月庵禅師仮名法語(三)

〇  宗三禅閣(1)に示す

 

 大道には方向や場所はありません。目の前を離れることはなく、仏心に形はないのです。その物その物と一つになってそのまま道理にかないます。一念が生じなければ実体を脱して法身が露わとなります(脱体顕露)。疑いの心がわずかに起これば、是(肯定)非(否定)が湧き出ます。是非が湧き出れば六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)が現れます。疑いの心がやめば、永遠に離れます。そもそも疑いの心が起こることは、信じる力が弱いことによるのです。信じる力が強い時は、ただ一念です。一切が一念であれば、あらゆる事柄について分け隔てをする思いがない。隔てる思いがなければ、目前のすべての状況、一切の善悪もまったく何とも思われず、ただ一片地(一つの全体)があるだけです。さらに何の疑いが起こりましょうか。そうとは言っても、信じる力がやはり弱くて、疑いの心が少しばかり起こるのであれば、これを止めようとしてはなりません。ただ疑いの心の起きる所について、立ち返って、そもそもその疑いの心とはいったい何であるかと見てみるのです。このように行住坐臥のすべてにおいて何か行っている時に、忘れることなく、怠ることなく、しっかりと目をつけて、よくよく極めて見てみなさい。必ず忽然(こつねん)として、にっこりと笑う時が来るでしょう。重ねて偈(詩)(2)を一つ示しましょう。

 

 生死去来(生き死にの世界を行き来する者は)

 棚頭傀儡(見世物小屋のあやつり人形のごとし)

 一線断時(右往左往の糸を断ち切ってみれば)

 落々磊々(放たれて自由自在)

 

(1)禅閣(ぜんこう):摂政や関白など位の高い者で、在家のまま剃髪した者をいう。

(2)偈:この偈は世阿弥の書『花鏡』に引用されているもの。

 

〇  宗清禅閣に示す

 

 自分の心が本来、清浄(しょうじょう、けがれなく清らか)であることは、良く晴れた日の空に一点の曇りがないようなものです。森羅万象、一切の有情無情(うじょうむじょう、心を持つものも持たないものもすべて)のすべては、この光から変わり出たものです。すべて実体があることはありません。これを悟る者を仏と言い、これに迷う者を衆生(しゅじょう)と言うのです。迷うとか悟るとかいうのは、誤った心が分別するもので、仏と衆生とにはまったく別の本体があるのではありません。もし人がこのようにその場で悟りを開けば、少しの探求にもよらず、当初の心がそのまま正覚(しょうがく、ただしい悟り)の仏です。それ以上どうして坐禅修行の苦労が必要でしょうか。日頃見聞きする物事、行住坐臥、すべての時において着々と滞りなく活き活きと解放された姿(着々活脱)そのもの、立ち現れた仏心そのものとなる(現成受用)所なのです。

あなたがもしまだ悟っていないのであれば、ただこのように即座に信じ受けて、何とも知られない所に向かって念々、志を励まして、自分の心の根源はどのようなものかと極めて見てみなさい。極め極めてどうしようもなくなった時、志を緩めてはなりません。いよいよ知られなけば、ますます励みなさい。たとえ今の一生で明らかにすることができないとしても、この信じる力によって来世には必ず大解脱(げだつ)(1)の所に至るでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)解脱:欲望、執着、輪廻の苦しみから解き放たれ、解放されること。

月庵禅師仮名法語(二)

〇  慈雲禅尼に示す

 

 世間は無常です。一切とどまることがありません。たとえば夢や幻、水の泡や影が在るかのようであっても実体がないようなものです。世の中の人々はこの道理を知らず、実際に自分というものが在ると思って、さまざまな貪欲や執着の心が強く、名誉や利益を求めることがはなはだしい。ただ今の一生のことばかりを思って、明け暮れ妻子や親族、衣食や財宝の営みに心を尽くすばかりで、一刻一刻生き死にの境が到来し、一念一念に殺鬼(せっき(1))が犯し責めることを知らない。病気の難がたちまちに到来して寿命が終わろうとするときに初めて驚き、後生(ごしょう、死んで後の世)のことがうまくゆくようにと思ってもまったくその甲斐はない。ただ茫然として死んで行くだけです。それだから悪道に堕ちて、常日頃行っていることの業が巡ってきて、その報いの様々な苦しみを受け、身を破り、心をくだいて、劫(ごう)という非常に長い時間を経て、生まれ変わりを重ねても、抜け出ることが難しい。実に憐れむべき者です。この道理を知らないで、決まりを破っても恥じることなく、誤った考えを抱いて好きなように生きている者を、人の中にいながら鬼畜(きちく、鬼や畜生=動物)だと言うのです。これを恐れ嘆いて仏とは何かをはっきりと知り、仏法を信じ、僧を供養し、さまざまに善い行いをして、世間という一時の姿に執着せず、ひたすら生々世々(しょうじょうせぜ、生まれ変わってもずっと)救われたいということを思う、これを特に智慧のある人と言うのです。そうとはいっても、また世間的な善い行いをするばかりで、菩提心(ぼだいしん(2))がない者は、有相(うそう(3))の世俗の幸福となってしまって輪廻の業を免れることはできません。心の中では菩提心を起こし、外の行いでは善行を積んで修行をする、これが内外相応(ないげそうおう(4))の功徳というものです。そもそもどのように菩提心を起こすべきなのかと言えば、まず世間の姿は、もとより実在する姿ではない(非相)と信じて、見聞覚知(けんもんかくち、見聞きすること)において存在するもの(有)と思わず、また存在しない(無)とも思わず、生じた(生)とも思わず、無くなった(滅)とも思わず、いろいろな理屈を作り、思考を巡らせ分別してはなりません。たとえ妄念がいっとき起こったとしても、再びそれを追わず、また顧みてはならない。このようにするならば、諸々の事柄において、執着や捉われが生じるはずはありません。これがまず菩提(悟りの心)に入る道です。ここにおいてまた茫然として何とも知りようがなく、とりつく所がないと思って疑念を生じ、退いてはなりません。少しでも取り付く所があるのは、すべて輪廻の元となる業なのです。何とも知られない所、そこがそのまま生き死にを超出し、煩悩を離れる所なのです。ただ、またこのように深く信じて何とも考えようがないところに直ちに目をつけて、行住坐臥、念々怠ることなく、志を励まして究めてみなさい。必ず悟る時が来るはずです。これを、菩提心を起こして現在の身のままで成仏する人と言うのです。たとえまた、今の一生で悟ることが遅いといっても、このように信じる力が強ければ、さまざまな悪業を転じて(5)、永遠に人間の身を失うことがなく、願いを成就して、大安楽の地に至るでしょう。疑ってはなりません。

 

(1)殺鬼:無常がすべてを滅ぼすことを鬼に譬えたもの。

(2)菩提心:我と人と、共に仏道を成就して救われようとする心。

(3)有相:姿形のあること、いずれ消滅する定めのもの。

(4)内外相応:気持ちと行動が一致していること。

(5)悪業を転ずる:行いが悪い結果となり、餓鬼、畜生、地獄の悪道に堕ちるのを防ぐこと。

 

 

月庵禅師仮名法語(一)

*月庵禅師(げつあんぜんじ:1326-1389)=臨済宗、月庵宗光(げつあんそうこう)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 上巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

〇  宗如禅尼に示す

 

 大道(だいどう:仏法の大いなる道)は廓然(かくねん:からりと広い)として、もとより示すべきこともなく、また明らかにすべきこともない。ただ人が一念を起こして自ら迷い、種々の業(ごう:善悪の行いにより輪廻の元となるもの)を造り、六道(ろくどう(1))に浮き沈みする。それゆえ仏や祖師方が世に出てこれを救われるのである。衆生(生きるものすべて)の素質はまちまちであるから、教えは確かに変わるとは言っても、肝要な点はただ直指(じきし:直接指し示すこと)だけであり、それ以上他に道理はない。素質が優れ高い知恵を供えた人は、瞬時に仏や祖師の位を超越し、一切の物事に関わらない。素質がすぐれない者は、聞いても信じず、見ても尊ばず、ただ目前の営みばかりで後世(ごせ:死んだ後の世)のことを知らない。たまたま善知識(ぜんちしき:優れた先導者、僧侶)の勧めによっていくらかは生死を恐れる心が生まれたとしても、また有相(うそう)の行(2)に捉われて無上道(むじょうどう)(3)に向かわず、たとえ坐禅して真理を探究する人も、あるいは妄念や妄境(もうきょう:妄念から生じる世間の物事)を嫌い、あるいは無心とか無念ということに捉われたり有無にはかかわらないと思い、また自分は様々な見解をすでに離れていると思って真実の心を起こさず、むなしく歳月を送るのである。急に死の場面に直面して、初めて恐怖の心を起こして千万回も後悔してもどうしようもない。昔の人はこれを、喉が渇いてから井戸を掘ることに譬えたのである。そもそも人間の身を受けることは難しく、しかも仏法に出会うことも難しい。どうか、どうか、仏法を求める大いなる願いの力を発揮して、三宝(さんぽう:仏、法=教え、僧の三つの宝)にも深く誓いの祈りを捧げ、自らの行いを強く恥じ、今の世で早く真理を明らかにすべきである。来世を期待してはならない。あなたがもしこの道理を信じて、大事(真理を悟ること)を成し遂げようと思うならば、何とも知らない所(無心でいるところ)にしっかりと目をつけて、知らない所にもとどまらず、また知る所にも向かわず、直接見て、直ちに究めなさい。まったく跡形もなく、心もなく心も及ばないと思って、引きさがってはならない。教外(きょうげ:教えの外)に悟りがあることを信じて、行住坐臥(歩いても止まっても、座っていても寝ていても)少しの間も放っておくことなく、しっかりと志を進めて、よくよく用心すれば、必ず女性の身を変えることなくして、そのままで解脱(げだつ:輪廻を離れること)して、生々世々(しょうじょうせぜ:うまれかわってもいつまでも、未来永劫)大安楽である。疑ってはならない。また一つの偈(げ:詩)を作って示そう。

