大応仮名法語(九)

〇ここまでこまごまと書いて来たが、つまるところはただ、公案を一つ持って、どのように答えようかと思案されれば、答え方に思い至ることができるのである。そのようなことがある場合には、善知識(指導する師僧)の所へ行ってその様子を申し上げるのだ。師のところに行って何度も考えて、答えができるたびごとに述べるのである。一句を透ることができた時は、千句万句もすべて透る。その後は、生きるも死ぬも自在になり、極楽に生まれるのも、都卒*にゆくのも、また人間世界に来て衆生のために行うのも、自分の気持ち次第にするがよい。また一句を透ることができたとしても、これを判断して打ち出す善知識にはなり難いのである。最近、いろいろと聞き及ぶところでは、その教え示すところは様々であって、あるいは一切を忘れて一物(いちもつ)も無い所へ向かえと言い、あるいはどうしようもない所へ向かえと言い、あるいは憎愛のない所へ向かえと言い、あるいは考えるのは病であり、物事につけて煩いのない所こそ良いだと言い、あるいは物事は自ずからそのようなものであって原因もなく結果もないなどと申している、これらも皆、しかるべき人たちの申すことであるから、きっと一理はあることと思うけれども、本当に透過することができたのであれば、どうしてこのように様々にとり乱れることがあろうか。もとより仏法に二つはない。世間でこれこそ本当の指導者だという人に常に指導を受けて法をお聞きなさい。本当の指導者とは、長老や住職に限らず、世間を逃れて隠棲している人の中にもいるだろう。羅山禅師**白雲守端***などという人は、みな隠れ住んでいる人たちである。このようなことをよくお考えになって修行をされるがよい。

〇また言うには、本来この通りである。他に迷うということも悟るということもない。理由もなく自分は迷っていると思って外に仏を求めるように思う心が迷いである。外に別の真理はない。心と仏と衆生という三つに差別はない。祖師が言うには、「即心即仏(この心がすなわち仏である)」と。また心の外に仏はない。心を離れて仏を求めれば、地面を掘って天を求めるようなものと言える。仏祖の言葉をどうして疑ってよいはずがあろうか。ひたすらこのように信じるべきである。明けても暮れても立ち上がっても座っていても、このように振舞っている物は何物であるかとよく見れば、見るものもなく、見られるものも忘れ果てて、力尽き、心が疲れ果てたところを、いくらか力を得たと言うのである。ここに至って思いがけず、自分本来の不生不死、埋めても埋もれず、焼いても焼けず、喜びも憂いもないところを知るのである。これこそ真の仏、法身(ほっしん)の如来というものである。ここに至って地獄もなく極楽もなく、得ることもなく捨てることもなく、衆生もない。得ることもないのであるから、僧は僧の修行をし、俗は俗の修行をするべきである。そうは言っても行うところにさらに執着せず、捨てることもないゆえに、もとのようにすべて行うのがよい。喜びや憂いも人と同じようにあるけれども、心の内は次第に晴れやかでさっぱりとする。本心が何物にも執着しないところを知るからである。この時には、先に述べたように迷う事も悟る事もないであろう。祖師が言うには、善悪をも思わずここにひたすら向いなさい、と。もしまた、様々な念が起こるならば、これは何物かと見なさい、そうすれば本来の姿が見えてくるだろう。また、普通の人が思っている様子では、仏というのは光がさして、神通力(不思議な力)もあるに違いない、何事でもすべて知っているはずで、寒い熱いも本当の人と変わらないと思っている。仏というものには三身(さんしん、三種の身)がある。一つは法身、二つ目に報身(ほうしん)、三つ目に応身(おうしん)である。神通力や変化(へんげ:姿形を変えて現れること)のあるのは三番目の応身である。これは悟りを開いた後に人を導く時の一時的な方便である。これくらいのことは、魔物も外道(げどう:仏教以外の教え)も天狗も真似のできることである。二つ目の報身仏は知恵のある姿である。第一の法身と申し上げるものこそ本当の仏の御心であるのだ。これは先に申したように、仏にあっても衆生にあってもまったく変わることはなく、目にも見えず、耳にも聞こえず、考えも及ばないところである。法華経に言うには、この真理は思量分別(しりょうふんべつ:あれこれ考えたり理解したりすること)でよく把握できるところではない、と。金剛経に言うには、もし色をもって我(如来)を見、音声をもって我(如来)を求めれば、この人は間違った道を行っているのであり、如来を見ることはできない、と。これは肝心で大事な言葉である。諸仏の御心に少しも違ってはいない。

