永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十四=終わり)

(「僧俗(僧侶と俗人)の因果の事を示す」の項つづき)

 

三つ目は順後業。これはこの世で作る罪が、三世四世あるいは百世千世の後でもきっと報いを受けるというものである。順後生受業と言うのである。影が形にそうようなもので、必ず因果が合致したときにこれを受けるのである。これを修因成果と言う。また、本当に善事の功徳を行うなら、重い地獄の業をこの世での重い病気などに転じ変えて受けるのである。これを転重軽受と言って、深い業を軽く受けるのである。また、転軽令無と言うのは、軽い罪が転じて消えることである。善の功徳によって浅い罪は無くなるのである。三宝(仏・法・僧)を敬う善人の中には、あるいは病気になって具合が良くない事もあるし、人に軽蔑されたり、また早死にするなどの人もあるが、これはその人の罪とがではなくて、昔の業が少し残っていたのを今の世の善によってそのような事柄に転じ変えて、今の一生のうちに業を果たすのである、疑ってはならない。ここにまた、立ち返って見るべき事がある。これらもろもろの業は、もとより迷いの心から生じるのである。迷いの心では、善い事でも悪い事でも、いまだその本当の姿を知らないということをよく参究すべきである。寂々然(ひっそりとして静か)である。霊々として(霊妙で不可思議)自覚することを仏道を悟る最上の法門とする。

 

〇 一無位人(いちむいにん)の事を示す。

 

人があって、在家でもなく出家でもない。もしこの人を見きわめることができたら、一生で学ぶべき事はおわりである。この人を知るには、知恵をもっても知ることができず、知識をもっても知ることができず、知でもなく、本性が無いことを知るのでもなく、師によらない智でもなく、自ら証する智でもない。これをどんな人と名付ければよいか。出家の人と名付けようとすれば、本来の家を離れてしまう。在家の人とすれば、有り様はすでに異なってしまう。日は出てもこの人を照らさず、月は出ても愛でず、春が来ても雪は消えず、夏が来ても熱くない。この人は師匠も授けることがなく、自分でも得ることがなく、元より法皇と崇め、中ごろは六根と親しまれ、今は六境と使われ、本当に六識(1)として用いられる。八万四千の毛穴の親族を従え、三百六十の骨や頭を奴隷とすると喩えている。三十六仏が新たに世にお出ましになり、ありとあらゆる手段で説法をなさるのが常である。三界や六道が自分の家でないということはなく、十界や三千世界というのも我らが業を作る事でないということはない。名前は人が呼ぶのに答えて言うのであり、それゆえ三界とも答え、一心とも答え、法界とも答え、唯識心とも答え、煩悩とも答え、見浄虚融とも答え、諸法とも答え、実相(ありのまま)とも答え、須逆(すべからく逆)とも答え、憎愛とも答える。名前の他に実体はないとも言われ、実体の他に名前はないとも言われる。そうはいってもこれを見ることはなく、これに逢うこともなく、父もなく、母もなく、兄もなく、弟もなく、天にも住まず、地にもおらず、須弥山よりも高く、芥子粒よりも小さい。水に姿を映さず、稲光のように跡がない。夜も目が開かず、昼も顔を隠している。自分にも疎遠で、人にも馴染まず、このように不思議な人は、行住坐臥(ぎょうじゅうざが、動いても留まっても座っても寝ても)いつでも伴っている。ここにも見聞覚知(けんもんかくち、見たり聞いたり知ったり)に露呈している。そもそもこれはどのような人なのか。

 

(1)六識:六根により六境を対象とする六つの認識。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の総称。

 

右の一つ一つは、仏心宗(禅宗)の一大事因縁(最も肝心なねらい)である。印可を受けた人(修行がなったと認められた人)と言えども許されず、引き受けて筆舌の及ぶ所ではない。日本で述べるにあたっては仮名でこれを書き、願わくば仏眼を開いていない人もはっきりと、眼を開いてこの肝心な所を明らかにしてほしい。建長二年(庚戌=1250年)八月十二日、山下老夫婦にこれを授与し終わる。

 

永平仮名法語 終わり

 

 

 

 

 

 

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十三)

〇 僧俗(僧侶と俗人)の因果の事を示す

 

私は一切経(すべてのお経)を二回見たが、どれほど悪いからといっても、出家の人がふたたび俗人に返るべきだとお説きになっている経はない。それなのに、出家が誠の道を行わなければ、地獄に落ちることは矢のごとくであろう。それだけでなく、昔天竺(インド)に善星倶、伽羅といって悪い出家で、生きながら無間地獄に落ちた二人の僧がいた。その折、多くの御弟子たちが釈尊に嘆き申し上げたのは、仏はおよそ三千世界を曇りなくご覧になる目をお持ちであり、これほどの悪人が生きながら地獄に落ちるはずだということは、きっとすでにご存じであったでしょう。どうしてこの者に出家をお許しになったのでしょうと申し上げると、仏がお答えになるには、私がこの二人を見ると、昔からまったく功徳の種というものがない。なんとしても仏道を成就する因縁はない。今回、悪いのではあるが、出家の姿となるだけでも、最後にはきっと成仏という結果を得ることのできる因縁となるので、悪いはずのことはかねてから知っていたが、出家としたのである、とお答えになる。これで分かるのであるが、出家することの功徳は最上のものであることは信じるべきことである。在家(ざいけ)の人でも良い人であれば、仏法者であり得ることは、これを認める。出家はどれほど悪い人間であっても、仏法に近い仏法者なのである。このように言うと、出家の功徳がすばらしいことを褒めるようなものだけれども、出家は悪くてもよいと言っているのではない。そもそも出家というのは、じかに生き死にを離れ、塵労(世間の煩わしい関わり)を出ている印であるから、情けない状態になり果て、この一生で仏教を修めた道者(どうしゃ)にならないということだけでも見苦しく残念なことであるのに、まして悪人であるようならば、仏法は関係の近さとはかかわりなく因果の道理から外れるはずはないのであるから、悪人であれば必ず地獄に落ちて、一劫(1)二劫三劫あるいは百劫を経過しても悪業を尽くすことができず、その間にどれほどの多くの仏が成道し、涅槃に入られることだろうか。その間、地獄の番人のように留まるのは、罪業の深い在家の人よりも重いはずの罪である。人を教えて導くはずの身であるのに、むなしく悪道に落ちてしまえば、二重の誤りである。殺生、偸盗(ぬすみ)、邪淫、妄語(うそ)は四重禁(2)といって必ず地獄に落ちる元であり、免れることはできない。出家の人もこの結果を受けるはずであり、ましてや無間(むけん)の業(3)などを作っては、何劫を悪道(地獄・餓鬼・畜生の三悪道)で過ごすことになるだろうか。その間に多くの仏が世に出られるのにも漏れて、悪道での劫数を送ることは悲しい事である。そうであるから、出家は、必ず必ず、良くあるべきなのである。およそ善悪について三種の業がある。これを知らないと、多くの間違った見解を起こして因果をないがしろにし、自分の心にまかせて悪を造ってしまう。これを悪無得見(4)と言い、撥無因果(はつむいんが)(5)の人と言う。まずどのような罪よりも撥無因果の罪に落ちるのである。撥無因果とは、因果となるはずのことを恐れないことを言う。三種の業というのは、一つ目は順現業(じゅんげんごう)である。今の一生で罪であれ功徳であれ行って、すぐに今の一生のうちで報いを受けるのを順現生受業と言う。二つ目は順次業(じゅんじごう)。これは、今の一生で非常な善や非情な悪を造り、死ぬときに中有(ちゅうう)(6)なく、すみやかに無間地獄に落ち、また極楽都率(とそつ)(7)にも生まれるのである。五逆(ごぎゃく)というのは、一つには父を殺すこと、二つには母を殺すこと、三つには阿羅漢を殺すこと、四つには仏身より血を出させること、五つには出家同士の仲を悪く言うこと、これを破和合僧(はわごうそう)と言う。この五逆罪を作る人は、必ず無間地獄に落ちるのである。これを順次生受業という。

                             (この項目つづく)

 

(1)劫(ごう):古代インドの非常に長い時間単位。さまざまな規定があるが、ヒンドゥー教では43億2000万年という。

(2)四重禁(しじゅうきん):四つの非常に重い罪。

(3)無間の業:最も悪い地獄である無間地獄に落ちる行為。五無間業といい、母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること、の五つ。業(ごう)は善悪の行為の結果として引き受けることになる報い。あるいはその行為。

(4)悪無得見(あくむとくけん):一切は無であるから、報いとして受け取るものもないとする誤った見解、くらいの意味か。

(5)撥無因果:撥無は払いのけて顧みないこと。因果を否定する誤った見解。

(6)中有:死んでから次に生を受けるまでの間のこと。

(7)都率:都率天のこと。天界の一つで、弥勒仏が下生を待つところとされる。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十二)

〇 教外

 

