、両方の親指の先を指し合わせます。足は左の足を右の足の上に重ねなさい。目は半分ほど開いて、口はふさぎ、歯を食い合わせて、下を上のあごにつけ、奥歯をよく食い詰めて、背をまっすぐに立て、心を強くもって、先に示したように、自分もまだ生まれない以前の心はどのようなものかと、念々に疑て極め極めてみなさい。このように座っても寝ても、あらゆる事を行う時も、忘れずに用心するのを工夫(くふう)と言うのです。このように坐禅工夫して怠ることのないのを、身も心も善く保ちふるまう人と言うのです。このように熱心に中断せず極めて見るなら、必ず自分の心の源を悟るでしょう。心の源を悟れば、本来仏もなく衆生もなく自分もなく他人もありません。善悪是非、一切の煩わしい思いは、夢が覚めるように、何事も打ち破れて、ただ自分もなく、先の天然の私のない心ばかり現れて明々白々です。このようになった上は、またあらゆる思いが浮かんできたとしても、すべて煩い(わずらい)はありません。譬えるなら鏡の上にさまざまな姿が映るように、水の中に月の光がはっきりと見えるかのようです。これは心でもなく物でもなく、念でもなく、状況でもなく、けっきょく何でもなく、これを真心とも言い、正念(しょうねん、ただしい心の在り方)とも言い、仏境界(ぶつきょうがい、仏の境地)とも言い、常住法(じょうじゅうほう、永遠の真理)とも言い、本来の面目とも言い、教外別伝(きょうげべつでん(2))とも言う。千回生まれ変わり一万劫という長い時間生じたり滅したりするようでありながら、ついにこの心は生じることも滅することもなく、場所に応じて自由に去来し、一切差し障りがない。これを真実の極楽世界、安養浄土(あんようじょうど(3))、大宝蔵(ほうぞう、宝のくら)、無為(むい)の都(4)と言うのです。このような有難いことを信じてまた疑わず、先に示したように坐禅工夫をするなら、たとえ今の一生で悟ることはなかったとしても、臨終の時、正念のままで去るに違いなく、さらに悪道に堕ちるはずはありません。すみやかに身を変えて、貴き人に生まれて若い時から仏法の修行をして、すぐに悟る人となって、一切の衆生を導き、人間・天上世界の大導師となるでしょう。けっして疑ってはなりません。

 

(1)信女(しんにょ):在家の女性の信者のこと。現在では戒名に使用される。

(2)教外別伝:禅宗の立場を表す「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」として知られる。教えのほかにこの一心を伝えるということ。

(3)安養浄土:極楽浄土のこと。そこでは心が安らかとなり身が養われることからいう。

(4)無為の都:無為は生滅変化する有為(うい)の反対で永遠のこと。いろは歌に「有為の奥山今日超えて(うひのおくやまけふこえて)」とある。

月庵禅師仮名法語(四)

〇  存上人に示す

 

 仏道に向かうことにおいては、誠(まこと)ということを保つこと以上のことはありません。誠を保っていれば、すべての縁、すべての状況はみなそのまま仏道であって、このほかに別に道はありません。保たないときは、目に触れても道を得ることはできず、何かというと、妄念を除いて道を明らかにしようと思います。それゆえに是(ぜ、肯定すべきこと)を受け入れて非(ひ、否定すべきこと)を捨て、妄(もう、誤り)を嫌って真(しん、真実)を求め、昼も夜も心を苦しめるばかりで、悟ることはありません。ただ今生きている一生がむなしく過ぎるだけでなく、千回生まれ変わり一万劫(ごう(1))という長い時間、悪道(地獄、餓鬼、畜生の三道)に浮き沈みして苦しみを受けることがやみません。実に憐れむべき者です。しかも、誠という言葉を聞いても本当に誠という道理を知る人はまれです。そもそも誠というのは、二心(ふたごころ)が無いのを言うのです。二心がないというのは、是は是であって、どうして是なのかという理屈はなく、非は非であって、どうして非であるかという理屈はない。生は生であって、なぜ生かという理屈はなく、死は死であって、なぜ死かという理屈はない。あるいは一切の念がその物に即して(一つになって)、なぜ物に即するかという理屈はない。ただ直に見、直に聞いて、さらに再び振り返らない、それがそのまま、あなたの本来の面目(2)が現れる時なのです。これを仮に二心がないと言うのです。あらゆる事柄を混ぜ合わせて一つにし、二つではないと言うのではありません。そうとは言っても、この言葉を見て、その道理を心得、理解したことを究極であるとしてはいけません。実際に誠を保つということと一致しなければなりません。誠を保とうと思うなら、ただ志を励まして進む以上のことはありません。志が切実であるときには、誠を保とうという心すら忘れ果てて、全身がただこれ一つの生きた鉄の塊ようであり、ここに至ってさらに自分をとどめることなく、いよいよ志を激しく励まして進みなさい。志が極まって忽然として変化するとき、大地山河が身に和して一時にひるがえります。ここで初めて、三世(過去・現在・未来)の仏たち、歴代の祖師方、天下の老和尚たちが共に棒で痛く殴られるほどの所に至るのです。少し言ってみなさい。誠を保っていますか、いませんか。私は甘んじて土塊を追う狂った犬(3)となりましょう。試みに述べてみなさい。

 

(1)劫(ごう):もとインドにおける非常に長い時間単位。「カルパ」が劫波と音写されたものから。

(2)本来の面目(2):本来の姿。本性の姿。

(3)土塊(つちくれ)を追う狂った犬:狂狗塊(つちくれ)を追う、漢語から。狂った犬は投げた人ではなく投げられた土塊にかみつく。土塊は、ここでは言葉のことであろう。