 

*都卒(とそつ):都卒天のこと。弥勒菩薩が居るという天界。

**羅山禅師:五代十国時代の羅山道閑禅師(907~979年)。

***白雲守端(はくうん しゅたん):宋代1025~1072年の禅僧。

 

大応仮名法語(八)

(続)大恵禅師*が言うには、たとえ最後まで通らなくとも、般若(知恵)の中にあると言う。ただこの自分の身のことを思うのならば、自分の身を思わず、木石のようになりなさい。木人は人が打っても痛むことはなく、罵っても腹を立てず、非難しても怒らず、褒めても喜ばず、生をも喜ばず、滅をも嘆かず、こっちは好ましくあっちは疎ましいとも思わず、用いられれば用いられ、捨てられれば捨てられ、風が吹けば動き、雨が降れば濡れる。修行もこの状態に至れば、嫌うべき生死もなく、喜ぶべき菩提(ぼだい:悟りの知恵)もない。さらに修得すべきところもなく、修行すべき道もない。ただこれ、行住坐臥、日ごろの立ち居振る舞いにおいて、自然に任せているものである。そうは言っても、ただひたすら木石のように無心の者になれと言うのではない。ただ、もろもろの事柄において執着の心がないのを言うのである。風が吹けば波が立つが、波を離れて水はない。状況に遭遇して衆生には皆、この惑性(わくしょう:執着して迷う性質)がある。これを救うために〈古帆掛と未掛と小魚呑大魚(小魚、大魚を呑む)〉**と言うが、逆さまである。これはすべて惑性によるである。このように話を提起し、このような体裁になるのも、特別のことではない。ただありふれた道理である。このように、意に添わぬ状況に憤りが生じる、これより他に心があるわけではない。公案を会得、透過して立ち返って見れば、あらゆる物事(万法)は迷いの物事でもなければ悟りの物事でもなく、本来歴然としていて不増不減***である。それで古人は「如何なるがこれ仏法」と尋ねて「庭前栢樹子(ていぜんのはくじゅし)」****と言い、柳は緑花は紅*****とも答えたのである。そうはいっても、またこれこそ仏法だと取り定めてはならない。それゆえ悟った古人は、取り押さえれば(把定)雲は谷口に横たわり、あけ放つなら(放行)月は寒い池に落ちる******と言ったのである。このようなことを自ら疑いない所まで明らかにするのを道者とも仏者とも言うのである。言うまでもない、たとえ人に千年の命があるとしても、必ず最後が来る。いわんや老いも若きも死期に定めのないこの世の中の、今日とも明日とも知れぬ身、何時に期待し、何を頼みとして、いたずらに日を明かし暮らすというのか。世間の移り行く事柄は、何となくとも過ごしていけるものであるのに、昨日は今日のために時を過ごし、今日は明日のために蓄える。あるいはこれは残念だ、あれは悪いなどと思っているうちに悪業はいよいよ積もり、善縁はますます遠ざかる。このようにして長い暗闇におちいってしまえば、後悔しても何の役にも立たない。いたずらに野外に屍を捨てる身であるなら、同じことなら仏法のために捨てるべきである。努め、努めて怠ってはならない。やあお疲れさん。

 

*大恵禅師:大慧宗杲(だいえ そうこう、1089年~1163年)禅師。中国の宋代の臨済宗の僧。看話禅(公案禅)の大成者と言われる。

**〈古帆掛と未掛と小魚呑大魚(小魚、大魚を呑む)〉:原文に以下の頭注(元漢文、読み下しておく)が付されている。〔古帆〕会元に曰く、僧、厳頭に問う。古帆の未だ掛からざる時は如何。頭いわく、小魚、大魚を呑む。掛けて後如何。頭いわく、後園の驢、草を喫す云々。(『五灯会元』(ごとうえげん:中国南宋代1252年に成立した禅宗の伝統記、全20巻)によれば、ある僧が厳頭禅師(828-887年、中国唐代の禅僧)に尋ねた。使い古した帆がまだ船に掛かっていない時はどうか。厳頭が答えて言うには、小魚が大魚を呑みこむ。掛かった後はどうか。厳頭が言うには、裏庭にいる驢馬が草を食む、云々。)