教外(きょうげ)というのは、不立文字(ふりゅうもんじ)の宗であり、いわゆる禅宗がこれである。学ぶべき師もなし、示すべき働きもなし、教えるべきものもなし、ただ自ら独り真理を悟るのである。心は透きとおり輝くようで一物もない時、煩悩もなく悟りの知恵もなく、生死もなく、涅槃もない。悟りもなく、迷いをも知らない。悟りをも願ってはいけない、真理をも求めてはいけない、仏を念じてはいけない、煩悩を絶とうと思ってはいけない。元より煩悩はないのだから、悟りの知恵を求めてはいけない。元より悟りの知恵はない。生死をも嫌ってはいけない。元より生死はない。涅槃を明らかにしてもいけない。元より涅槃はない。ただ一念不生のところに差し向って、自己の本分を打ち開くのである。これが禅宗の非常な強さなのである。禅というのは、いわゆる仏禅(釈尊のなさった禅)である。教というのは仮の名である。衆生と煩悩と、菩提(悟りの知恵)と涅槃と言うのも皆仮の名である。本当にはあるのではない。金剛経に言うには、「私には真理があって説くのだと言う者は、仏をそしり、僧をそしる者である」等々。また古人が言うには、「もし人が仏の眼前に文字や言語があると言うのなら、これは仏をそしり、僧をそしる者だ」と。そうであるから、祖師は、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏と言ったのである。まったく文字言語を立てず、直に人の心の本体を指し示して成仏させるというのである。また言うには、三界(欲界・色界・無色界)に真理というものはない、心はいったいどこにあるのか、四大(1)は元より空であり、如来は一体どこのおられるのか、と言う。書き終わってしまえば筆に文字はない、人が終われば口に言葉はない、眼には物を見ず、舌は口から出ず、墨は黒く、紙は白いことを誰が見ないだろうか。これを教外というのである。

 

(1)四大(しだい):古代中国で考えられた世界を構成する四元素、地・水・火・風。

 

〇 出家の人(僧)に示す事

 

朝に人の道を会得できたらなば夕べに死んでも構わない(1)。仏道を学ぶ人は何よりもこの心を持たねばならない。長い年月に多くの生を重ねながら、六趣(2)のうちを何度輪廻したのだろう。今、さいわいに受け難い人の身を受け、出会いがたい仏法に出会った。どのように惜しんだとしても、ついには終わりのあるこの身を、心の及ぶかぎり惜しんで無駄に捨てる命を、一日に片時であっても仏法のためにすることなくして、惜しくも日夜(にちや)を空しく過ごすようなことは残念なことである。ただ思い切って、明日食べるものがなければ飢え死にしてもよい、今日一日仏道を修行して仏や祖師の心に適って死のうと思う心を起こしなさい。もしこの心を起こさないのであれば、世間に背をむけ、頭をまるめた姿をしていたとしても、本当の出家の人ではないのである。ましてやまた夏や冬の服のことをひそかに思い、明日、来年の命長らえることを思って仏法を学ぶ者は、千度生まれ変わり万劫という長い時間修行したとしても空しく心身を疲労させるばかりで、仏道を成就するときはまったくないであろう。出家の人としては、よくこの道理を心得るべきである。

 

(1)朝に・・・:よく知られた孔子の言葉から来ている。

(2)六趣(ろくしゅ):輪廻する地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天上の六つの路のこと。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十一)

[これまでブログ主による注は*を使ってきましたが、数が多くて読みにくいのでここから括弧付き数字に変更します。]

 

〇 教内

 

教内(きょうない)(1)というのは次のようなことである。真言宗では、六大(ろくだい)(2)はことごとく仏の法身、本体であるから、三千世界(3)は三千世界ではなく、三千世界がそのまま大日如来(だいにちにょらい)(4)である。四曼(しまん)(5)はすべて真言(6)であるから、すべての物事はすべての物事ではなく、すべての物事がそのまま覚王(かくおう)(7)である。心王(しんのう、心の主体)すなわち大日如来を体として、さまざまな物事を真言とし、法界(ほっかい、この真実の世界)を浄土とする。天台宗では、三諦(さんだい)相続(8)の真如の月は、六即戒行(ろくそくかいぎょう)(9)の台を明るく照らし、十界(じっかい)(10)の宝珠(ほうじゅ、宝の玉、珠玉)は一大円教(究極の教え)の部屋の中で鮮やかに輝いている。一心三観(いっしんさんがん)(11)を修行して、即心成仏(12)を目指すとされる。三諦というのは、空仮中の三つの真理のことである。一念がそのまま三千世界である。三観というのは、心の本性が因縁によって生じるのを有(う)と説き、心の本性が縁によって消滅するのを空と説き、心の姿形は縁によって消滅するけれども、心の本体は常に生きており変化しないことを中道と名付ける。空仮中の三諦に形や姿はないと観ずるのを一心三観と名付ける。華厳宗には、三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別と言う。三界(欲界・色界・無色界)はただ一つの心であり、心の外に別に真理はない。心と仏および衆生とこの三つには差別はないと観るのである。三論宗では、三転法輪(13)の恵みの風は尽浄虚融(じんじょうこゆう、ことごとく清らかで滞りがない)の部屋に仰ぎ、二相諸証(にそうしょしょう)(14)の悟りの月は、畢竟皆空(ひっきょうかいくう)(15)の天に輝くと言う。これは畢竟皆空を核心とするのである。法相宗では、万法唯識(まんぼうゆいしき、すべては心の描き出す存在にすぎない)と観る論の空の月は、阿頼耶(あらや)(16)の床に明るく照っている。五種各別(17)の優れた議論の珍しい花は百法(無数の真理)の林に鮮やかに咲いている。変化所執性(へんげしょしゅうしょう)依他起性(えたきしょう)円覚実性(えんかくじつしょう)の三つの本性(18)を獲得するとする。この宗は、一切唯識を核心とする。すべてを詳しく言えば、釈尊がお説きになった八万宝蔵(すべての教え)であり、特殊な意味があるわけではない。諸仏の真理も限りがないゆえに、衆生の心も限りがない。衆生の心も限りがないゆえに、戒律もまた限りがない。衆生の心は限りがないといえども、心・意・識(19)の三つを出ることはない。仏法は限りがないといえども、戒・定・慧(戒律と禅定と般若智)の三つの学を出ない。これを教内とするのである。

 

(1)教内:次項「教外(きょうげ)」で不立文字、教外別伝を標榜する禅宗について語るのと対照的に、ここでは経を典拠とする諸宗を教内として語る。

(2)六大:真言宗で万物の構成要素とする地・水・火・風・空・識の六つ。

(3)三千世界:仏教の宇宙観。巨大な山(須弥山、しゅみせん)を中心とする一つの世界=小世界が千集まったものが小千世界、それが千集まって中千世界、それが千集まって大千世界をつくり、この三種の千世界全体を三千世界といい宇宙全体を表す。古代インドの宇宙観が仏教に入ったものと言われる。

(4)大日如来真言密教で宇宙の真理そのものを表す仏。毘盧遮那仏に同じ。

(5)四曼:真言密教の四種曼荼羅(ししゅまんだら)のこと。四種類の曼荼羅曼荼羅は、サンスクリット語の音を写したもので、「本質を所有するもの、本質を図示したもの」の意味という。

(6)真言サンスクリット語マントラを訳したもの。「真実の言葉、秘密の言葉」の意味という。

(7)覚王:釈迦如来のこと。

(8)三諦相続:「三諦」は、天台智顗(ちぎ)の説いた思想で、空・仮(け)・中の三種の真理のこと。空諦(一切存在は空である)と、仮諦(一切存在は縁起によって仮に存在する)、中諦(一切存在は空・仮を超えた絶対のものである)の三つの真理が互いに融けあって、同時に成立し続けていること。

(9)六即戒行:六即は、究極の悟りに至るまでの六つの段階を指す。戒行は、戒律を守って修行に励むこと。台は、戒律を受ける戒台、戒壇か。

(10)十界:天台宗で、人間の境地を十に分類したもの。六道に声聞・縁覚・菩薩・仏の四つを加えたもの。

(11)一心三観:一切は空であると観る空観、一切は仮の存在と観る仮観、一切は空・仮を超えた絶対と観る中観の三つの見方を同時に観想する天台宗の観想法。続く本文では有・空・中道を観ずることとして説明されている。

(12)即心成仏:中国の馬祖道一禅師(709年~788年)には「即心即仏、即心是仏」の語があり、日本の空海(774年~835年)には「即身成仏」の語がある。いずれも仏が遠くにあるものではなく、我が心身がそのまま仏であることを説く。底本では「即心成仏」となっているが、「即身成仏」とすべきか。

(13)三転法輪:釈尊が生涯に三種類の法を説かれたという説。

(14)二相諸証:二相は二蔵で仏法を大乗教徒に説かれた菩薩蔵と小乗教徒に説かれた声聞蔵に分けるもの、ここではその双方でさまざまに証しされた仏法全体を言うか。

(15)畢竟皆空:さまざまに説かれる空の中で最終的な空。

(16)阿頼耶:阿頼耶識のこと。人間の認識の働きのうちで最も根源的なものとされる。

(17)五種各別:五性各別(ごしょうかくべつ)。法相宗で、衆生の本性を五種類に分類する説。菩薩定性、縁覚定性、声聞定性、不定性、無性。

(18)三性:世界は実体があるかのように見られただけのもの(遍計所執性、へんげしょしゅうしょう)であり、それらは他のものによって縁起したものである(依他起性、えたきしょう)ので、修行により「円満な真実の性質」をあらわす(円成実性)とする唯識の教え。