 

 汝求直指(あなたが直接真理を示すことを求めるので)

 曲説如是(このようにあえて説くのです)

 只要門開(ただ肝心なのは実際に門を開くこと)

 莫認瓦子(門を叩くのに必要な石=教えの言葉、に捉われてはなりません)

 

(1)六道:輪廻でおもむくべき地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界。

(2)有相の行:現実の善悪の諸相を認めて善行を積もうとする修行。

(3)無上道:それ以上はない至高の道。無相を悟ること。

夢窓国師二十三問答(八=終わり)

二十二 心がおこるのをどうすべきかという事

 

 尋ねて言った。何の心もないように妄念をはらうといっても、見ること聞くことがないわけにはいかないので、その縁に従って心がさまざまに起こるのをどのようにすればよいでしょうか。答えて言う。心に浮かぶことを除き払って、何の念もないようにと油断のないようにしていれば、自然とお悟りになるでしょう。道心が薄いので心にかけないというのであれば、申し上げることもありません。たとえ目に物を見るときも、心は見る物に執着せず、耳に声を聞くときも聞くことに執着せず、鼻に香りをかいでも香りに執着せず、舌で味わっても味に執着せず、心にさまざまな念があるといえども二念をつがず(それに捉われて次の念を起こさない)、念が起こってもその念にかまわず心を動かさず、自分の心はもとより主(ぬし)のない法界(世界全体)であって、仏であると信じるのが肝心でございます。

 

二十三 私の勝手な言葉ではなくすべて経文である事

 

 尋ねて言った。このようにさまざまにお聞かせいただくことは、仏の教えの通りなのでしょうか。あるいはご自身の言葉を添えられているのでしょうか。仏になるには難行苦行をし、功徳を積み重ねてこそ仏になることができるというのに、簡単に何の心も起こさず、わが身が仏であり、心のほかに仏はないなどとばかりおっしゃるのは疑問に思われるのです。確かに経文にあるのでしょうか。答えて言う。何の心もないということは、簡単なようみ見えて、難しいのです。また難しいようでいて、簡単でもあり、ただ道心が深いか浅いかと、信心があるかないかとの違いなのです。疑わずに信心すれば、簡単に仏となり、信じなければ六道を巡って長く苦しみに沈むことになります。六道の中では人間に生まれることは稀なので、今回、むなしく過ごしてしまえば、後悔しても甲斐のないことになります。龍女は八歳の子どもで、畜生です。女ですから五障(1)がある身でありながら、たちまち仏となり、(舎利弗が)その志に疑問を呈して、難行苦行してこそ仏となるのにと言いましたが、真如一理(真実そのものがただ一つの真理)とは、自分の心が仏であり世界全体であることです。龍女がただ一つの真理を聞いて仏となったことを疑った人は、龍女にきっちり応答されて黙ってそれを信じたということが、法華経の提婆品(だいばぼん)に説かれています。女人も悪人も隔てはなく、ただ一心の法界(世界)は同じです。法華経は、仏の御心の通りで偽りはありません。疑う者は無間地獄(最悪の地獄)に落ちることになります。この一心ということに納得がいかないのであれば、八万四千と言われる経文をすらすら言うことができる人でも、無駄ごとでございます。一字一文をも知らず、汚れた場所に居たとしても、無念無想であるのなら、そのまま仏でございます。経文を教えようというので釈尊は多くの仏法をお説きになったのではありません。ただ、衆生が、自分ではないものを自分だと思って深く執着し、本当ではない心を本当の心と思い、生まれて死なない心を本当の心だと思ったり、生まれないのを生まれたり死んだりすると見たり、妄想が多いので、自分の身にもとよりもっている仏を知らず、地獄・餓鬼・畜生の道に落ちるのを悲しまれて、妄想を払って本当の心にさせ、どのような心をも起こさせないためであります。真実のありさまで心を知るなら、学問はいらないことです。難行苦行は何のためにするのでしょうか。女の身で学問もせず、才覚もないと悲しんではいけません。また肝心な所(2)はもう理解したと慢心する心が少しでもあるのもいけません。何度も申し上げるように、少しでもものに気を配って捉われる心で、心を動かし念を起こせば、仏の心にそむくことになります。このように申し上げるのは、すべて確かなことであり、お経や祖師の論述の文にあるものなのです。私的な言葉かとお疑いであるなら、本のようにお経や論述の文を書いて差し上げましょう。いかにも聞きやすく理解しやすいように仮名に書いているのでございます。ゆめゆめ軽んじてお疑いになってはいけません。寝ても覚めても、自分の振る舞いが妙なる仏法であると信じて、このほかにまたどのような有難く尊い教えがあるだろうかと求める心もなく、繰り返しますが、何の心も起こさず、何の念も作らず、あらゆることに執着して留まるところがないならば、その心がそのまま仏であって、現世で安穏であり後生も善い所に生まれるはずなのです。毎朝の読経のたびごとに、きっと心してご覧になって、この心をお悟りになっていただきたいのです。

 

二十三問答終わり。

 

 

 

(1)五障(ごしょう):法華経にでる女人がもつとされた五つの障害。女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王仏陀の五つになれないとするものだが、釈迦の説いたものではなく後世の説とされる。

(2)肝心な所:底本では「りんよう」となっているが意味が通じないので、「り」を「か」の変体仮名の誤読とみて「かんよう(肝要)」と読む。

 

 

 

夢窓国師二十三問答(七)

二十一 心のないのを仏とする事

 

 尋ねて言った。心のないのを仏の心とし、念が起こらないのを御法(みのり、仏法)であると承りましたが、妙法(言葉で言い表せない優れた真理)は心と念の事だというのはどういうことでしょうか。答えて言った。どのような心もなく、どのような体もうけないその前は、大空のようなものです。仏が仮に父母の縁によって、陰陽が打ち解けあって様々な姿かたちをうけたものが、その胸のうちにあるかと思えば、色や形はなく、無いかと思えば、思いはかる心が起こります。有りとも無しとも思いはかられるその心を知らせたいがために、その名を妙(みょう)とお付けになったのです。その心は、仏の胸のうちにあっても貴(たっと)いことはなく、衆生の胸のうちにあっても卑しいことはなく、去ることも来ることもなく、煩悩にも汚れず、濁りにも染まらず、蓮華の花が濁った水の中にありながら、濁りに染まらないのに似ています。虚空である心から、憎んだり愛おしく思ったり、白だ黒だと分別する心も起こります。その迷いの念は氷のようなもので、念のない根本の心は水のようなもの。迷いの氷が溶けてしまえば、もとの水でございます。返す返すも、一心のほかに別の法(真理)はないのです。念を法(真理)だと言いましても、心のほかではありません、心も念のほかではありません、心一つが法界(世界全体)に行き渡り、また世界全体が心の一つに帰るのです。因果も二つあるのではありません。ただ世界全体も一つの心であって、一つの心も世界全体であると確かにお悟りなさい。鏡にむかう時、姿かたちが映るのは、姿かたちが行って鏡の中に入るわけでもなく、鏡が見る人の方に来て映るわけでもありません。ただ自然と互いに映り、映すことになる道理なのです。また月が水に映るのも、月が下りてきて映らなくてはと思う心があるわけでもなく、水が空に昇って月を映そうとも思わず、自然にそうなるように、心が世界全体に行って世界全体になるのでもなく、また世界全体が心の中に来て、世界全体が心にあるのでもありません。自然とお互いに同じものなのであり、あらゆるものが各々異なると思ってはなりません。地獄も浄土も鬼も神も、心を離れてはありません。目に見て、耳に聞くことが真実だと思っているので、繰り返しになりますが、また譬えを使って申しましょう。根本の火(1)というものは、世界全体に行き渡っていて、心のように色も形も見えず、物を焼くこともなく、熱くもなく、石の中にあっても姿を消すことはなく、水の中にあっても消えることはありません。そのようでありながら、縁にあって木の中から燃え出し、石の中から打ち出した火[火打石のこと]は、仮の火であるがゆえに、縁がなくては燃えることもなく、薪や油の縁が尽きてしまえば消え失せてしまうのです。ただ仮の火だけを真実と思い、真実の火は目に見えることがないので、知る人はまれなのです。ちょうどそのように、仮の姿である生き死にを目に見えるままのように思い、生き死にのない根本の心は、目には見えず、色も形もないので、知る人はまれなのです。生き死にもなく、何の念もない虚空のようだと申しております。心は根本の火のようなもので、念々起こってくる愛しさや憎しみ、生き死にのあるこことは、縁によって仮に現れた火のようなもので、仮に現れる火は根本の火から出ているものですので、心もそのように、真実の心から出ているもので、仮に念も生じてくるのです。衆生が四つのもの[土・水・風・火の四大=四元素]が合わさって身となっていると以前申し上げたように、土・水・風も火と同様で、根本の土水火風は、目に見えず、色も音もないのでございます。仮に姿を現しているだけです。土水火風でありますから、縁がつきてしまえば無くなってしまいますが、真実の心は無くなることはありません。目に見えないものは、そのままあるとも無くなるとも知られないものです。悪業煩悩の念は起こるといっても、それはただ真実ではなく、仮のものであると信じてその主人にならず、痕跡なく世界全体と等しい心をもつべきなのです。