***不増不減:般若心経に出るよく知られた言葉。「是諸法空相(ぜしょほうくうそう) 不生不滅(ふしょうふめつ) 不垢不淨(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)」(これ様々なる物事は空であり、生まれもせず滅することもなく、汚くもなく清くもなく、増すこともなく減ることもない。)

****庭前栢樹子:『無門関』第三十七則。祖師西来意(達磨大師が西から中国に来た心)を問われた趙州和尚が答えた言葉。「庭先の栢(かしわ)の木」。

*****柳は緑花は紅:元は中国の詩人、蘇東坡(そとうば、1037-1101年)の『東坡禅喜集(とうばぜんきしゅう)』に出る「柳緑花紅真面目」から。

******把定すれば雲谷口に横はり、放行すれば月寒潭に落つ:元代の道士、李道純の〈滿庭芳.寂寞山居〉に「把定則雲橫谷口,放行也、月落寒潭」とあるのがもとか。仏法を掴んだと思えば雲が谷口に横たわって山の姿を隠してしまう。執着を捨てて開け放てば波の静まった冬の池に真理の月は清かに姿を現す。

大応仮名法語(七)

(続)法華宗で[南無妙法蓮華経の]妙の字を説明するときには、妙とは心であると言う。このように心得れば、唱えなくとも常に念仏し、修行を行わなくとも自然と極楽の衆生である。これは教家*の言うところである。もし教外別伝**ということになれば、鏡もそこに映る姿も打ち砕いて、すべて六識***でする考えを絶し、迷いと悟りの区別をなさず、念は有るなら有ればよし、無いなら無いでよし、それにもかまうことなく、是非を思わず、是非を離れず、ただ師の示した一句を離さず、確かに[公案を]透過しようと努めるのである。その一句というのは、例えば師が授けて次のように言う。「父母未生以前の本来の面目、一句に答え来たれ(父母が生まれる前のお前の本来の姿について一言いってみよ)」と。これに答えようとすると、心や意識を働かせて思案することはできないし、それを離れて思案することもできない。道理をもって答えることはできないし、道理を離れて答えることもできない。ただ問えば答えるだけである。鐘を打つと鐘が木に従って鳴り響くようなものであり、名前を呼ばれて名前に従って返答するようなものである。素質の優れた者は、一句を与えればたちまち答える。素質の優れないものでも、半年、一年、十年、二十年と退かず辛苦すれば、ついには透過しないということはない。古人が言うには、敵に向かってたった今勝負を決めようとするようにせよ、毒矢が胸にささっているが如くにせよ、胸のうちにひとかたまりの火が燃えているようにせよ、父母を一度に亡くしたかのようにせよ、百万貫****の借金をして支払う方法がなく恥辱を与えられているが如くにせよ、と。このようにすれば、必ずわずかでも会得することがあるはずである。公案は全部で千七百あると言うけれども、山河大地、草木樹林、目に触れ耳に聴くもの、すべて公案でないということはない。この禅宗においては三重の道理があり、いわゆる理致、機関、向上というのがそれである。初めの理致というのは、諸仏の教え、並びに祖師がお示しになった心の本性などについての道理を言う言葉である。次に機関と言うのは、諸仏や祖師が本当に慈悲を発揮されて、いわゆる鼻をねじり上げ、目をパチパチ瞬かせ、とっさに泥牛飛空、石馬入水(泥の牛が空を飛ぶ、石の馬が水に入る)などと言ったりするのがこれである。後の向上というのは、仏や祖師が直に説いたところ(仏祖直説)、様々な物事がそのまま真の姿であること(諸法実相)など、すべて異なることはない。いわゆる天はこれ天、地はこれ地、山はこれ山、水はこれ水、眼は横で鼻は縦など、これである。そうはいってもこの三句を会得して通過することは難しく、ある者は理致に留まって知的理解を生じて言葉で説かれた文字の意味を理解し、ある者は機関に従って茫然として疑いを破ることができないまま、ひとえに働きに留まってしまい、ある者は向上に落ち着いて物事すべてそのまま真理だという見解を起こして無事甲*****(何事も無いという殻)の中に落ち込んでしまう。そうは言っても、時節因縁(じせついんねん)が到来して、三句を透過する者も多い。たとえ納得できない者でも、寝ても覚めても、立っていても座っていても、専心に眼を付けて、心をゆるさずに行ずるのがよい。そのようにするならば、遂には獲得しないということはない。仏法の心得は、他の事を思ってはいけない。ただ志の無いことを嘆くべきである。大賢者は言っている。初めて道に入ることは常に難しいものであり、難しいからといって退いてしまっては、一体いつ獲得できるというのか。たとえ獲得できずとも、そのように嘆いて亡くなるとすれば、臨終のときには獄卒(ごくそつ:地獄の悪鬼)の杖に打たれるはずもない。一念一念相続して般若の工夫(真如そのものである実践)を続ければ、どうして空しいことがあろうか。次の生には必ず大事を成す(修行を完了する)はずである。