(19)法相宗では、識を六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六種の認識)意を第七の末那識、心を第八阿頼耶識とするという。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(十)

〇 無相

 

無相(むそう、姿形がない)というのは、諸仏の心の姿、衆生の心の源である。あらゆる物事は、無相を根本としている。それゆえ達磨が言うには、菩提(ぼだい、悟りの知恵)は、無相を本性としている、と。衆生は有相(うそう、姿形のあること)に捉われて、二十五有(にじゅうごう)*の生死に迷って様々な苦しみをうけ、諸仏は、もろもろの姿形は無相であることを悟って、十方(じっぽう)**に遊んで様々な楽しみを受ける。もろもろの姿形がないから無相と言うのである。また、金剛経に言うには、我相(がそう、自分という姿形)、人相(にんそう、人という姿形)、衆生相(しゅじょうそう、さまざまな生き物と言う姿形)、寿者相(じゅしゃそう、善行により長寿の報いを受けた者という姿形)といった姿形があるのは、悟りの知恵ではない、という。六祖がこの四相を説明して言うには、「自分の心に良いと思うところがあって衆生(他人)を軽んじるのを我相と名付ける。自分は戒律を保っていることを頼みにして、戒律を破る者を軽んじるのを人相と名付ける。三途(さんず)地獄***の苦しみを嫌って天上に生まれようと願うのは、衆生相である。心に命が長らえることを思って悟りの知恵を修めようとするのは、寿者相である。心にこの四つの相があれば、仏はそのまま衆生となる。心にこの四つの相がなければ、衆生はそのまま仏である」と。黄檗禅師の言うには、「無相であるのは、法身の仏である。法身の姿は虚空の姿のようなものである。虚空も法身も実際の姿はない。仏も衆生も実際の姿はない。生死と涅槃も実際の姿はない。すべて一切の相を離れているのだから、そのまま仏である」と。また六祖が言うには、「何を無相と名付けるのか、それは姿形にありながら、姿形を離れるのを無相というのである。外には一切の姿形を離れ、内には様々な姿形に捉われないのを、無相と名付けるのだ」と。こうしてみればよく分かるのである、一切の姿形に執着せずに無相であるのは仏であり、姿形に執着して離れないのは衆生である、と。ただし無相だからといって因果を否定して心を動かして無相になろうとするのは、これまた外道(げどう、仏法とは異なる)の教えである。一切の姿形はたしかに有るといっても、一切の姿形に心が捉われることなく、一念も生じなければそれが無相である。ただ願わくば、仏道を学ぶ人が、法身仏になろうと思うなら、あらゆる物事において心でその姿形に捉われてはならない。姿形に捉われることがなければ、悟りの本体が動じることもなく、まったくこれ仏に他ならない。このことがまだ納得ゆかないならば、見るがよい、見るがよい、ともづなを解いて繋がれていない船が、風に吹くに任せて大海に走っていることを。

 

*二十五有:衆生が輪廻する世界を細かく二十五に分けたもの。

**十方:八方位に上下を加えたもの。あらゆる方向を言う。

***三途地獄:三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと。

 

〇 無念

 

無念というのは、仏や祖師が内証(ないしょう、みずからの内に証明すること)した心の本性(ほんしょう)であり、衆生が成仏する唯一の路である。仏や祖師は、一切の物事において一念も起こさずに無念であるので、生死において自由を得られているのである。衆生は、一切の物事において念を起こし、執着する念があるので、生死に流転して苦しみを得るのである。六祖が言うには、「衆生が仏に成ろうと思うならば、まず無念にならねばならない。無念であるがゆえに成仏するのである」と。また大慧禅師の言うには、「煩悩の心を念としたり、命の無いものを生としたりすれば、それは誤った見解であり外道の宗教である。無念を念とし、無性(本性がない)のを本性とすれば、それは虚無を唱える外道の宗教である。念であって念でなく、本性であって本性でないならば、それが仏道の肝心の本体である」と。そうは言っても、ひたすら無念になって木や石のようになれと言うのではなく、またひたすら念に執着して猿が枝から枝へ飛び移るようになれと言うのでもなく、念が起こっても念に飛び移って念に執着するなと言うのである。無念の所についても、心を動かして無念だとも思ってはならない、念が有る無しを離れて、一念も起こらないのを無念とするのである。施燈経(せとうきょう)*に言うには、「仏はすぐれて明らかにされた四種類のよき真理があるが、一つは戒律、一つは善、三つは般若(知恵)、四つは無独心(むどくしん)である。その中でも禅定は第一である。一切を認めるがゆえに一切を忘れるというのは、無念の意味である。」大智度論に言うには、「修行が成就して仏となるのは、かならず無念の定力(じょうりき)**による。それゆえ仏法にはあらゆる違いがあるとはいえ、必ず無念の定力を用いるのである」と。また瓔珞経(ようらくきょう)***に言うには、「無念であって、心の意識を離れているのを、法身の最終的な仏というのである」と。四十二章経に言うには、「悪人を百人養うことは、一人の善人を養うに及ばない。五戒を保つ人を一万人養うことは、一人の須陀洹(しゅだおん)****を養うに及ばない。須陀洹十万人を養うことは、一人の斯陀含(しだごん)を養うに及ばない。斯陀含一千万人を養うことは、一人の阿那含を養うには及ばない。阿那含百万人を養うことは、一人の阿羅漢を養うには及ばない。阿羅漢一億人を養うよりは、一人の辟支仏(びゃくしぶつ)*****を養うには及ばない。辟支仏十億人を養うよりも、一人の仏を養うには及ばない。三世(過去・現在・未来)の仏百億人を養うよりも、一人の無念無心無住無修無証******の者に供養するには及ばない」と。このように今述べられているところは無念のことであって、一念不生(いちねんふしょう)の人のことである。そうであるから、利長者が金剛経の三世不可得*******の心を悟り、無念を悟ったので、天人は食物を降り注いだのである。須菩提(しゅぼだい)********が無念に座していたので、帝釈天が来て花を散らして称賛したのである。仰山禅師*********が無念で座していたので、阿羅漢が現れて仏法を何度も説いたのである。そうであるから、無念の人を梵天帝釈天、四天王をはじめとして、十方の聖衆(しょうじゅ、聖者の集まり)に向かって供養をなさるのである。仏道を学ぶ人は、無念無心無住無修無証で一念も生じないのを、そのまま浄妙法身(清らかで妙なる仏の本体)の如来と名付ける。疑ってはならない。このことがまだ納得できないならば、見るがよい、水が清らかで波が無ければ、月輪が映ってあかあかと光り輝くことを。

 

*施燈経:施燈功徳経。仏前に灯明を供えることはこの経が元になっていると言われる。

**定力:心を乱されず統一を保つ力。

***瓔珞経:菩薩瓔珞本業経。

****須陀洹:部派仏教で修行者の段階を表す四果(しか)の最初のもの。聖者の境地に初めて入った者を指す。つづく斯陀含(しだごん)は、果天界と人間界とを一度だけ往復して悟りを得る、阿那含(あなごん)は、ふたたびこの世に還(かえ)らないで天界で悟りを得る者、阿羅漢(あらかん)は、この世で煩悩(ぼんのう)を滅尽し悟りを得る者をいう。

*****辟支仏:独りで悟り、その教えを他の人に伝えない人。独覚とも言う。

******無念無心無住無修無証:一念もなく何物にも執着せず修行も悟りの証しもない。

*******三世不可得:過去心不可得(過去の心は捉えられない)現在心不可得(現在のこころも捉えられない)未来心不可得(未来の心も捉えらえない)のこと。

********須菩提:釈迦十大弟子の一人。

*********仰山禅師:仰山慧寂禅師(804年~890年)。師の潙山霊祐とともに潙仰宗の開祖。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(九)

〇 見性

 