 

(1)根本の火:古代中国で世界の四元素(四大=地水火風)のうちの一つの火のことをさす。以下、この元素としての火を譬えとして一心について説く。

 

夢窓国師二十三問答(六)

十八 何事も思わず為すこともないのは悪い事

 

 問い。そうすると、何事も思わず為すこともない者を良いとおっしゃるのでしょうか。答え。信心がなく仏道を志す心もなくて愚かである人、そのように為すこともなく御法(みのり、仏法)を心にかけることもなく無為な人は、かならずこの世のことに執着する心が深くて、仏法を面倒に思うのでございます。人目には何をしているとも見えなくとも、道心のある人は、心に放っておくということは全くないのです。静かな所で膝を組み、心を静めて、何かに差し向け考えるということなく、念をなくしていることが肝要なのです。この世のことに引かれて暇のない状態であったとすれば、一日のうちで何度かはきっとこのようになさるのがよいのです。それでもなお心が取り紛れることがあるならば、、このように目に物を見、耳に聞き、惜しいとか欲しいとか憎いといった心がどこから起こるのかと突き詰めてお疑いになるのがよろしい。また、寝たり起きたり立ち止まったりする自分は何物か、主(ぬし)は誰かと突き詰めて疑問に思ってみるならば、このことをお忘れになることなく、立ったり座ったりするときも心構えをなさってください。気高く山に臥したり、または物を食べたりなさるときであっても怠ることなく、また経を読み、南無釈迦牟尼仏と南無妙法蓮華経とか唱えても、別の心をまじえず、知らず、思いはからず、唱えるのがよいのです。心を起こさず、どんな念もなければ、その妙法蓮華経はそのまま心の仏(仏心)でございます。疑ってはなりません。善い事に心をとどめて、為すことも無いのを良いと申しますでしょうか。ですから、煩悩をも嫌わず、菩提(悟りの知恵)をも願わず、何事をも思うまいとも思わず、漠然として分けもわからず、心ですがりつくこともないなら、どうなるのだろうかと疑わず、少しでもすがりついて求めるならば、その念に隔てられてしまいます。本当の心は念のない心の仏(仏心)でございます。

 

十九 祈祷のこと

 

 尋ねて言った。祈祷ということも世間のならわしですが、どのようにして神仏の御心にかなうのでしょうか。答えて言う。前世の報いは神も仏もこれを耐え忍んで破ることはなさらないという道理を知って、かなわないことを愚かにも祈ることなく、来世のことを祈るのを、神もお喜びになるのです。心さえ誠実で素直であれば、おのずから神も御心にかなうので、祈らなくても霊験はあります。神と仏とは水と波のようなもので、隔てはなく、一つの神があらゆる神でおられます。一切の神の本地(ほんじ:ほんたい)は、ただ一つなのです。衆生に縁を結ばそうとするがために、様々の姿かたちをお取りになるのです。ですから、鳥獣や龍亀(ろんぐい:亀の身体に龍の首を持つ聖獣)の名を写し書き、山河や石や木の姿を絵に描いても、神を尊敬することで、世界すべてにわたって漏れることのない道理は、以前にも申しました。衆生の心も仏の心も神の心も違いのあるはずはなく、見ることを離れ、しかも天地に現れており、物は言わないが、草木や風や雲と等しくていらっしゃるのです。衆生の心のほかに神もなく、神をまつるというのは心をまつるのです。心をおさめて心が大空の如くになり、執心や執着がなく、心念がなければ、自分の身がそのまま神なのです。心の神をまつりなさい。

 

二十 仏や菩薩の行のうち、どれが勝り、劣っているかという事

 

 尋ねて言った。仏の中ではどれが優れ、菩薩の中ではどれが優れ、行(ぎょう)の中ではどれが優れていると心得て信じればよいでしょうか。答えて言う。一切の仏は一つの仏であって、一つの仏が一切の仏です。過去にお出ましになった仏、現在いらっしゃる仏、未来に出現される仏、名を変え、姿を改めて、数々いらっしゃいます。その中でも近い世に出て仏法を説き、この娑婆世界(苦しみの世界)に縁が深いのは釈迦仏です。我々衆生の根本の師であり、根本の親です。真実の仏のことは、以前詳しく申し上げたように、衆生の心にあるのです。その仏は、色も形もなく、大きくもなく、小さい物でもない。過去・現在・未来もなく、虚空のように至らないところはなく、生き死にもなく、いやしくもない。これが根本の仏です。この仏さえ知っていれば、自分の心のうちにすべての仏が残りなくいらっしゃいます。菩薩というのも、文殊もんじゅ)、弥勒(みろく)、薬王(やくおう)、観音(かんのん)、地蔵(じぞう)、虚空蔵(こくうぞう)、普賢(ふげん)その他一切の菩薩はみな一心の名でございます。慈悲深くて、世に出て、衆生の心がそのまま仏である、菩薩であると知らしめて、六道(六種の輪廻の道)から出させるためなのです。ですから一つの菩薩であって、機会に従い、時に応じなさるので、いずれが劣り、いずれが勝るとも申すことはできません。悟る時は、衆生も菩薩も仏です。迷う時は、仏も菩薩も衆生です。本当は仏も衆生も、昨日見た夢のようなもの。このような道理を説いて表されるのを、一切の行と申すのです。その行のうち、三世(過去・現在・未来)のもろもろの仏が世に出られる本意、一切衆生が仏となる道は、法華経であるというので、経王と申し上げる。この経の肝心なところは、「妙法」ということであって、この「妙法」と申すのも、心のことでございます。思いはかることなく、言葉にも言うことができず、心でわきまえることのできる方法もない心の名を妙とつけられたのです。法とは念のことであって、念と心は違いがなく、一切の仏も心です。一切の菩薩も心です、一切の経も心です。塔の中に釈迦と多宝如来がいらして法華経をお説きになったのは、我々衆生は皆、世界の中の塔なのです。その中に心と念とがあるのを二人の仏(釈迦と多宝)に表現なさり、真実でない心身を夢まぼろしと知って、心に浮かぶことがすべて無くなるならば、酒に酔った人の酔いがさめて、元の心になるようなものです。念が次々起こるのは酔っているからであり、念がなければ元の酔っていない時のようです。そういうわけで仏が法華経をお説きになるのを聞いて龍女が髪すじを一つ引き切るほどの短い時間で仏となったというのも、初めて仏になったのではなく、元の仏が心にあることを表現したので、本当には男女の姿もあるとは思ってはなりません。

 

 

 

 

 

夢窓国師二十三問答(五)

十四 懺悔に二種類があること

 

 尋ねて言った。二つの懺悔のうち、どちらを行うべきでしょうか。答えて言うには、人の心に任せるべきであるとはいえど、あらゆる心は無いことでありますから、無念無想ということが肝心でございます。有相(うそう:姿形があること)のありさまで念が起こったとしましても、根本には何もなく心もないと悟られれば、念があるのも無いということでございます。本当に身があって罪を作り、実際に心があって罪をつくると思ってはなりません。

 

十五 誓願のこと

 

 尋ねて言った。誓願を起こすとはどのようなことですか。答えて言うには、仏となって、七代に渡る父母や親族・身内の者、そのほか一切衆生をあまねく救おうと願(がん)を立てるべきです。ただわが身ひとりのためを思って、心狭くあってはならないことです。自分を特別な主(ぬし)にして、世界全体、草や木までも我が身と同じものと信じないのはよくありません。諸々の仏の願はざまざまあるといっても、みな心が一つであることをお知りになり、心がそのまま仏であるところをお知りになるだろうゆえです。ですから、諸仏の本来の誓願は、あまねく衆生をこの道に入れる時に、我願満足(ががんまんぞく:自分の願いは満たされた)とも説かれているのです。釈迦仏は浄土の説をお立てにならずに、濁りのある世の中で、諸々の仏の浄土から退けられ捨てられた悪業(あくごう:悪い結果を招く過去の悪い行い)の深い衆生を救おうという願をお立てになりました。これを十方(じっぽう:あらゆる方角)の諸々の仏たちは、ほかの仏の願よりも優れているとお褒めになったということをお説きになられました。その他に五百の大願(たいがん)を釈迦はお立てになったといえども、ただ衆生を一心を知る道にお入れになるためなのです。