*教家(きょうけ):教義を説く諸宗のこと。禅家(ぜんけ)に対比して言う。

**教外別伝(きょうげべつでん):仏法の真理は教義の他に伝えるものであることを言う。禅宗は「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を標榜すると言われる。

***六識(ろくしき):六種類の認識のこと。眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六つ。

****貫(かん):昔の重さ、金額の単位。一貫は100両。

*****無事甲(むじこう):何事も無いというカブト。虚堂録に出る語。虚堂智愚(1185-1269)は、中国・南宋時代に活躍した禅僧で大応国師の師。元は、大慧宗杲(だいえ そうこう、1089年~1163年、中国の宋代)の語録に出る。大慧禅師はいわゆる無字(むじ)の公案にちなんでこの語を出しているので、「むじこう」と読まれているが、臨在禅師には「無事(ぶじ)これ貴人」などの語もあり、ここでも意味上は「ぶじこう」と読んでもよいように思われる。

大応仮名法語(六)

〇また、この心を一つの鏡に喩える。心に浮かぶ念を、鏡に映る姿に喩える。この心の鏡に、善を行う時は善の姿が映り、悪を行う時は悪の姿が映る。心で捉えた行いやその結果のすべては、心の姿となって、この姿にひかれて六道四生*の輪廻に沈むのである。心で捉えた姿にひかれるというのは、一切のことを心に取り決めて、その取り決めに深く執着して離さないので、最後の臨終のときになって地獄や餓鬼などのさまざまな世界を見いだして、それに従って種々の生まれる場所に赴くのである。もともと心の他には善い場所もないのであると知れば、どうして善悪の生を引くことがあろうか。例えば世間が寒いとき、柔らかな水も固い氷となるようなものである。氷は水の他のものではない。有も有と名乗らないのに、自分が執着して有とし、空も空と名乗らないのに自分が執着して空とする。例えば人が一人の赤ん坊をもうけて、初めは鶴と名付け、次に名を変えて亀と名付けた後は、前の鶴の名は忘れてただ亀とだけ認める。また松、竹などの名前に変わっても、変わるごとに前の名前は忘れて、ただ今の名前だけに執着するようなものである。その名前を取り除いてみれば、ただ元の赤ん坊であるだけなのだ。このように、自分が物に名前を付けておいて、その名前に執着して、無い事を有ると思い、その思いに引かれて流転するのである。安国師が言うには、もし善に留まって心を生じれば善が現れ、悪に留まって心を生じれば悪が現れて、本心はたちまち隠れてしまう。善悪に留まらない時は、十方世界**ただこれ一心である。そもそも、様々な物を納めているその心は一体どこにあるのか、求め尋ねてみてもまったく行くえの知れぬものである。内にもなく外にもない。もし内にあるのなら五臓六腑を見るだろう。もし外にあるのなら中国やインドなど心に浮かぶ場所を皆見るだろう。本当に色もなく、形も分からないのであるから、本心は無いものなのである。本心がすでに無いのであるから、その影である念(思い)も存在するはずはない。