見性(けんしょう)というのは仏性(ぶっしょう、ほとけである本性)である。あらゆる物事の真実の姿である。衆生の心の本性(ほんしょう)そのものである。この本性は有情(うじょう、命あるもの)非情(命のないもの)すべてに渡り、凡夫でも賢人や聖者でも全てに及んでどこかに留まるという所がない。それゆに無住(とどまるところがない)の本性というのである。有情にあっても有情に留まらず、非情にあっても非情に留まらず、善にあっても善に留まらず、悪にあっても悪に留まらず、色(しき、物)にあっても色に留まらず、形にあっても形に留まらず、一切に留まらないので無住の本性というのである。またこの本性は、色にあらず、有にあらず、無にあらず、留まるのでなく、真理に明るいのではなく、暗いのでもなく、煩悩にあらず、悟りの心にあらず、まったく真実の本性はない。これを悟るのを見性と名付けるのである。衆生はこの本性を見失っているので、六道に輪廻する。諸仏はこの本性を悟るので、六道の苦しみをお受けにならない。願わくば、仏道を学ぶ人は、自分の心の本性はこの本性であって、もとより不生不滅であり、常住不変(つねにあって変わらない)で本性が無いと覚り、心の本性とは別に仏性を求めてはならない。それゆえ古人も言うように、衆生の本性はそのまま仏性であり、この心の本性を離れて仏はなく、この心の本性を離れて衆生はない。喩えるなら水と波のようなものである、と。また言う、寂滅(じゃくめつ)*の本性である。寂滅の本性は、涅槃(ねはん)**の本性である。涅槃の本性は、自分の本性である。衆生が地獄にあるときも、この本性は立ち去らず、それゆえ衆生が仏になるときも、この本性を離れない。ある僧が大殊禅師***に尋ねて言った「大涅槃の本性とはどのようなものでしょうか。」大殊禅師が答えて言うには、「生死の業(ごう)を作らない人、これが大涅槃の本性である」。また尋ねて言うには「生死の業とはどのようなものでしょうか。」答えて言うには、「大涅槃の本性を求めること、これが生死の業である。」ここにおいてこの僧は大いなる悟りを開いた。よく分かることだが、やはり生をもって悟りを求め、涅槃を求める人は、みなこれ生死に流転するであろう。もとより生死はないのであるから、いまさら涅槃を求めるなかれ。これを見性と名付ける。このことがまだ納得できないならば、見るがよい、柳は緑、花は紅である。

 

*寂滅:涅槃経に出る無常偈と呼ばれる四句の偈に「諸法無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(様々な物事は無常である。これは生じたり滅したりする道理である。生じたり滅したりすること自体が無くなったとき。その寂滅が安楽である。」とあり、寂滅とは生滅が滅し終わった状態、涅槃の状態を指す。

**涅槃:サンスクリット語ニルヴァーナ」の音訳。炎が消えた状態を意味し、煩悩が消滅し、輪廻から解放された状態を指す。

***大殊禅師:唐代の大珠慧海禅師(生没年不詳)か。馬祖道一禅師の弟子。

 

〇 得法

 

得法(とくほう、真理を得る)というのは、無法(むほう、真理がない)ということである。無法とは、さまざまな仏の心の真理であり、衆生の本来清浄な心の真理である。有為(うい)*の真理ではなく、無為の真理でもなく、生滅の真理ではなく、寂滅の真理でなく、本来常住不変の真理である。それゆえに釈迦仏が言うには、本当の真理は、無法であり、無法の真理もまた真理である。今、無法を伝授するとき、伝授される真理と伝授された真理はどうして未だかつて真理であったろうか、云々と。また金剛経に言うには、仏法とはすなわち仏法ではない、これを仏法と名付ける、と。また師子孔雀経に言うには、真理はただの一字である。いわゆる無の字である。もとより言葉の説明はない。どうして説明する所があろうか、と。また浄名経**に言うには、説き聞かせている真理というのは、有ではなく、また無でもなく、因縁があるゆえにさまざまな物事となっているだけだ、と。また法華経に言うには、この真理は真理の位に留まっており、世間の姿は常住である。また言うには、真理は常に無生(むしょう、生じるということがない)である。仏種(ほとけとなる種、教え)は縁によって起こる、それゆえに一乗(いちじょう)***を説くのである。また言うには、ただ一乗の真理だけがあって、二つもなく三つもないとお説きになられた。今言っている一乗の真理というのは、我々の心の本性のことである。祖師が言うには、我々の心の本性としてたった一つの真理も伝えないのを名付けて、心法(しんぽう、心の真理)を伝えると言うのである、と。大慧禅師****の言うには、この真理はもとより自分の心の真理であって、外から得たものではない、また師匠によって得たものでもない、ただ一つも真理として授けるべき真理はなく、もし授けるべき真理があるとすれば、それは生死を解脱する真理ではなく、無明(むみょう、真理に暗い無智)の真理である。また言うには、今、達磨のお伝えになる不立文字(ふりゅうもんじ)の心の真理とは、もともと言葉による説明を離れているのであるから、この真理は有(う、存在しているもの)を手がかりに求めてはならず、言葉の説明を手がかりに求めてはならず、無言を手がかりに求めてもならない。真理を手がかりに尋ね求めてはならない、すべて一念でも生じてこの真理を尋ねてはならない、もし一念を生じてこの真理を問おうと思うならば、みな仏や祖師の心に背き、この心の真理に行き当たらない。それゆえ古人も言っているように、わずかでも心を生じるならたちまち背いてしまう、念を動かせばすぐさま間違う、ただ一念も生じなければ、自然に仏や祖師の心に合致するのである、と。また鑑智禅師*****が言うには、「一心不生 万法無咎(いっしんふしょう ばんぽうとがなし、一心も生じなければすべての物事に過ちなどない)」******。過ちなどないのだから真理ではなく、心でもない、と。言うには、このように心得て、一念も生じない所に差し向って、心に煩いがないのを、得法の人と言うのである。このことがなお納得できないなら、見るがよい、烏は黒く、鷺は白い。

 

*有為:因縁によって生じる、生滅する物事。無為はその否定。

**浄名経:維摩経の別名。

***一乗:乗は救いへと導く乗り物のことで、一乗はあらゆる衆生を導く唯一絶対の教えを意味する。

****大慧禅師:大慧宗杲(だいえそうこう)禅師、1089年~1163年。公案を用いる看話禅(かんなぜん)の大成者と言われる。

*****鑑智禅師:中国禅宗第三祖。僧璨大師。

******「一心不生 万法無咎」:『信心銘』に出る。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(八)

〇 大徹

 

大徹(だいてつ)というのは次のようなことである。常日頃の心の在り方が霊妙であり、あらゆる物事が明白で、物事に妨げられることがなく、一切に透徹していることは、傷のない宝玉がよく物を透し、すべての現象を映し出すようなものである。それゆえ、自分の心の宝玉が、煩悩という瑕がなく、虚妄の姿があらゆる世界に映っては消え去るが、心の本性は霊妙でまったく透過しないということがない。それゆえ自分の心の有り様を指して大徹というのである。我々衆生は、心の宝玉に移り来たり移り去り、虚妄の姿のあらゆる世界の姿形に動転し、心の働きはしばしば暗い所から暗い所へ入り、苦しみから苦しみへ入る。ただ願わくば、仏道を学ぶ人は、虚妄の姿に留まって、あらゆる想いを生じさせてはいけない。姿形の有るところに念をとどめて執着の姿をなしてはならない。念に留まって心を求めず、虚妄をも除かず、真実をも求めてはならない。また、ひたすら無念無想になれと言うのではない。念はあっても念に執着するな。姿形であっても姿形に執着するなという意味である。このように納得して、一念も生じないところを行ずるのを大徹の人と言うのである。納得できないと思うなら、見なさい。大いなる虚空に風が吹いたとしても、いまだに虚空が破れ去ることもないことを。

 

〇 本来の面目

 

本来の面目(めんもく)というのは、威音劫(いおんごう)以前の心の本性、父母未未生以前(ぶもみしょういぜん、自分の父も母も生まれる前)の真実の霊妙なる心である。威音劫以前というのは、天地がまだ開けない前を指すのである。父母未生以前とは、父母の体内に宿らない前のことである。威音劫以前父母未生以前の心霊を、三世の諸仏もいまだお説きにはならず、歴代の祖師もいまだ伝えられてはいない。なぜそうなのかと言えば、威音劫以前の心の本性というものもなく、父母未生以前の真実の霊妙なる心という心もない。それゆえ諸仏の心といって、別に衆生の心のほかにないのであるから、これを諸仏の心、これを衆生の心という各々別の心はないので、諸仏もお説きにならないというのである。喩えれば大海の水、小さい河の水と言って、いれ物は別であるけれども、水の本性は同じようなものである。祖師の一念不生の心と我々の思慮分別の妄想の心と微塵ばかりも分け隔てはないのであるから、祖師もお伝えにならないと言うのである。喩えるなら山の峰と平地のようなものである。高い低いの名前は違っていても、土の本性はまったく一つであるようなものである。それゆえ金剛経には、過去の心も捉えられない、現在の心も捉えられない、未来の心も捉えれない、と説いている。私たちの心の本性は、もとより過去現在未来の三世に渡る心だというのだが、別に三つの本性は無いのであるから、三世不可得(さんぜふかとく、過去現在未来いずれも捉えれられない)というのである。三世の道理を知らずに、三界(さんがい)*に深く沈みこんで様々な苦しみを受けるのである。三世不可得の心を悟ることを、本来の面目を悟ると言うのである。そのものの心は、もとより不生不滅(うまれず、ほろびない)であり、この心はまったく本来の面目である。この心がまさに威音劫以前の心である。この心をはなれて別に求めてはならない。もしこの心を離れて別に求める者は、喩えるなら身体を離れて名前を求め尋ねるようなものである。このように説いても、本来の面目に立ち返らないというのであれば、見るがよい。昨日出た太陽も今日出た太陽も、夜を隔てているとはいえ日輪に変わりはないということを。