 

十六 廻向(えこう)のこと

 

 尋ねて言った。廻向するとはどのようなことでしょうか。答えて言うには、一文を読み、一滴の水を注いでも、あまねく全世界の衆生にたむけ、広く供養するのを廻向と申します。供養をする人のために霊供(りょうぐ、供物)を差し上げ、ともし火をかかげても、その人だけとは思ってはなりません。廻向の心が広ければ、受ける功徳も多いのです。大きな善行を行っても廻向が狭ければ利益は少ない。小さな善であっても心広く全世界に廻向して、背く心なく、執着する心がないようにあるべきです。世の中で言い慣わしていることは、そのまま仏の御法(みのり:仏の教え)でございますから、親に孝行に、あらゆることを耐え忍んで柔軟な心でいることは、仏なのです。ただ我が身ばかりのことを思うのは、独覚(どっかく:利他の説法をしない聖者)の心でございます。親もなし、子もなし、仏もなし、神もなしなどと言うのは、外道(げどう)悪魔です。悟った上にも、なおあるべきように行い努めれば、油がともしびを助けて光を増すようなものです。

 

十七 臨終のこと

 

 尋ねて言った。臨終(死に際)の覚悟というものはあるでしょうか。臨終には悪魔が邪魔をすると申しますので、魔に魅入られないように信じるのでしょうか。答えて言うには、臨終の覚悟は肝要なことです。そうは言っても、前世の報いが今現れているのですから、どのような因果によって、どんな死に方をするのかをも知らないのですから、ただ常日頃心にかけて、心の源をお知りになれば、死にざまのことはどのようになろうとも、いらぬことでございます。しかしながら、道心もない人は、その時の縁に引かれることなどもありますので、その間際にささいな事を言って聞かせたりして、執心や執着が深くならないように扱うべきです。臨終の覚悟と言うのも、以前申し上げたように、常日頃に変わらず仏の念もなく、もろもろの心を起こさず、病がいっそう苦しめるようでありましょうとも、ただこれだけの身、真実ならざる心は、夢まぼろしに過ぎないと、心を法界(世界)とひとしくして、鬼が目に見えようとも驚かず、仏が姿を現されても付き従って喜ばず、ただ何の心もなくして息が止まることを臨終と言うのでございます。理解したという身もないので、後世はどのようになるかと恐れることもなく、また仏法を理解したので地獄には落ちないはずと頼みにする心もなく、少しもとらわれる心なく、定められた終わりを驚いて心動くこともなく、例えば浜の砂を踏みますのに、牛馬が踏んで通っても砂は腹を立てず、身分の高い人が踏んで通っても砂が喜ぶこともなく、汚らわしいものを散らしても又清く、香ばしきものを落としても、砂は嫌うこともせずむさぼりもせず、何の心もない砂のようであれば、仏でございます。悪魔に魅入られない用心も別にないのです。ただ何事も一心ということです。物に移りやすく、動く心があれば、天魔(てんま、邪悪なもの、悪魔)がなぶります。ほんの少しのことにも魔のわざがあるものですので、何事をも思わず、また何事をも思ってはならないと思えばその心が思うということになりますので、何につけ見ず聞かずにいるのが肝要なのです。たとえ目に見え、耳に聞こえましても、それにかかわらず、扱わずに、その心をおさめるべきなのです。善にも悪にも打ち込んでいるのは魔の心でございます。仏も天魔も衆生も同じ心で隔てがないのでございます。

 

夢窓国師二十三問答(四)

十一 善根(ぜんこん)(1)に有漏(うろ)無漏(むろ)(2)の違いがあること

 

 尋ねて言う。善を行うには有漏の善、無漏の善といって、行う人の心によって、優劣の違いがあるというのは、どのようなことでしょうか。答えて言う。他人が大変栄えているのを羨んだり、あるいは死んで後の世でも人に生まれれば、国や所領を多く持ち、そうでなければ浄土に生まれて楽しみを極めたいといって、お経を読み、仏を拝み、寺を造りお堂を建て、布施を行い、供養をするのを、有漏の善と言うのです。それによって仏道と結ばれる縁は朽ち果てることはないでしょうが、これはよろしくないものです。一ふさの花を捧げ、一本のお香を焚くのでも、自分の心の世界がそのまま仏であることを知らせ、仏道との縁を結びたいものだと願って行うのを、無漏の善といって尊い善根というのです。

 

(1)善根:よい結果を生み出す原因としてのよい行い。

(2)有漏無漏:有漏は煩悩のある状態、無漏はない状態。

 

十二 浄土を願うこと

 

 尋ねて言う。この世のことを期待して行う善は、ご利益(りやく)も浅いでしょうが、浄土を願い、後の世の楽しみを思いますのも、よろしくないというのは、どのようなことでしょうか。答えて言う。仏道の種は、縁によって生じるものですから、有漏の善だからといって、まったく嫌ってうち捨てるべきではありません。絵に描き、木で造った仏を見、仏法の一つの言葉や一つの詩を聞く事で、その縁はすたることなく、ご利益が多く実を結び、心にひとたび思うことでその報いがないということはありません。この世のうちに報われることもあり、後の世で報われることもあり、善いことを行ったことも悪いことを行ったことも、因果を遁れることはできません。それゆえ、罪を恐れ、善根をなすべきなのです。そのうち有漏の善を行えば、その報いはあるといっても、その力には限りがあり、後には輪廻に帰ってしまうことは、譬えるなら、空に射た矢が力の分だけ上がっても、ついには落ちてしまうようなものです。無漏の善は、広く世界全体に行き渡り、譬えるなら虚空が際限のないようなものです。浄土に生まれたいと願うことは、この世に執着が深くて後の世を知らないのにはまさるといっても、本当の浄土は心のうちにあるのです。けっして心の外には求めることができないものであって、何の念も起こさず、あらゆることを見ず聞かず、在りとも無しとも思わず、自分の身の主(ぬし、主体)がなく、虚空にひとしく、何の跡もなく、留まるところもないように居られる人の到るところが、そのまま浄土でございます。この世界を離れて別に浄土はありません。このようにお知りになれば、願うべき浄土もなく、嫌うべき娑婆世界もなく、ただ万法一心(まんぽういっしん、すべての物ごとがこの心)でございます。一心がそのまますべての物ごとであって、仏も浄土も心の外に別にはありません。真実ではない心を取り除かれずに、真実だと思い詰めているのを、衆生の迷いとし、心を取り除いて真実の心を知ることを仏の悟りと申すのです。釈迦如来五十年の間お説きになった仏法は数多いといえども、ただ心ということに収まるのです。何事も求めて執着せず、善しあし共に主(ぬし)となさることが肝要でございます。

 

十三 懺悔によって罪が滅びる事

 

 尋ねて言う。懺悔をすることで罪が滅びるとはどのようなことでしょうか。答えて言う。懺悔には二種類あります。一つには、ひとは毎日、十悪というものをつくっています。その十悪というのは、いろいろと命あるものを殺し、物を盗み、男は女を思い、女は男を思います。これらは身に三つの過ちがあるということです。ありもしないことを言い、関われないようなことを言い、戯れて人を悪く言い、中言(なかごと)(1)を言う。これは口に四つの過ちがあるのです。うまれついた身分に従って満足に思うべきことであるのを、飽き足りることなく欲深く、怒り腹立ち、知恵なく愚かであること、これは心に三つの過ちがあるのです(2)。

 

(1)中言:争っている二人の間に入り、一方の人に向かって他方の人を同じように悪く言うこと。

(2)身と口と心は身口意(しんくい)と言われ、それぞれ三、四、三の過ちがあって十悪となる。

 

また身のうちに六つの盗賊があります。とういうのも、眼耳鼻舌心意(げんにびぜつしんい)(3)のことです。目に見える物、耳に聞こえる物、鼻にかがれる物、舌で味わわれる物、身に触れる物、心に思う物、この六つを加えれば十二の盗賊とも、鬼ともなるのです。この十二のものによって地獄、餓鬼、畜生に落ちます。外に鬼がいて、地獄に入るのではないのです。かのような罪とがを恐れて、身に礼拝し、花やお香を供えれば、身に三つの過ちはなくなります。お経を読み、仏の御名(みな)を唱えれば、口に四つの過ちはなくなります。信心深く、以前に作った罪とがを表に顕して後悔すれば、心に三つの過ちはなくなります。このようなことを懺悔と言うのです。

 

(3)眼耳鼻舌心意:六根(ろっこん)と言われ、外界の感覚を得る六つの根本。

 