双方ともに無いとなれば、どこに思いの影が移り、業(ごう)の影が留まるだろうか。このように無い事に迷って、善悪の果報を受けるので、仏陀は、もろもろの事柄は夢のようであり、また幻のようであるとお説きになったのである。夢をみるときは善も悪もありありと思われるが、覚めてみれば何もない。夢幻は形を結ぶ始まりもなく、覚めて消える終わりもない。善悪の物事は、善悪の状況に引かれて生じるが、その源をみれば、始めもなく終わりもない。夢がさめたのちは何も無いようなものである。しかし夢も本当には無いけれども、悪い夢を見る時は、苦痛は耐えがたく、良い夢を見る時は喜んで楽しむ。凡夫(ぼんぷ:仏法を悟らない者)はこの念のうちにあって、生死の深い夢を見る。朝夕の状況の因縁に対して悪念ばかり起こす。それゆえに悪夢ばかりを見て、三悪四趣***に落ちたと思っている。仏陀は善悪の起こる源を知って、執着する心が無いゆえに、しじゅう念を起こしても、無念となる。無念のところを仮に心と言うのである。心と言うのは、名前ばかりあって本当の形はない。古人は無心と言った。このように心得れば、念から形をなす生死はあるはずがない。このように見て知り遂げるのを、いささかの見性得果****と言うのである。そうなれば、嫌うべき生死もなく、喜ぶべき極楽もない。迷いと悟りの隔てもなく、凡人と聖人の隔てもない。ここを生死を離れると言い、浄土に往生すると言い、仏になるとも言うのである。それゆえに観無量寿経には、「是心作仏、是心是仏、諸仏正遍知海、従心想生」(ぜしんさぶつ、ぜしんぜぶつ、しょぶつしょうへんちかい、じゅうしんそうせい:この心が仏をなし、この心が仏である。諸仏の海の如く広い悟りは、心より生ずる)と言い、『往生礼賛』*****の晨朝(じんちょう:朝のお勤め)の言葉に「西方遠しということなかれ。西方己が心に安んずる」(西方浄土は遠くにあると言ってはならない。西方浄土は自らの心のうちに静まっている)とも言うのである。また、黒谷の金剛法界章******には、阿弥陀とは心の異名であると言う。(続く)

 

*六道四生(ろくどうししょう):六道は、人が輪廻すると言われる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの世界。四生は、卵生、胎生、湿生、化生という四つの産まれ方。

**十方世界:八方位に上・下を合わせたあらゆる方角、場所のこと。全世界。

***三悪四趣(さんあくししゅ):三悪は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと。四趣はこれに阿修羅を加えて言うもの。

****見性得果(けんしょうとくか):見性は自らの本性を悟ること。得果は修行の成果を得ること。

*****『往生礼賛』:善導大師の著作の一つ。六時(日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中)における浄土教の実践・儀礼について書いたもの。

******黒谷の金剛法界章:法然上人述と言われる『金剛宝戒章』のこと。

 

大応仮名法語(五)