 

*三界:欲界、色界、無色界の三つ。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(七)

〇 大用

 

大用(だいゆう)というのは次のようなことである。仏や祖師も伝えない、向上の一路を歩み出て、生き死にの路を断ち切り、自分の風光(周囲に放つ働き)によって無明(むみょう、真理に暗い無知)を打ち破り、太陽が虚空高く昇って真理の世界を照らし、どこにも遮るものがなく光が明朗であるようなものである。自然智(自ずと備わっている智)、無師智(師から教えられない智)、一切智(一切を包含する智)が目の前に現れてあらゆる道理が明らかになり、あらゆる物事が不明ということがなく、身はおさまり心は明るくなり、自分の内も外も滞ることなく、他人を利して人を煩わせないのを大用というのである。喩えるなら、龍が一滴の水ですべてのものに注いで万物の姿を育てるようなものである。円覚経に言うには、一たび本心を見れば永く生死を超え、大いなる知恵の光明が世界をあまねく照らす、と。一たび本心を見つめれば、自分の心がもとより仏であると覚るのである。心で仏を求めず、心で真理を求めず、過去の心とも思わず、現在の心とも思わず、未来の心とも思わず、ただ思考や分別をなさず、善い心を起こさず悪い心を起こさず、腹がすけば飯を食べ、寒さが来れば服を重ね、疲れてくれば眠り、目覚めてくればすぐに起き、この心がまったく自らの本来の仏だと知るなら、永遠に生死を超出するのである。このように本心を見るならば、三世(過去・現在・未来)のさまざまな仏がお説きになった真理が明らかに分かる。その力でさらに衆生を導くのを大智の光明があまねく法界(真理の世界)を照らすというのである。これはまた、心の大用(おおいなる働き)というものである。心は燈火のようなものであり、念は光のようなものである。心というのは本心であり、念というのは妄念である。また心で本心を得たとも思ってはならない、得るとは得るところの無いのを得るというのである。また心で妄念とも思ってはならない。妄念はもとより虚妄である。虚妄には実体はないのである。また妄念はこの心の用(働き)である。心の知恵である。心がなければ知恵はあり得ない。知恵のあるのを報身仏と言うのである。それゆえ六祖が言うには、「ただ空という見解があるだけで知恵や方便のない者は木や石と変わらない。知恵や方便があるのは、まさに法皇の人である」と。心に慈悲があるのを応身の仏というのである。それゆえ経に言うには、仏心というのは大いなる慈悲の心である。心に慈悲のない者を邪見(誤った見解)の人と名付け、心に慈悲のある者を応身の仏と名付けるのである。万法(あらゆる物事)は一つの心である。一つの心の他に真理はなく、悟りの心は姿形に心を止めるということがない。この心はこれ、色や形のある物でなく、有でなく無でなく、有でないのでもなく、空でなく、空でないのでもない。色でないのでもない、と悟り、あらゆる道理において滞らず、あらゆる物事において差しさわりなく、一念も生じない心は、これ法身の仏である。法身報身応身は、三身の仏である。この三身はただ一つの心である。一つの心に迷うものは三身に迷い、自分の一心よりほかに三身の仏を想いうかべ、浄土に生まれようと願うのは、喩えれば東に行った人を西の方へ探しに行くようなものである。尋ねて行くほど遠ざかってしまう。三身の仏は、この一心であると覚ってしまえば、心よりほかに仏として思い浮かべる仏もなく、浄土として生まれるべき浄土もない。ただ一念の生じないところに指し向かって、心にも執着せず、念にも執着せずに無相(姿形を見止めない)であれば、みなこれ自分の一心の大用である。このように説くのをまだ納得できないとなれば、見なさい、虚空に雲がなければ日月の光明ばかりである。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(六)

[「大悟」の項のつづき]

 

諸塵三昧(しょじんざんまい)というのは次のようなことである。諸塵(もろもろのちり)というのは煩悩のことである。また妄念のことである。三昧というのは定(じょう、乱れず定まっていること)という意味である。悟りの知恵の本性であり、諸仏の根源である。貪瞋痴(とんじんち)*の三毒のもとを尋ねてみれば、ただこの心一つから生じている。その心一つを尋ねてみれば、空寂**をもって本体としている。空寂であって姿形がないのであるから、心にもまた実体というものはない。この実体のない心から生じる三毒なのであるから、三毒にまた実体はない。諸仏は、三毒煩悩が生じることを自覚するが三毒煩悩に汚されることはない。けがされないのであるから、諸仏は常に三毒煩悩の中にあって三毒煩悩と等しくなることはない。ゆえに三昧と名付けるのである。三昧を細かく注釈するなら、三世(過去・現在・未来)に明らかであるという意味である。貪瞋痴の三毒煩悩に実在の本性はないと覚って、心を動かさないのを定と名付けるのである。このように心得ている人を、三世了達(さんぜりょうたつ)の人と名付ける。このような事情を知らない者は、三悪道(さんあくどう)***に落ちると仏はお説きになるのである。諸仏の計り知れない知恵と衆生の限りもない妄念と、まったく差別はなく、共にそれ自身の本性というものはない。そうであるから、求めるべき知恵もなく、嫌うべき妄念もない。妄念と智とは、心の真理ではない。またこの心を離れて妄念と智慧もない。古人が言うには、妄念と智慧という心の在り方は、仏や祖師の端的な(真実そのままの)心ではない。一念も生じなければ、直接、如来端的の心を悟るであろう。如来端的の心は、見聞覚知(けんもんかくち)****を離れている。この心を修行して明らかにした人は無数におり、喩えるならば一つの月が一万の水に映り、燈火を無数の灯してもその光の輝くさまは同じようなものである。昔から仏や祖師がこの心を証明なさってきたのだから、今の私たちがどうしてこれを修得しないということがあろうか。なぜと言えば、仏や祖師の心と衆生の心に隔てはなく、ただ一つの心なのだから、ただ信じると信じないと、知らないと知るとの差別、修得すると修得しないの違いがあるだけなのだ。それゆえ六祖*****が言われるには、修得しないのを衆生と名付け、修得したのを仏や祖師と言う、と。このように言うことに納得できないとなれば、見るがよい。ご飯は米がそう成ったのではないか。

 

*貪瞋痴:貪欲と怒りと愚痴の三つの煩悩。三毒煩悩とも言われる。

**空寂(くうじゃく):空にして寂滅。実体がなく生滅を越えている。

***三悪道:悪業の結果落ちる輪廻の道。地獄・餓鬼・畜生の三道のこと。

****見聞覚知:五感で感じたり知ったりすること。

*****六祖:中国の第六番目の祖師、慧能禅師。

 

 

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(五)

[「大悟」の項のつづき]

 

今の釈迦仏は、周の昭王(しょうおう)*十四年甲寅歳四月八日に王宮にて誕生され、同三十二年二月八日に十九歳で出家なされ、壇特山**に籠って道の修行をし、三十歳の時、十二月八日の明星が出た時に菩提樹の下で正覚(しょうがく、ただしい悟り)を唱えられ、説法して衆生を導かれること四十九年であった。今、お説きになる経は、最初の華厳経から涅槃経に至るまで、すべてで八万宝蔵(はちまんほうぞう)***のお経である。この仏は衆生を教化する縁がすでに尽きたので、穆王(ぼくおう)****の五十二年壬申歳二月十五日の夜半に涅槃にお入りになる(お亡くなりになる)とき、迦葉尊者*****を招いて、「我に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心、実相微妙(じっそうみみょう)の正法あり、汝独りに授く」(私に一切を照らし包む真実の法、苦しみを離脱した言葉で表現できない心の、本当の姿を示す深く窺い知れない真実の法門がある。今汝ひとりに授ける)とおっしゃって、外面的には金襴の僧衣をお授けになった。これは附法(ふほう、仏法を託すこと)の印である。また伝法の偈(仏法を伝えることを示す詩)に言うには、「法は元来無法である。無法もまた法である。今無法を託するとき、託する法、託された法、どうしていつか法であっただろうか」と。ここから着々と伝えて来て、仏滅後の二十八祖に至るまで二十八代である。達磨大師は、南天竺(南インド)から中国に来て、少林寺において九年間座禅した。そのとき、慧可大師をはじめとして六代目の祖師慧能大師まで、この袈裟を伝え、唐の曹渓に留めて******今にあり、内に伝える心の真理は法〇*******にして今まで途絶することはなく、各人の目前の三昧(無念の状態)だと言う。ここで知るのである、法界(真理の世界)には生老病死(しょうろうびょうし)の四つもない。なぜというなら、心と言うのは無心のことである。法(真理)というのは無相(姿形がない)である。無相であれば生きたり老いたり病んだり死んだりする当体はない。それゆえに毘婆尸仏が言うには、この身は無相の中から生じたのであって、やはり幻として様々な姿形を出しているようなものである、と。幻は元来、本当の姿はないのであるから、現われ出ている姿形にどんな実体があるというのだろうか。このことを知らずに、衆生の心の愚かなることよ、仮の存在にすぎない四大********を本当の物と思って六道に輪廻するのである。心もまた実在の本性というものはないので、生老病死に煩わされることはない。それゆえ仏は言う、人の心というものを悟るならば、元より跡形のないものである。跡形がないのであるから、善も悪もすべて空であって留まるところがない、とお説きになるのである。また華厳経に言うには、病はそのまま法界(真理の世界)でり、心もまた空寂(くうじゃく)*********であるとお説きになるのである。この空寂の心を悟らずに、みだりにこの心を本当の存在だと思って、生き死にの世界を流転して無限の苦しみを受けるのである。それゆえ経に言うには、空の道理を知らないがゆえに生き死にの世界に輪廻するのである、と説くのである。そうであるから、すなわち法界から生まれて法界に死ぬのであり、生まれるということも願ってはならない。もともと法界は生であるからである。また死ぬということも嫌ってはならない。もともと法界は死であるからである。古人が言うように、生とは無生であり、死とは不死である、と。また智覚大師**********が言うには、生というのはあらゆる物事や衆生の源であり、死というのは諸仏が定に入る(働きが止む)という意味である、生に生なく、死に死なし、と。