二種類目の懺悔は、身とも口とも意とも分別して理解することなく、ただ心一つがなくなるなら、眼耳鼻舌心意の罪とがも、主体がなく、跡形もなく、流れる水のように、心が留まるところがない。何の念も起こさず、静寂なところで膝を組み、心を静め、少しも何かにすがりつくことなく、何事も思ってはならないとも思わず、身も心も大空とひとしくなれば、十悪も十二の拠り所も根本はないものでありますから、煩悩もそのまま菩提(ぼだい、悟りの知恵)となり、この懺悔を行う人は、パチンと指をはじく間に、過去の百万憶の行いの罪を除くので、作りおかれた過ちは、日光で朝露や霜が消えるようなものだと言われるのです。

 

 

 

 

夢窓国師二十三問答(三)

七 仏が人と異なるという事

 

 尋ねて言う。仏は姿かたちも人より優れ、美しく、光を放ち、心も衆生とは違っておられると承知しておりますのに、私どものような者と同じとは、まったく納得しがたいことでございます。どのように理解すればよろしいのでしょうか。答えて言う。仏といって姿かたち美しく、光を放たれるのも、夢の中で花を飾っているようなものです。その仮の仏さえ、今は目に見ることはできず、ただ木で像に造ったり絵に描くばかりです。絵に描き、木で造ったものも、根本の仏を離れることはありません。漏れることなく法界(全世界)にあまねく行き渡る私たちの心、これがすなわち根本まことの仏であって、犬、鳥、虫までみな仏と一つです。色や形があるのをまことの仏と思ってはなりません。

 

八 仏が虫けらとなる事

 

 尋ねて言う。どういうわけで、虫けらにおなりになるのでしょうか。答えて言う。仏と衆生と根本は一つであることをいまだ納得できない人は、そのように疑問に思うでしょう。虫けらとなったからといって、仏の本性が失われることはなく、仏だからといって、虫けらの心を離れているわけでもない。地獄の炎に焦がされる者も仏の心があり、また仏の心も私たち衆生を離れない。譬えるなら、月は仏のようです。曇りは衆生のようです。曇ったとしても根本の月が暗いということはありません。また仏は鏡のようです。衆生はそこに映る姿みたいなもの。鏡に姿が映っても、根本の鏡は物を嫌うことはありません。それで火が映っても鏡は焼けず、水が映っても鏡は濡れません。あるいはまた、仏は水のようです。衆生は波みたいなもの。波が立っても水は元の水と変わりません。また心は真実の仏です。念が起こるのは衆生です。念がなければ心はそのまま仏です。曇りがなければ月は明るいままです。面と向かうものがなければ鏡に映る姿はありません。波がなければ水は元の水であるようなものです。念がなければ衆生はただ仏であるはずなのに、妄念がさまざまあるがゆえに、さまざまな卑しい姿かたちとなるのです。

 

九 妄念によるという事

 

 尋ねて言う。妄念によって仏が虫けらにおなりになるとのことですが、おっしゃったのではないでしょうか。仏には妄念などない、ということではないですか。答えて言う。根本には、仏とも衆生とも言うべき名前もありません。根本において仏が別にいらっしゃって、その仏の心に妄念が出てきて衆生になるというのではないのです。ただ、主(ぬし、主体)のない法界に妄念が起こって衆生となり、念がなくてそのまま法界であれば仏と名付けているのです。ですから始めも終わりもありません。すべての物は一体だと知るべきです。人が夢の中で虫になったとしても、見る人も虫ではなく、ただもとの名前です。火に入り、水に入っても、夢であれば本当に火に焼かれることもなく水にも沈みません。それと同じで虫けらと見る夢のようなものです。衆生はことごとく仏なのですが、一念の妄念によって迷い出て、いろいろな卑しい姿かたちを得るのだということ、ただ夢まぼろしの如くであって、根本が衆生となったというわけではありません。ですから、衆生を離れて仏がおられるというわけではなく、人が夢でいろいろな物になってもその人を離れて別の者が見たのではないようなものです。うごめいている虫までも卑しいことはありません。仏と離れた衆生があるはずはありません。ひとたび妄念があることによって、業因(ごういん)(1)を添え、過去の業によってこの世にまた報いがあり、さまざまの姿かたちを受け、六道(ろくどう)(2)を巡ることが止まず、悲しいことではありませんか。

 

(1)業因:善悪の行為が未来の結果につながる、その原因としての行為のこと。

(2)六道:輪廻転生する六つの道。地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(阿修羅)(しゅら)・人道(人間)・天道。

 

十 現在の結果を見て過去未来を知るという事

 

 尋ねて言う。現在の結果を見て過去未来を知るというのは、どのようなことでしょうか。答えて言う。過去とは過ぎた世、現在とは今の世、未来とは後の世(来世)のことです。この世に命長く、人に用いられて、あらゆることに恵まれた果報は、過ぎた世にものの命を殺さず、他人を恨んだり軽んじたりせず、物を施し、柔和であった因縁なのです。譬えるなら春に良い種をこしらえて、よく育つように土を掘り、種を蒔くという因縁があれば、秋にはその実が立派にできるようなものです。春は過去、秋は現在のようなもの。またこの世でつまらない妄念があり、執着が長く、信心もなく、ただこの世の事にのみ心を砕いて、後の世のことを思わなければ、地獄、餓鬼、畜生道に落ちるのです。譬えるなら春は適当に種を植えて、秋には収穫が乏しいようなもの。この世であらゆることが心にかなわず、貧しくいやしく、病だけがあるのは、先の世の報いだと信じて、次の年の種をこしらえ、よく土をこしらえて種を植えれば、必ず秋は良いようなものです。現在、嘆かわしい人であっても、未来の事をよく覚悟して準備する人は、必ず未来は良いはずです。現在、すばらしい人でも、未来の覚悟がなければ、未来は悪い報いになるので、過去も知られ未来も知ることができるわけです。この世で貧しく悲しい人は、いっそう未来の事を思って、現在が思うにまかせないことは、これから後、長く世の楽しみをなすきっかけだと知って、嘆いてはなりません。また今の世で思うままである人であれば、前の世の戒力(かいりき)(3)で今このようであるからといって、長生きして死ぬということでもなく、百年の寿命を保つこともありません。ただ夢のようなものだと思って、楽しみにおごることなく、執着の思いなく、未来の覚悟をすべきです。このように理解して、過去の心も自分のものとすることはできず、現在の心を自分のものとすることはできず、未来の心をも自分のものとすることはできないのです(4)。

 

(3)戒力:戒律を守ったことによって得た力。

(4)過去の心も・・・:この一文は、『金剛般若経』の「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」を踏まえたものであろう。

 

 

 

夢窓国師二十三問答(二)

五 根本は生まれず、死なない事

 

 尋ねて言った。生まれるものはすべて死ぬものである。生まれればこそ、私とか人とかいうこともあり、また死ぬからこそ、この世にとどまらず、仏ともなり、地獄にも入ると言いますのに、生まれもせず、死にもしないとはどのようなことでしょうか。答えて言った。本当に、生まれたり死んだりすることのないことを肝要とするのです。まず、生まれると言うのは、父母の縁によって土と水と火と風との四つを借りて姿とするのです(1)。頭の髪、体の毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨などは土です。唾、膿(うみ)、血、涙、大小便などは水です。体が暖かいのは火です。体が動いて働き、息が出入りするのは風です。この四つが仮に寄り集まった中に、思い知る気があるのが心です。これは本当に生まれたというのではなく、在るというのではなく、無いのに似ているが、確かに在るものの、実体がないのを、いろいろに譬えられ、幻、ほのお、夢、影、谷の響き、水に映る月、水の泡、鏡に映る姿、稲妻などのようだと説かれているのです。このような身を本当に生まれたのであると見るのは迷いです。その身に従っている心は、目の病気がある人の目には空にいろいろな花などが見えるように、花はないのだけれども、目の病気があるから花を見いだすようなものです。本当に生まれて死ぬことはないのです。ただ生き死にだけではなく、目に見え、耳に聞き、心に浮かぶこと、すべて夢まぼろしであるときっと深く信じなさい。本当に心も在り、本当に身も在ると思い定めるがゆえに地獄に入るのです。また、死ぬと見るのも、仮に寄り合った水が離れれば身に潤いはなくなり、火が離れれば身は冷えて暖かさはなくなり、風が離れれば身がすくんで働かず、焼いたり埋めたりしてついに土に返す、これを迷って死ぬと見る、この時、仮にその身に連れ立っている心も連れてなくなる。そうは言っても本当に死ぬのではなく、生まれる時も本当に生まれるのではないので、死ぬと見えてもまた本当に死ぬのではなく、ただ父母の縁によって現れ、借りていた縁が尽きれば、元のようになるまでなのです。実際に死ぬのだと思い定めるがゆえに地獄に入るのです。譬えれば、いろいろな物を集めて人形を作りだして操るのは、生まれたようなものです。操っている糸が切れて倒れれば死ぬと見えるようなもの。実際には生まれもせず死にもせず、生まれるといっても来るものもなく、死ぬといっても去るものはない。土も火も風も水も法界(この真実世界)の機(働き)であるから、特別に主体というものがあるわけではない。心というのも法界の心であるから主(ぬし)はない。あらゆることに執着する心がなく、二念(にねん)(2)を継がないのを仏と言うのです。

 