〇また言う。法法本来法(個々の姿はそのまま真実の姿)であり、心心無別心(時々の心のありさまは、そのまま仏心)である。世界や国土がいまだ姿を現さず、仏の世界と衆生(生きとし生ける者)の世界とがいまだ二つに分かれない前、この心は一人己を現し、天に先立ち、地に先立ち、太古に光り、現在に輝いている。それゆえに先人も言っている。「有物先天地,無形本寂寥,能為萬像(物)主,不逐四時凋。」(物があって天地に先立ち、形無くして本来寂寥である。よく万物の主となり、四季を追って凋落しない。[傅大士の言葉])ただ、、道を学ぶ人に必要なのは、本来の志を起こし、衆生と仏とが分かれる前、すなわち一念が生じる前について、心を込めて見続け、さらに見通し、究め続け究め通し、静かに見よ。修行が積もってその工夫が熟せば、明明として自己本来の心地(本来の面目)と本地の風光(日常の受容)とを見るはずである。もしもよく、このように、真実にこの心を知る者は、生き死にを超え、仏の世界をも超えて、独り楽しみ、安閑として求むる物がなくなり、無心の道人に他ならない。無常の時は速やかに過ぎ去る、時は待ってはくれない。心して勤めよ、勤めよ。それ生き死にを離れる道は、仏や祖師方が示した道だとは言っても、その源をたずね求めれば、自分の心をしかと明確に知ることより他のことではない。それなのに、人はみな、心即是仏(心がすなわち仏である)ことを知らず、外に仏を求め、むなしく疲れ果て、ついに本当の道理にかなうことがない。例えて言うなら、南の方に親が向かっているのに、その子は北に向かって求め行くので、進んでゆくほどますます親に遠ざかるようなものである。また心がそのまま仏であるだけではなく、十界*十如**、三千世界***、山河大地、草木国土、浄土穢土(清らかな浄土も汚いこの世も)、依正の二法(国土等と衆生等)は、すべて皆、心のうちに備わっている。心は本来、自分の本性というものが無いのであるから、いろいろと行った行為に従い、また向かい合った場面によって移り行くものである。物を害し、物を盗み、罪を犯して仏法をそしれば、心は地獄となり、欲深く間違った考えを抱けば心は餓鬼となる。暗愚であれば心は畜生となり、執着が強く高慢であれば心は修羅となる。五戒十善****を持てば心は人間や天界となり、他人を救わず自分の救いを求めれば心は声聞や縁覚*****となり、知恵や慈悲が深ければ心は菩薩となり、もろもろの悟りを開けば心は仏となる。物をうらやむ女がそのまま蛇の身を得たという例はたいへん多い。このように一心というものこそ、様々に変化するのであり、仏法はこの心の外にはまったく無いのである。例えば一つの金で十の世界の形を作るとすれば、形は違えども、金の本性は同じであるようなものである。物事は千差万別であってもこの一心を離れない。華厳経にいわく、「三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別。(欲界・色界・無色界の三界はただ一心であり、心の外に真理はない。心と仏と衆生との三つに差別はない。)」また、「心は優れた絵師のようなもので、種々の五陰(色・受・想・行・識)を作る。世間すべてのもので心から生じないものはない」と。また、同じ経にいわく、「この心を浄法界の心と名付ける。浄法界というのは、晴れた空のようなものである。虚空の晴れている時は、ただ青くだけ見えてすべて他の物は無いのに、何処から来るのか雲が一つ来たと見ているほどに、その雲は次第に広がって全天を覆ってしまうと、風を起こし雨を降らす。その時は虚空の姿はみな失せてしまって、ただ黒い雲だけとなる。この雲を無明(むみょう)と名付ける。もろもろの煩悩の根源を無明と言うのである。心もまたこのようなものである。何事も思わないでいるときは晴れた空のようである。見聞きしたり意識したりする場面に出会って、一念偏意(一念の心の執着)が起こる時、たちまち妄念の雲が厚く覆って、本心はすべて埋没してしまう。そうはいっても妄念は生じたものであるので、ついには滅した後は、本来の心であるのである。雲が晴れれば清らかな虚空であるようなものである。

 

*十界:仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界、阿修羅界、鬼界、畜生界、地獄界の十の世界。

**十如:十如是の略。如是は「このような」の意味。鳩摩羅什訳の法華経方便門に由来する天台宗の教義。すべての事象の「如是相,如是性,如是体,如是力,如是作,如是因,如是縁,如是果,如是報,如是本末究竟」をいう。

***三千世界:仏教の宇宙観にある、無数の世界が集まった全世界のこと。

****五戒十善:五戒は仏教の五つの戒め。不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒。十善は十悪を犯さないこと。不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口(ふあっく)・不綺語(ふきご)・不貪欲(ふとんよく)・不瞋恚(ふしんに)・不邪見。

*****声聞、縁覚:声聞は「教えを聞く者」の意。縁覚は「各自に悟った者」の意。

 

 

大応仮名法語(四)

〇尋ねて言った。大用現前(だいゆうげんぜん)の所(真如の大いなる働きがはっきりと目の前に現れたところ)とは、どのようなものか。

〇答えて言った。銀山鉄壁(ぎんざんてっぺき)(銀の山、鉄の壁)。

 