                         [「大悟」の項つづく]

 

*周の昭王:中国、周王朝第四代の姫瑕(きか)、在位紀元前1102年~1052年。

**壇特山(だんとくさん):北インドガンダーラ地方にあるとされる山。香川県に同名の山がある。

***八万宝蔵:釈迦が一生で説かれたすべての法門を言う。八万四千の法門とも。

****穆王:昭王の子。周朝第五代。紀元前992年~922年。

*****迦葉尊者(かしょうそんじゃ):大迦葉とも言われる、釈迦十大弟子の一人。釈迦入滅後、教団を率いる。

******曹渓に留めて:慧能禅師が衣を埋めたと言われる。

*******法〇にして:底本、〇の箇所が一字判読不能

********四大(しだい):古代中国で世界を構成する四つの元素と考えられた地・水・火・風のこと。

*********空寂:空にして寂滅。寂滅は「生滅滅しおわって寂滅現前す(生まれるとか滅するということ自体が消滅して寂滅が姿を現す)」と無常偈に言われるように、有無善悪の二元を越えた真如を言う。

**********智覚禅師:永明延寿禅師(904年~976年)、法眼宗

 

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(四)

〇 大悟

 

大悟(たいご)というのは、次のようなことである。心は本来、不生(ふしょう、生じたということがない)であり、法(真理)は本来、無法(むほう、説くべき真理はない)であり、煩悩は本来、これ菩提(ぼだい、悟りの心)である。心として求めるべき心もなく、法(真理)として尋ねるべき法もなく、煩悩として断ち切るべき煩悩もなく、元より菩提(悟りの心)であるから、悟りとして証しすべきものもない、と悟ることを大悟と名付けるのである。また、六祖*が言うには、自分の心の仏性(仏である本質)は本来清らかなものであり、煩悩というあり方と諸仏の本体とは平等であって二つのものではないと悟る。六道**の衆生(しゅじょう、命あるもの全て)は、本来、無相(むそう、姿形がない)であり、一切の衆生はことごとく仏である。自分の心と諸仏の心と一切衆生の心とに、各々別はないと悟ることを大悟と名付ける。本心を悟り、本性などを悟り、不滅であると見て、一切の場面において、一念一念みずからを見て滞ることが無ければ、心と境(きょう、対象世界)は一つとなり霊妙で明らかである。一切の迷いの心は、さまざまな境か心によってある。無念を宗(しゅう、教えの根幹)とし、無相を本体とし、無住(むじゅう、留まらないこと)を根本とする。一念不生(いちねんふしょう)であれば衆生はそのまま仏である。一念が生じれば、仏もまた衆生となる。自分の心に仏の心がないのであれば、いったいどこに初めて仏を求めようというのか、自分の心がそのまま仏の心であると分かることを大悟と言うのである。世尊***とも言う。黄檗禅師****が言うには、自分の心が本来、成仏であると悟ってしまえば会得すべき一つの真理もなく、修得すべき一つの経文もない、これが究極の道である。これはすなわち真如(しんにょ、真実ありのまま)の仏である。それゆえ達磨大師が中国に来て言われるには、直接人の心を指し示してたちどころに見性成仏(けんしょうじょうぶつ、本性を悟って仏となる)させる、教えのほかに別に伝えるのであり、まったく文字を立てることがない、と*****。なぜというなら、心はもとより不変であり常住(つねに存在する)であって、その姿形がないので、文字を立てないのである。これは如来の心の真理である。この心は師によって悟るようなものではなく、ただ自分の心を知るのであるから、教外別伝(きょうげべつでん)と言うのである。上は仏や祖師をはじめとし、下は衆生に至るまで、まったくわずかばかりも変わりはない。喩えるなら水と波のようなものである。だから末代の求道者たちよ、心よりもほかに仏があり、心よりほかに真理があると思ってはならない。明らかに知るのである、心と仏と衆生とに違いはないということを。そうして、この心を次々に受け継いできた人は誰であるかと言えば、過去の七仏である。

一番目に毘婆尸仏(びばしぶつ) この時の人の寿命は八万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

二番目に尸棄仏(しきぶつ) この時の人の寿命は七万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

三番目に毘舎浮仏(びしゃぶぶつ) この時の人の寿命は六万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

四番目に狗留孫仏(くるそんぶつ) この時の人の寿命は五万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

五番目に狗那含仏******(くながんぶつ) この時の人の寿命は四万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

六番目に迦葉仏(かしょうぶつ) この時の人の寿命は三万歳であった時にこの仏がこの世にお出ましになった。

これらは皆過去の仏である。今は釈迦牟尼仏であり、この仏の時、人の寿命が百歳の時、この世にお出ましになった。ここまでで七仏である。

                         [「大悟」の項つづく]

 

*六祖:中国の達磨大師から六番目の祖師、慧能禅師(638年~713年)のこと。

**六道:人が輪廻する六つの道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上。

***世尊(せそん):釈迦の尊称の一つ。世に尊ばれる人、の意。

****黄檗禅師:黄檗希運(おうばく きうん、生年不生~850年)。臨在禅師の師。『伝心法要』を残す。

*****直接~:「直指人心、見性成仏、教外別伝、不立文字」は禅宗の標榜。

*******狗那含:底本では「舎」となっているが「含」の誤植とみて改めた。この仏はまた倶那含牟尼仏とも表記される。

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(三)

〇  大疑

大疑(たいぎ、大いなる疑念)というのは次のようなことである。文殊菩薩は鋭利な剣を打ち振るって三世(過去・現在・未来)の諸仏を切り破れとおっしゃった。また、わが身は仏であると信じない者は、三世の諸仏を誹謗する者である。丹霞和尚*は、寒い夜に木の仏像を割いて焼いたが、その院主**や二人の座主***がこれを見て大いに怒った時、彼らの眉毛は落ち****、また口がたちまち閉じてしまった。また、南泉禅師は、ある僧が仏法とはどのようなものかと尋ねた時、猫を切ろうとした*****。また、帰宗禅師******は、ある僧が仏法とはどのようなものかと尋ねると、蛇を斬ると答えた。川老禅師は有仏(うぶつ、仏があるとすること、あるとされる仏)を殺そうと言い、登老禅師は無仏(むぶつ、仏はないとすること、ないとされる仏)を打とうと言った。また、雲門禅師*******が言うには、自分が釈迦と同時に世に生まれていたら、釈迦を一棒のもとに打ち殺して犬に与えて食わせようと。これらは大いなる疑問である。あるいは三世の諸仏を切り破り、あるいは木の仏像を焼き、あるいは猫を斬り、あるいは蛇を斬り、あるいは仏はあると言えば殺そうと言い、あるいは仏は無いと言えばお前を打とうと言い、あるいは釈迦を打ち殺して犬に与えて食わそうと言う。これらのことは道理にかなっているのか、そうでないのか、これは仏にどんな罪があってこのような威勢の良いことを言うのか。これらは大いなる疑問ではないか。仏や祖師も推測しがたく、これらを善と言うべきか、妄想と言うべきなのか。無理やり人知で疑って善と思ってはならず、その通りとも言ってはならず、この所は一人で知るがよく、人に問うてはならない。もし知っている人であれば問うがよいが、口を開かず、舌を動かさず、言葉でもって尋ねてはならない。なぜかと言うと、自分も知り人も知っているのなら、ことさら問題にしなくても知っていることであり、それでは法を究め盡すことはできないと説かれているからである。ただよく仏と仏とが諸法実相(世間のもろもろの事柄がそのまま真実の姿であること)の真理を究め盡されるのである。また、祖師が言うには、眼をもって照らし出し、心を伝えるのであって、それとは別に理解をこしらえてはならないと。文殊菩薩が仏を破り、丹霞和尚が仏を焼き、雲門禅師が釈迦を一棒のもとに打ち据える。これらはただ有相(うそう、姿形のある)の仏を示して、人が自分の心の無相(むそう、姿形のない)仏を知らないがゆえに、有相を打破して、無相の真実の仏を我々に知らせようとするために行う方便なのである。無相の真実の仏とは、一念不生(いちねんふしょう、まったく思念が生じない)の心がそれである。それゆえに金剛経に言うには、三十二相********をもって仏だとするなら、転輪聖王もまた仏だということになる。もし色(しき、姿形のある物体)をもって我(如来)を知り、声をもって我(如来)を求めるなら、この人は邪道を行う者であり、如来を見ることができない、とお説きになっている。明らかに知ることができる、有相の仏は本性の無い仏であり、実相の仏ではないということを。このようないわれを知らないで、ただみだりに仏を誹謗するような者は、無間地獄*********に落ちて無限に時を経ることになろう。また、南泉が猫を斬ることは、猫は物を貪欲に求める念の深い者であり、一切の衆生はこの貪欲によって六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天上の六つの道)を輪廻する。そうしたところに、人が来て「仏法とはどのようなものですか」と尋ねた時、猫を斬ると答えられたのである。かわいらしい猫を斬るというのではない、物を貪欲する猫の心を斬ると言うことである。貪欲というものが無ければ、すべてこれ仏法は歴然と明らかである。それゆえ法華経に言うには、「諸々の苦しみは貪欲によることを根源とし、もし貪欲が滅すれば諸々の苦しみも留まることはない」とお説きになる。諸々の苦しみの由来は、貪欲を根源とするのである。もし貪欲をなくせば、もろもろの苦しみもまた依って立つ元を失って留まることがない、云々と。帰宗は蛇を斬るのではなく、一切衆生はみなこの邪念によって生死に流転している。そうしたところに僧が来て、仏や祖師の心を尋ねた時、帰宗は蛇を斬ると答えたのである。このような方便を知らないで、みだりに因果を否定して罪を恐れず、祖師を蔑むような者は、黒縄地獄**********に落ちて無限に長い時間を経ることになろう。そうであるから、道を学ぶ人は、一念不生の心はまさに無相の仏であると悟って、念を起こし、心を動かして有相の仏をも誹謗してはならず、無相の仏にも執着してはならない。このように説くのを納得できなければ、見るがよい、水は流れて源にあり、風はさやさやと吹いている。