(1)土と水と・・・:地水火風は四大(しだい)と言い、古代中国で世界の四元素と考えられたもの。

(2)二念:念が起こった時、それに対してさらに念を起こすこと。

 

六 仏は生まれもせず死にもなさらない事

 

 尋ねて言う。生まれも死にもしないとお聞きしても、釈迦仏も摩耶(まや)夫人をご母堂としてお生まれになり、十九才で世を遁れて、五十年の間仏法を説かれ、ついに八十才でお亡くなりになった。その御舎利(おんしゃり、御遺骨)として今もあります。衆生(生きとし生けるもの)もこれまで姿の見えなかったものが生まれて出て、今まであったものも死んでいなくなるのに、生まれもせず死にもしないと言うべきでしょうか。答えて言う。生まれたり死んだりすると見るのは衆生の誤りです。仏は真実の目で生まれず死なないとご覧になります。誤った見方を真実と思い詰めて、新たに移り変わると見る心が地獄に入るのです。迷っている衆生ですから、仏の目とは異なると言っても、この道理を疑わず信じて、仮に見える生死に執着してはいけません。譬えれば夢を見る時には、その夢を夢とは思いません。そのように私たちは生死の闇の世の中にあって、生死の夢を見ているあいだは、生まれ、死ぬことをただ本当のことだと思い詰めているのです。よくよく、譬えなどによって理解なさるがよろしい。船にのって行くとき、岸が移り行くと見えるのは誤りです。岸は動かず、船が行くので岸が移り行くように見なすのです。私たちが迷いの船で浮き沈みするので、常住であることをも移り変わると見、仮のものに過ぎないものをも真実のものと見るのです。実際には去ったり来たりするものはないのです。仏と申し上げるのは、色もなく形もなく、生まれたり死んだりすることもなさらないと言っても、この道理を衆生に教えるために、憐み深く、仮に姿を現して世に出られたのです。本当の仏というのは、衆生と身の毛一筋ほども変わることはなく、根本の心は同じものなのです。隔たりがあると思うのは地獄に入る心なのです。

夢窓国師二十三問答(一)

*夢窓国師(むそうこくし:1275-1351)=臨済宗天龍寺開山、夢窓疎石(むそうそせき)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 上巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

( )付数字はブログ主による注釈。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

二十三問答             

                               夢窓国師

 

一 道心(仏道を求める心)を起こすべき事

 

 ある人が尋ねて言うには、道心を起こすとはどのようなことですか、と。答えて言う。道心に浅い深いの違いはさまざまにあるけれども、すぐにお分かりになるかと思うのは、世の中が無常であるという道理を知って、名誉や利益を捨てる心のことです。昨日以上の望みとか今日の命さえも頼りにはならず、入る息、出る息を待たず、老いた者か若い者かを定めず、生きていた者は今はなく、死んだ者はその数を増してゆく有様であって、今を盛りと咲く桜が散り、木の葉が落ちるに至るまで、はかないことは水の泡や幻と同じで、少し残った水の中に魚がいるようなもので、今日一日を過ぎれば、命もまたそれにしたがって縮まるのです。親子や夫婦でも一つの息が切れた後は、後を追ったり連れ立つということもありません。位の高いことも財産の多いことも用に立つことはなく、朝方には紅の顔色をほこっていても夕べには白骨となります。この世のさまざまな物事が思うようにならないことを、いよいよ仏の道に入っているのであると理解して、御法(みのり、仏法)を信じるのを、道心を起こすと言うのでございます。

 

二 心一つの向け方という事

 

 尋ねて言う。心一つの向け方によって、仏ともなり地獄にも落ちるというのは、どのような心のありさまで仏とはなるのでしょうか。答え。何事につけ悪いことをなさず、善いことをを行って仏とはなるのです。

 

三 善悪の限りがない事

 

 問う。どのような事を指して善いこととし、どのような事を指して悪いこととおっしゃるのでしょうか。答え。善いことも悪いことも際限がない。ただ善悪をなす源一つを明らかにしなさい。

 

四 善悪の源の事

 

 問う。その源とは何でしょうか。答え。源は心です。その源にいろいろありますが、まず二つです。一つには、白い黒いを知り、東西をわきまえ、あらゆる物を思いはかる心です。その心は、本当の心ではなく、仮にその身に宿っているのです。それなので、身に付いているがゆえに、身がなくなればその心もありません。その時々の時分に出てきて、また移り変わり、消え失せて、しばらくも留まることがありません。流れる水は続いて見えますが、前の水は流れ去って、あとから又続いているのと同じです。ともしびの炎も続いて見えますが、薪や油の力によって後から続いていて、前の炎は消えて移り変わるようなものです。二つ目の心は、自分だ人だの隔てもなく、一念を起こす、善いとも悪いとも思わないところの心です。この心は法界(ほっかい、全世界)にあまねく行き渡っていて、一人だけの持ち主というものはなく、出来することも消え失せることもなく、移り変わることがなくて、誰でも残らず持っているものなのです。これを仏心と言うのでございます。ですから、善いとも悪いとも思わず、何の心も何の念も為さない心の向け方によって、仏になると言うのです。この心は妙法蓮華経とも言い、一切の菩薩とも言い、一切の仏とも言うのです。この心の他に別の真理はないのです。この心は、身がなくなっても消えることはありません。身が生まれても生まれることはありません。ただ天空のようなものです。この心になって、良し悪しを思いはからず、念がないのを、善悪の源を明らかにすると言うのです。このような二つの心はまた、別物ではないのです。譬えて言えば、心は月のようなものです。念が起こってさまざまの思いがあるのは、指で目を押す時、月の傍らにもう一つの月があって、二つ見えるようなもので、その月といっても、別に月があるのではなく、目を押す人がそう見ているだけです。傍らの月を取り除いて、本当の月ばかり見なさいというのではなく、ただ目を押さなければ、傍らに月はないというようなものです。心をあるとかないとか思い、内だ外だと当てはめて思いはからなければ、心は二つあるはずはありません。善をなしても、その善にとらわれる心なく、またあらゆる念を起こして、その念に染まることがなければ、自然と、傍らの月というものはあるはずもないのです。

 

 

夢窓国師仮名法語(十=終わり)

輪廻ということを、

 

   あかつきのうき別れにもこりずして

               あふはうれしき宵のたまくら

(夜明けのつらい別れにも懲りずに、また宵になるとぴったりと顔と会うことがうれしい手枕のように、いずれ別れてしまうが出会いの喜びを繰り返す輪廻であることよ。)

 

どのように仏道修行に心がければよいか、僧が尋ね申し上げたのに対して、

 

   まもりとはおもはずながら小山田に

               いたづらならぬそうづ成けり

(守っているとは思ってはいないが、山中の田んぼには無駄ではない案山子(そおず、かかし)であるように、不断に道を守り続ける僧都(そうづ、僧)であるよ。)

 

題知らず〔『風雅集』入り)

 

   夜もすがらこころの行衛たづぬれば

              きのふのくもにとふ鳥のあと

(一晩中、自分の心の行方を尋ねてみれば、昨日の雲に鳥の飛んだ跡を聞くのと同じで、あとかたもない。)

 

『弓もおれ矢もつきはつる所にてあたりはづれをいかがさだめん(弓も折れ、矢も尽き果ててしまったところで、当たり外れをどのように定めたらよいのだろうか)』と、ある人が詠んで差し上げられたので、

 

   弓もおれ矢もつきはつるところにて

               さしもゆるさでしばしいてみよ

(弓も折れ、矢も尽き果ててしまったところで、だからといってひるむことなく、しばらく射てみなさい。)

 

題しらず

 

   吹きやみてしばし夢かせまつのかぜ

                かへらぬ老のむかし見るほど

(松風よ、少しのあいだ吹き止んで、この老人の帰らぬ昔を見るだけの夢を貸してくれよ。)

 

公案提撕(ていせい、奮起させ導くこと)の心を

  

   立たぬまとひかぬ弓にてはなつ矢は

               あたらずながら外れざりけり

(立っていない的、引かない弓で放つ矢は、当たらないとしても外れることはないのであるよ。)

 

題しらず

 

   あまのはらふみとどろかしなる神の

               音にもなどかおどろきもせぬ

(天上を踏み轟かして鳴る雷神の、音にもどうして仏法に目覚めないのだろうか。)

 

   秋の夜のながきねぶりのさめしより

               よそには聞きぬ萩のうはかぜ

(秋の夜の長い眠りが覚めてから、萩の上を吹く風の音を遠くに聞いていたことだ。)

 

   ささがにの糸のかよひぢてはてて

               かかるかたなきわがこころ哉

(天上と行き来する蜘蛛の糸も絶え果ててしまい、気にかかることも何もない私の心であるよ。)

 

   ふればまつつもらぬさきに吹きすてて

                風あるまつはゆきおれもなし

(雪が降れば、積もらない前にそれを吹きすててしまい、風に吹かれる松は雪に折れることもない。)

 

  佛徳禅師御詠(1)

 