 

*丹霞和尚:丹霞天然(たんかてんねん)和尚、739年~824年。

**院主(いんじゅ):寺院の住持のこと。

***座主(ざす):寺務を統括する僧のこと。

****眉毛が落ちる:仏罰が当たると眉毛が抜け落ちると言われる。

*****南泉禅師:南泉普願(なんせんふがん)禅師、748年~835年。馬祖道一の法をつぐ。「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」の公案のこと。

******帰宗禅師:馬祖道一の法をついだ帰宗智常禅師。

*******雲門禅師:雲門文椻(うんもんぶんえん)禅師。864年~949年。雪峰義存の法をつぐ。雲門宗の開祖。

********三十二相:仏が備えると言われる優れた三十二の姿形、ただし優れた帝王である転輪聖王(てんりんじょうおう)もこれをもつと言われる。

*********無間地獄:もっとも恐ろしい最下層の地獄。ここからは無限に長い時間(無量劫)抜け出せないと言われる。

**********黒縄地獄(こくじょうじごく):殺生と盗みを重ねた者が落ちると言われる地獄。

 

 

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(二)

〇  理致

理致(りち)というのは、様々な善やあらゆる法(真理)の根源であり、諸仏の本源であり、衆生の本心である。この道理を見失っているので衆生となるのである。諸仏は、この心をお悟りになるので、仏となられるのである。経に言うように、正しい教えには無数の違いがあるとはいえ、様々な善は一つの道理である等々。また、円悟禅師の言うように、この大法(大いなる真理)の道理は、三世(過去・現在・未来)の諸仏が同じように証明したもので、歴代の祖師が共に伝えたものである。その一つの道理というのは、すなわち心鏡(すべての物事を映している心の鏡)が如如にして(あるがままであって)すべてのものは空である。まさにこれは大乗の本当の真理なのである。仏はこの道理を説くために世に出ること八千度である。この道理とは、我々衆生の心の本性なのである。生まれる時もこの道理から生まれる。喩えるなら水と波のようなものである。もし自分の心の道理を離れて別に仏があり、心があり、または道理があると思うなら、身体を離れて影を求め、水を離れて波を求めようとするようなものである。それゆえ昔の人も言ったように、道理を見て取らずに仏道の修行をしようとする者は、ただ寝そべっている牛が反芻(はんすう)しているようなものである。道理を知らない人が布施をするのは、繋いである犬が柱の周りを廻るようなものである。道理を見て取って仏道を修行する人は、人が目を開いて、晴れている時に太陽や月を見るようなものである。道理を了解して布施を行う人は、燈火と光を持っているようなものである。そうであるから、あらゆる教えを学ぶよりは、心の唯一の道理を見て取るには及ばない。あらゆる修行を行うよりは、心の唯一の道理を会得するには及ばない。ただ心の唯一の道理を修めることは、あらゆる教えを学び、あらゆる修行を行うことに勝っている。それゆえに昔の人も言っている。心の道理を見て取る者は角(つの)のようであり、あらゆる教えを学ぶものは毛のようであると。それゆえに、如実に心の道理を知る者を仏と言い、心の道理を見失っている者を衆生と言うのである。仏と衆生とは機(き、働き方)は異なるが、道理は一つである。衆生を離れて仏なく、ただ氷と水のようなものである。もし一念が生じて、心の道理の他に仏があると思うなら、すでに三宝(仏法僧)をそしる者である。なぜというなら、諸仏は世に出られてただこの衆生の心の道理は諸仏の心の道理である、まったく違いはないとお説きになるのを聞きながら、なお信じないで、自分の心の道理より他に仏法があると思って、仏を念じ、浄土に生まれようと願うのは、諸仏の金言(尊いお言葉)を信じないのであるから、三世の諸仏を誹謗する者なのである。長く悪道に落ちて脱出する時はないであろう。そうであるから、自分の心の道理はすなわち仏であると信じて、外に仏を求めてはいけない。また別に仏法を学んではいけない、仏があるという所にも安住してはいけない、仏が無いという所にも安住してはいけない、このように言うのをまだ納得できないとなれば、見るがよい、天には日月が明るく輝いており、地にはあらゆるものが青々として緑である。

 

〇  機関

機関(きかん)というのは、釈尊沙羅双樹の下で涅槃に入られる時に、迦葉尊者が来て金棺を叩いた時、釈尊はただ、紅蓮花(ぐれんげ、赤い蓮の花)をかかげて目をまじろがされた。迦葉はここで大悟した*。釈尊が無くなられた後の祖師の多くもこのようであるかと問い尋ねてみれば、「虚空に内外なし、大道に門なし」と答えたりしている。また仏や祖師の心そのものとは一体どんなものか、と問われて、柱状**を立てたり払子***を挙げたりし、また祖師が西国から唐土に来た意志はどのようなものかと問えば、「八角の磨盤空裏を走る」****と答えたりする。さらにまた、どのようにして仏や祖師の心を知るかと問えば、「首の上には天をいただき、足では地を踏む」と言っている。すべてただ、これらについて思いを巡らし、心を働かせてはいけない。思いをはせて心を動かせば、ことごとくみな違ってしまう。ただ、あるがままの本心から動かず、良し悪しを言わず、疑う所なく、直接に仏や祖師の頭上に越えて、虚空を踏み倒し、雲の外に手を開いて、まっすぐ向上の一路を踏む。ここにおいてはあらゆる聖人も踏み入ることなく、仏や祖師も肩を並べて進まず、鳳凰が飛ぶ空には小鳥は羽根を並べない。獅子が遊ぶ山には他の獣が立ち入らないようなものである。もしこの所であれこれ筋道を立て思量分別をするなら、須弥山を担いで大海を渡ろうとするようなものである。それゆえ法華経に言うように、是非(良し悪し)や思量分別なくしてよく悟ると。この法(真理)は思量分別でよく理解できるものではないとお説きになったのである。どういうわけかというと、思量分別して求めようと思う心は一体どんなものか、他人の心か自分の心か、このように思量分別する心すべてはこれ仏や祖師の心なのである。やはり朝夕に行住坐臥の振舞をする心は、まったくこれ自己の本心である。それゆえに維摩経に言うように、直心是道場(じきしんこれどうじょう、そのままの心が修行の場である)なのである。後世(ごせ、死んで後の世)は無いから直心是法界であり、妄想がないから直心是仏性(そのままの心が仏の本性)であり、思量分別がないから直心是禅定(そのままの心が本心の統一を離れない)であり、見聞きするものに捉われないから、足を上げるのも下げるのも、すべてこれ道場である。あらゆる物事について、時が過ぎてしまえばすべて夢となる。悪い心を忘れてしまえば、たちまちこれ善である。一日中一晩中眠っていても明らかである。病気のときも明らかである。正に知るがよい、一念が起こらなければ生き死にはそこで滅するのである。思量分別がなければあらゆる物事において明らかとなるはずである。このように了解し到達すれば、仏や祖師の行っている機関(働き)や擬量(思案)はすべてこの一念不生のところの心ではない。喩えるならば、水の泡のようなものである。目の中にホコリが入っていてもそれを見ることはできない。願わくば、自ら無心となれば、一切が明らかであろう。また、一念不生のところを悟るならば、自然に本来の心と合致するだろう。このところを見て、さらに働きのなすところを打破してみよ。鳥は天を飛んでゆったりとし、魚は淵に遊んでぴちぴちしている。泥で作った牛は泥であり、木馬はもとより木である。ただ自分で手を打って笑う、これは誰が行っている思案なのか。

*ここには、釈尊が涅槃に入られたときに迦葉尊者が間に合わず、遺体の収められていた金棺を拝んだという逸話と、迦葉尊者の大悟の因縁(いわゆる拈華微笑)の二つが混ざっているように見える。

**柱状(ちゅうじょう):杖のこと。

***払子(ほっす):僧が持つ仏具の一つで、毛を束ねて柄をつけたもの。

****「八角の磨盤空裏を走る」:八角の磨盤は古代インドの八角の武器で、空中を飛んであらゆるものを破壊すると言われる。達磨大師が中国に来られた心をこのように言ったか。「空裏」は武器が空(そら)を飛ぶとも、空(くう)の中を達磨大師が来られたとも取れるか。

 

 

永平仮名法語(道元禅師仮名法語)(一)

道元(どうげん:1200-1253)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

*はブログ主による注釈。

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仮名法語   

                              永平 道元禅師

 

〇  向上

向上(こうじょう)と言うのは、仏[釈尊]や祖師がじかに仏法を説くのだが、この様子を語るのは特別のことはない。天はこれ天、地はこれ地、山はこれ山、水はこれ水と、本心を働かせることなく指し示すところであり、我ら衆生の凡夫[ぼんぷ、普通の人]の心である。その凡夫の心というのは、心はもともと空(くう)であって空ではなく、妙(みょう)であって妙ではない。邪正[誤りと正しさ]もなく迷悟[迷いと悟り]もなく、三世[過去・現在・未来]もなく十方[あらゆる方向]もなく、東西もなく南北もない。それゆえに仏がお説きになったように、迷うから三界[欲界、色界、無色界の全世界]は強固な城に思われるが、悟るならば十方は空であり、本来東西はなく、どこに南北があろうか、と。祖師が言うには、この心を有とも無とも言ってはいけない、一とも二とも言ってはいけない、一二、有無はいずれもその主(ぬし)がない。この心は法界[ほっかい、仏法そのもののである世界]の心であるから、衆生の心という心もなく、諸仏の心という心もない。譬えるならば大海のようなものである。浅い所の水、深い所の水といっても違いがないようなものである。衆生がこの心に迷うのを浅い所の水に譬え、諸仏がこの心をお悟りになるのを深い所の水に譬える、これは迷悟の区別である。そうは言っても、水はもともと一つである。それゆえ、悟りにも落ち着かず、迷いにも留まらず、ただ心の自在である人を、向上の一路を踏むことができた人と言うのである。臨在禅師は、僧が門に入るのを見てすぐさま喝を与えた。与えられた一喝も、まだこの心を明らかにしていないと言える。また徳山禅師*に僧が「仏法の大意とはどのようなものか」とと言うた時、徳山はすぐさま棒でたたいた。この一棒も、いまだ心法[この心を明らかにする教え]ではないと言える。なぜかと言えば、心として特別に示すべき心もなく、法[真理]としてまた説くべき法もない。それゆえ円覚経で、修多羅[しゅたら、スータラから。経のこと]の教えは月を指す指(ゆび)だとお説きになったのである。また円悟禅師**が言うには、言句(げんく、言葉)は門を叩く瓦だと。そうであるから、向上の一路は、千聖不伝(どんな聖人でも伝えることができない)と思われる。もし向上の一路を知りたいと思うなら、見るがよい、最も高い須弥山***は崩れて地にあり、波は水を離れてはない。

*徳山禅師:徳山宣鑑(とくざん せんがん)禅師。780~865年。

**円悟禅師:円悟克勤(えんご こくごん)禅師。1063年~1135年。

***須弥山(しゅみさん):古代インドの世界観において世界の中心にそびえる聖なる山。

 

〇  向下

向下(こうげ)というのは、あらゆる物事を受け取り保つこと*をいう言葉であり、世間のもろもろの塵と一つになる**心である。あらゆる物事を受け取り保つ言葉とは、あらゆる物事は一つの心である、一つの心はあらゆる物事である、山河大地はすなわちこれ私の心である、私の心はすなわちこれ山河大地である、また法界の身体は私の身体である、ということである。それゆえに肇法師***が言ったように、「天地と我と同根、万物一体」である。春に芽を出し夏に成長し、秋に紅葉して冬に枯れ落ちる、これを離れるので、知恵はあるけれども分別の心ではない。分別の心がなければ見聞覚知[けんもんかくち、見聞きし気づくこと]を嫌うことはなく、ただ分別の心を嫌うのである。分別の心とは、諸仏と衆生とを別々のものと思い、地獄と浄土とを別々のものと思い、心と法とを別々のものと思い、他人をないがしろにして自分を優先し、私は知っているがあなたは知らないと思う心である。そのほかにも限りなくあるが、これを過ぎたるものはない。この心がなければ、そのまま心はありありとして明らかでない所はなく、法として照らし出されない所もない。また霊妙でとどまる所もない。直接無心の地に至るであろう。このように言うことにまだ納得のいかないことがあるなら、見るがよい、「鶏寒くして木に登り、鴨寒くして水に入る」***。

*原文は「万象総持(ばんしょうそうじ)」:「総持」は元はサンスクリット語の「ダラニ」(陀羅尼は音を移したもの)。すべての物ごとをよく受け取って保持する力のこと。

**原文は「諸塵三昧(しょじんざんまい)」。

***肇法師:(じょうほうし、374年~414年)鳩摩羅什門下。僧肇(そうじょう)。

***「鶏寒くして木に登り、鴨寒くして水に入る」:「鶏寒上樹鴨寒下水」雲門下の

巴陵顥鑑(はりょうこうかん)禅師の語。『景徳伝灯録』に出る。寒さに対して鶏は樹上に上るが鴨は水に入る。差異がありながら、そのまま所を得る。

 

 

大応仮名法語(十=終わり)

〇   病中の者に示す

 病の中での工夫(くふう:心を尽くして修行に打ち込むこと)は、ただ心に物を懸けないことである。これは今生での祈祷であり、また来世での菩提(悟りの境地)である。これ以上のことはない。たとえ死の免れがたい状況であっても、必ず助かることがあるであろう。また、死去したとしても、それ以上六道四生(ろくどうししょう)に浮き沈みすることはない。ただひたすら打ち払って一切の事を打ち捨て、無心の時に取りすがるところが無い状態は、自己の根本、悟りを得るのに近いのである。また、取りすがるところが無いといって、仏を念じたり他の工夫をしたりすべきではない。そのような雑事があれば、この大法に入ることはできずに、生死の海に輪廻して六道を離れない。古人が言うには、心で何か作ることがあれば禍が身にある、と。大善知識に会って、このようなことを了解できることでもって、無限の過去から大願を固く持ってきた人だと知れるのである。それ故に、「道無心合人、人無心合道(道は無心にして人に合し、人は無心にして道に合す)*」と言うのである。一心にこの言葉を信じて疑ってはならない。法華経に言う、「諸法寂滅相不可以言宣(諸法寂滅の相は言をもって宣ぶべからず)(物事の寂滅の姿は言葉で述べ伝えることはできない)**」と。行住坐臥、無相無念(念によって姿を捉えない)ならば悪い業(ごう)のすべては清らかな光明となり、三世(前世、現世、来世)十方(あらゆる方角、世界すべて)は寂滅為楽(じゃくめついらく)***となり、煩悩がそのまま悟りの境地となる。生死がそのまま涅槃(生死を超え、輪廻を脱したところ)だということが納得され、病の苦しみに任せて取りすがるところも無い時、本当に心からこのように信じれば、仏祖の本心に通じて、二世(現世と来世)に渡る願いが成就する。疑うなかれ、疑うなかれ。謹んで心を捧げて信じるべきである。

 

*道無心合人、人無心合道:中国唐代、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師(807~869年)の語。『祖堂集』巻二十。

**諸法寂滅相不可以言宣:法華経、方便門第二。

***寂滅為楽:無常偈といわれる『涅槃経』に出る偈。「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(しょぎょうむじょう、ぜしょうめっぽう、しょうめつめつい、じゃくめついらく)」と続く。一切の物事は無常である。これは生まれては滅びるという真理である。生まれては滅びるということ自体が滅したのちの、寂滅の境地に平安がある。

 

(仮名法語 終)