(1)夢窓禅師の同門、佛徳本元、号は元翁。夢窓禅師が開いた虎渓山永保寺(岐阜県多治見市虎渓山町)を佛徳禅師に託し、のちに同寺の開山となった。

 

題知らず

 

   いとひつる山路のおくよそれよりも

               身をわすするや深きかくれ家

(世間を避けた山路の奥よりも、わが身を忘れるのがいっそう深い隠れ家であるよ。)

 

   わがこころおもてに見ゆるものなれば

               いかにすがたの見悪からまし

(自分の心が表に見えるものであれば、どれほど醜い姿をしていることだろうか。)

 

   いづれをか我とはいはんかりにただ

               つち水火かぜあはせたる身を

(いったい何を自分だと言うべきだろうか、ただ地水火風という四大(しだい、元素)を合わせただけの身を。)

 

 寛文四甲辰年(1664年)三月上旬

 

                               (終わり)

   

             

 

 

夢窓国師仮名法語(九)

題しらず

 

   このほどは思ひおりつるぬのひきを

                けふたちそめて見にきつるかな

(今回は、前から思いをはせていた布引の滝に、旅立って今日見に来たことだよ。)

 

   きる傘もおへるたきぎもうづもれて

                ゆきこそくだれ谷のほそみち

(身に着けている傘も背負っている薪も雪にうずもれて、雪とともに下ってゆく谷の細道であるよ。)

 

   世をそむく後はなかめぬことならば

                 月にしばしや身ををしままし

(俗世を捨てて出家した後は眺めないというのならば、いま少しのあいだ月を見ることのできる身を惜しめばよいだろうか。)

 

  佛国禅師(1)御詠

 

(1)底本の頭注では「名は顕日、高峯と号す、後嵯峨天皇の皇子なり。正和中寂す。」とある。

 

題しらず

 

   この法のうへみぬわしのやまざくら

                花をおしへのほかにつたへて

(この真理のさらに上は見ることがない霊鷲山に咲く山桜。花を教えの外に伝えて。[釈尊霊鷲山で行った拈華微笑によって摩訶迦葉尊者が法を受け継いだことを言ったものであろう。])

 

いくらか見解(けんげ、仏法の理解)のある僧に読んで与えられたもの、

 

   折りえてもこころゆるすな山さくら

                さそふ嵐にちりもこそすれ

(山桜を追って確かに手にしたと思っても油断してはならない。嵐に吹かれて散ってしまうこともあるのだから。)

 

那須の山中に庵を結んで住まれていた頃、

 

   月はさしくゐなはたたくまきの戸を

                あるじかほにもあくるやま風

(月の光が差し込み、水鶏の鳴き声がまるで戸をたたくようだが、主でもあるかのような顔で戸を開ける山風よ。)

 

ある人が親の百カ日の仏事お呼び申し上げて、お経の講釈があったときに、軒端の梅に鶯がさえずっていたので、思わずお詠みになったもの、

 

   なきひとのひかずもけふはもも千鳥

                なくはなみだのはなのした露

(亡くなった人の日数も今日で百日というその百千鳥(いろいろな鳥)が鳴いているのは、桜から涙が滴るように露が落ちていることだ。)

 

那須の庵で月をご覧になって、

 

   しげりあふみねの椎柴ふきわけて

               かぜのいれたる窓のつきかげ

(茂っている峯の椎の木々を風が吹き分けて、窓に月の姿が入っていることだ。)

 

題しらず

 

   いづる嶺入るやまのはのとをければ

                露にやどかるむさし野のつき

(月が出る峯や沈む山の端も遠いので、すぐ近くにある露に姿を映して宿を借りている武蔵野の月よ。)

 

   夜のほどは霜によはりてきりぎりす

                日影にとくるつゆになくなり

(夜のうちは霜で弱っているこおろぎが、日が差して露になるころ鳴いているよ。)

 

本来成仏ということを、

 

   雲晴れてのちのひかりとおもふなよ

                もとより空にありあけの月

(雲が晴れてから後の光だと思ってはなるまいよ。ありあけという名の通り、もとから空にある月なのだから。)

 

ご入滅が近づいて、月をご覧になって、

 

   月ならばをしまれてましやまのはに

                かたぶきかかる老のわが身を

(月であったなら惜しまれていたことだろうよ。山の端に傾きかかる月のような老いたわが身であることよ。)

 

月光、雪に似たりということを、

 

   月かげは木のもとごとにむらきえて

                ふむにあとなき庭のしらゆき

(月の光は、木の元ごとに斑に消えて、踏むと跡がない庭の白雪のようだ。)

 

題しらず

 

   いづくよりつもりし雪ぞひさかたの

                くもにあまれるふじのしば山 

(いったいどこから積もった雪なのか。雲を超え出る富士の雑木林に。)

 

 鳥に寄せる恋という題に、

 

   わが恋はかりはのきしのくさかくれ

                あらはれてなく時しなければ

(私の恋は、狩場の雉が草に隠れているようなものだ。姿を現してそれと声を出す時もないのだから。)

 

那須の山中に庵を結んで、お住みになっているとき、

 

   われだにもせはしとおもふ柴の庵に

                 なかはさしいる嶺のしらくも

(自分だけでも狭いと思うこの粗末な庵に、峯をはう白雲がなかば差し入ってくることだ。)

 

建長寺の長老に、西勝園寺の禅門(北条貞時)から招かれたが、お断りになって、

 

   かくていまおもひ入江の身をつくし

                世にさしいでて何にかはせん

(このようにして今、思いつめて山に入っているこの身の、入江の澪標(みおつくし)のように身を尽くして世間に出ていったいどうしようというのでしょうか。)

 

あまりに頻繁に招かれなさったので、住まわれて後にお読みになったもの、

 

   そま山を出でずばいかでまきはしら

                ひとをわたせる橋とならまし

(立派な材木も切り出す山を出なければ、どうして人を渡す橋となれるだろうか。)

 

題しらず

 

   かりそめの夢をまこととおもひつつ

                かしこかほなる人ぞはかなき

(かりそめの夢を本当のことと思い、賢そうな顔をしている人はとても情けないものであるよ。)

 

   よしあしのこころもなくて見る時は

                この身はもとの姿なりけり

(良し悪しの心を持たずに見る時は、この身はもとの姿であることだ。)

 

廣天巌[不詳]が仏法の理解を得られたとき、お詠みなって与えられた、

 

   のごころのまだやはらがぬ牛を得て

                うちたゆむなよまきのふるふち

(野にいる頃の心がまだ和らがない牛を得て、打つことを怠ってはならないぞ、牧場の古い鞭(むち)よ。[仏道に初めて入って仏法のありかを見定めても、まだ俗心が残るものであるから、自らを鞭うつ修行を怠ってはならないぞ])

 

夢窓国師仮名法語(八)

有馬の温泉につかられたとき、その山のふもとにお堂があったが、古くなって破損していて雨漏りもしているのをご覧になって、

 

   寺ふりてあめのもりやとなりにけり

                ほとけの仇をいさやふせがん

(寺が古くなって雨漏りがするようになってしまった。仏に害をなすものをさあふぜごう。)

 

土岐伯耆の前司(土岐の前伯耆守)入道存教(土岐頼貞、法名は存孝か)が詠んで贈られた十五首の中に、

 

   をりにふれ時にしたがふことはりを

                そむかぬ道やまことなるらん

(折にふれ、時に従うその道理に、そむかぬ道が本当であるのだろうか。)

 

      返事

 

   ことわりをそむきそむかぬふた道は

                いづれもおなじ迷ひなりけり

(道理に背いたり背かなかったりという二つの道は、いずれも同じ迷いであることです。)

 

   夢の世とおもふもいまのまよひかな

                本(もと)のうつつもなしと聞くには

(夢のようなこの世と思うのも今の迷いであるよ。元になっている現実もないと聞くからには。)

 

   夢のなかにゆめとおもふもゆめなれば

                 ゆめをまよひといふも夢なり

(夢の中でこれは夢だと思うのも夢なのであるから、夢を迷いだと言うのも夢であるよ。)

 

   はなのいろ月のひかりをあはれとも

                 みる心にはいたつきもなし

(花の色や月の光を美しいと感動して見る心は、病み衰えるということもないことだよ。)

 

   さかぬ花いでぬ月ぞと見るときは

                 こころにかかる春あきもなし

(さかない桜、出ない月と見るときは、春だの秋だのという季節も心にはかからない。)

 

   いづくより生まれくるともなきものを

                 かへるべき身となに嘆くらん

(どこから生まれてきたということもないものを、帰って行かねばならない身だと何を嘆いているのか。)

 

   こし方もゆくすゑもなきなかぞらに

                 うかれても又さてやはつべき

(どこから来たともどこへ行くともない中空に月が浮かんでもまたこのように消え果てゆくことだ。人の身も同じこと。)

 

   まぼろしにしばし形をうくならば

                何とさだめてとがといふべき

(幻として少しの間すがた形を受けているものであるから、いったい何を罪とがと定めて言うというのか。)

 

   まぼろしにしばし形をうけけると

                思ふもげにはとがとしらずや

(幻として少しの間だけすがた形を受けたのだと思うのも、本当のところ過ちだと知らないのだろうか。)

 

   いとはじなもとより空にすむつきは

                しばしへだてて雲かかるとも

(はじめから空に澄んでいる月は、しばらくの間、さえぎって雲がかかってもそれをいとわないだろうよ。)

 

   雲よりもたかきところに出でて見よ

                 しばしも月にへだてありとや

(雲よりも高いところに出てみるがいい。少しの間でも月がさえぎられるということがあるだろうか、ありはしないのである。)

 

   いまここにむかふ山路のほかならで

                 たづぬる方をまよひとやせん

(今ここに向かっている山路のほかでもなく、求め尋ねるのを迷いというべきあdろうか。)

 

   目にかけてむかふ山路のおくにこそ

                 ひとにしられぬ里はありけれ

(目指して向かってゆく山路の奥にこそ、人に知られぬ里はあるのだ。)

 

   こころをも身をもたのまず今はただ

                 あるにまかせて世をや送らん

(心も身も頼りにせず、今はただあるにまかせて世を送ろう。)

 

   なにとなくあるにまかせてすむ人も

                 さすが浮世はわすれざりけり

(何とはなくあるにまかせて住んでいる人も、さすがに浮世は忘れてはいないことだ。)

 

   聞くは耳見るはまなこのものならば

                 こころは何のぬしとなるらん

(聞くことのぬしは耳、見ることのぬしは眼であるなら、心は何のぬしとなっているのだろうか。)

 

   はるそとでもえしも草のいろなれば

                 かれ葉の秋もなにかいとはん

(春に外で萌出るのも草の色であるが、枯れ葉となった秋もどうして嫌うことがあろうか。)

 

   思ひなすこころよりこそかはりけれ

                 おなじ草はのはるあきのいろ

(そう思いなす心によって変わるのであるよ。同じ草の葉の春秋の色は。)

 

   よしあしのふたつの道はたえはてぬ

                 こころとてげに姿なければ

(善悪という二つの道は絶え果ててしまったよ。心といって現実に姿のないものであるから。)

 

   なく鴫(しぎ)のさむき夜すがらかづくらん

                   こほりの下のこころしらばや

(鳴いている鴫がこの寒い一晩中水に潜っているのだろうよ。氷の下の気持ちが知りたいものだ。)

 

   住みはてんやまの奥までともなへと[*底本「ど」とするが「と」と読]

                 月にぞかねてちぎりおきけん

(住み果てるだろうこの山の奥までも伴えと、月にかつて約束していただろうか。)

 

   世をすてんのちとは月にちぎるなよ

                あはぬことばの末もはづかし

(世を捨てた後に、とは月と約束するなよ。つじつまが合わない言葉も恥ずかしいことだ。)

 

   かかる身をむなしき物と聞くにこそ

                 世のうきときは思ひなぐさめ

(このような身をむなしいものだと聞くことでこそ、世のつらいときは慰めれるものだ。)

 

   世のうさになぐさむといふ言の葉に

                 身を忘れざるほどぞしらるる

(世のつらさに慰められるという言葉をきくと、身を忘れていないことが知られるというものだ。)

 

   あはれはや柴のいほりのおくやまに

                 ありとも知らぬ世をすぐさばや

(ああはやく柴の庵を結んだこの奥山で、あるとも知らないこの世を過ごしたいものだ。)

 

   身をかくす庵をよそにたづねつる

               こころのおくに山はありけり

(身を隠す庵をほかの場所に探しても、心の奥にその山はあるのだ。)

 

夢窓国師仮名法語(七)

綱州の退耕庵(1)に住まわれていたころ、ある人が来てこの住居の珍しいことに心がとまったことを和歌に詠んだが、その返歌に、

(1)千葉県いすみ市にあったらしい庵。そこからすると綱州は上総国をさすか。

 

   めづらしくすみなす山のいほりにも

                こころとむれば浮世とぞなる

(見慣れない様子で住んでいるこの山の庵にも、心を留めてしまえば世間となってしまう。)

 

足を上げ下げするのも、これすべて道場であるという心を、

 

   〔風雅入〕(2)

   ふる郷(さと)とさだむるかたのなきときは

                    いづくにゆくも家路なりけり

(2)底本の書入れ。『風雅和歌集』に入っているとの意。

 

(ここが故郷だと定める場所がないときは、どこに進むのも家路であるよ。)

 

題しらず

 

   世にすむと思ふこころをすてぬれば

                山ならねども身はかくれける

(世間に住んでいると思う心を捨ててしまえば、山でなくとも身は隠れてしまうものだ。)

 

   さとりとてつねにはかはる思ひこそ

                迷ひのなかのまよひなりけり

(悟りだといって常日頃とは違う心持ちをするなら、それこそ迷いの中の迷いであることだ。)

 

   惜めどもつゐにはてあるあだし身を

                かねて捨(すて)てぞかしこかりける

(いくら惜しんでもついには限りのある虚しい身なのだから、前もって捨ててしまうのが賢いというものだ。)

 

   我のみとかしこがほなるはかなさよ

                はかなかりせば賢からまし

(自分だけはと賢こげな顔をするはかなさよ。はかないのであれば賢くもないであろうよ。)

 

   捨つるとて人をうらむる世はあらじ

                何にさはりてうきをわぶらん

(捨てるからといって、その人を恨む世というものはない。どんなさしさわりがあってつらい浮世だと嘆いているのか。)

 

   ふくたびにはやめづらしき心地して

                ききふるされぬのきの松かぜ

(吹くたびに早くも珍しい気持ちがして、聞き古すということのない軒の松風だよ。)

 

甲州甲斐国、今の山梨県)の笛吹川(ふえふきがわ)の上流にお住みになっていたころ、

 

   ながれては里へもいづるやまかはに

                世をいとふ身の影はうつさじ

(流れてゆくと里へも出るこの山川に、世間を厭うわが身の姿すらうつすまい。)

 

世尊不説の説、迦葉不聞の聞(3)という心を、

(3)拈華微笑(ねんげみしょう)を言ったものであろう。釈尊が弟子たちを前に蓮華の花を無言で示したとき、迦葉尊者だけが理解して微笑んだというもの。

 

   さまざまにとけどもとかぬ言の葉を

               きかずして聞く人ぞすくなき

(世尊は真理をさまざまな言葉で説いておられるが、言葉で説けない法を聞かずに聞く人は少ないのだ。)

 

成仏なしという心を、

 

   結びしにとくるすがたはかはれども むすぶ

               こほりのほかの水はあらめや

(固まったものが溶ければ姿は変わるけれども、氷とは別の水があるわけではないだろうよ。)

 

 

無輪廻中妄見輪廻(輪廻なき中に誤って輪廻を見ること)という心を、

 

    やまをこえ海をわたるとたどりつる

                夢路はねやのうちにありける

(山を越えたり海を渡ったりして辿る夢路も、醒めてみれば寝屋の中だけであるよ。)

 

弾正親王西芳寺にいらして、仏法の談義をしたあとで和歌をお詠みになったおりに、

 

   さすがまた人のかずなる身となりて

                おひにはもれぬ年ぞつもれる

(さすがに人の数となるような立派な身の上になっても、老いというものかれは漏れないで年は積もってゆくものだよ。)

 

   思ひなすこころからなる身のうさを

                世のとがとのみ歎(かこ)ちけるかな

(あれこれ思い込む心から出てくる身のつらさを、世間の過ちだとばかり嘆いていることだよ。)

 

釈教(仏教)、

 

   しるべとて深きしほりをたのむこそ

                まことの道のさはりなりけり

(道しるべだといって山深いところの枝を折った目印をあてにするようなことこそ、真実の仏道の妨げであることだ。)

 

無常の和歌を勧めたときに。

 

   あだながらこころに残るおもかげぞ 

                烟りとならぬすがたなりける

(はかないとはいえ心に残っている面影が、焼かれて烟とはならない姿であることよ。)

 

後醍醐院の御世に、金剛山というところで合戦があり、公家や武家の人々がたくさん命を落としたということをお聞きになった頃、お読みになったもの。

 

   いたづらに名にかへてだに捨る身を

                法のためにはなどをしむらん

(名誉と引きかえにさえ虚しく捨てる身を、仏法のためにどうして惜しむことがあろうか。)

 

俳諧

 

   いもの葉におくしら露のたまらぬは

                これや随喜のなみだなるらん

(いもの葉におく白露がとどまらず流れるのは、随喜の涙であるのだろうか。)

 

   月かげにまよひあらそふひとあらば 

                さたの外(ほか)なる身をいかにせん

(月の姿のことを迷い争う身分の高い人たちがいるとすれば、さたのほか(問題にならない、裁判にかからない些末なこと)であるこの身をどうすればよいだろうか。)

 

花なし(4)の実がなったのが春の終わりまで庭に残っていたのを、折って将軍へ差し上げたときに、

(4)花なし:花梨(かりん)の実のことか。

 

   桜ちりて花なしとこそおもひしに

               なほこのえだに春はありのみ

(桜が散ってもう花はないと思っていたが、まだこの枝にありのみ(なしの別名)があるように春はのこっていたことです。)