〇尋ねて言った。悟った時も銀山鉄壁、悟らない時も銀山鉄壁と言う。違いはどうなのか。

〇答えて言う。銀山というのは、この本性の当体が清らかで光明を放ち、一日中般若の智(悟りの知恵)の働きをし、通霄円覚(つうしょうえんがく:大空に行き渡る欠けることのない目覚め)の霊なる光を放って、天真独朗(てんしんどくろう:うまれたまま朗らかで一つ)である本来の根源的に清らかな心の当体を銀山と言うのである。鉄壁というのは、この本性の当体が十方(あらゆる方向)の空間に行き渡る真実の世界に満ちて、進めば前にあり、下がれば後ろを押さえ、口を開こうとすれば顎を押さえ、言葉を出して明らかに出来ないところ、ここを鉄壁と言うのである。この本性の当体は、さまざまな仏たちが世に出ても、その悟りと一体となるということもなく、衆生(いきとしいける者たち)が輪廻転生しても、その迷いと一体となるということなく、ゆったりと寂静であり、迷いや悟りと一体とならず、それゆえに悟る時も銀山鉄壁、悟らない時も銀山鉄壁と言うのである。そもそも千七百則ある公案*は、すべてこの一つの心の別名である。ある時には本体を指し、ある時には働きを指し、ある時には姿を指す。ある時には本体・働き・姿を一つの言葉で現すこともある。このように言葉は無数にあるといえども、指すところは本来の場所の輝き、本来の姿を表してはいない。人々はみなその言葉に固執して、その道理を知らない。このような人は不立文字(ふりゅうもんじ)**の宗旨を滅ぼして称名念仏***の人と同じである。あるいはまた、切り株を守って兎を待つ****のと変わらない。千七百則の公案は、ことごとく虚空に満ち満ちて髪の毛一筋の隙もなく、万里一条の鉄(ばんりいちじょうのてつ:広大な広がりすべてが一枚の鉄)であると見て取って、迷いや悟りや、獲得したとか失ったとか、本来一物も得ることのできるものもなく、また捨てることのできるものもないと知れば、ほんの少しの真理さえ心に触れることはない。一体、このことの何を提̪撕(ていせい:呼び覚ましさとす)するというのか。江月照松風吹。氷夜清宵何所為*****。

公案(こうあん):座禅のときに心を集中して取り組む問題のようなもの。

**不立文字(ふりゅうもんじ):不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏と言われる禅の本質の一部。文字によらず、教えの他に伝えるものがある、直接人の心の本性を指して悟らせ、成仏させる、の意。

***称名念仏(しょうみょうねんぶつ):阿弥陀仏の名を唱える念仏のこと。ここでは禅師は、言葉で仏の名を唱えるだけでその本性を見ないことを批判している。

****切り株を・・・:『韓非子』にある説話「守株待兔(しゅしゅたいと)」ある日農夫がたまたま切り株に頭をぶつけて死んだ兎を得たことから、その後鍬を捨てて切り株で兎を待つ農夫の愚かさを言った諺。北原白秋作詞の動揺「待ちぼうけ」でも知られた。

*****江月照松風吹。氷夜清宵何所為:江月(こうげつ)照(て)らして松風(しょうふう)吹(ふ)く。永夜(えいや)の清宵(せいしょう)何(なん)の為(なす)所(ところ)ぞ。永嘉禅師『証道歌』にある句。月が川を照らして松風が吹く。長い夜の清らかな宵はなんのためにあるのか。テキストでは「氷」となっているが「永」か。

 

〇また説いて言った。初心の人、また年取って学ぶ人も、もし自己を明確にし、生き死にということを明らかにしようとするなら、第一に仏道に向かってはならない。ましてや迷いというものを嫌ってはならない。目の前の物に執着せず、心の内に道理を認めず、内も外もすかっとして、手足を離れてはならない。ここに至って、もし実際に工夫を怠ることなく、自分の工夫が転換して、たちまちに知を忘れ、空に透脱(とうだつ)し去るならば、カラリとして身が無くなりまったき真如となる(脱体円成)だろう。あらゆる機縁やあらゆる状況も、自分も他者も無くなり、目が無くて見、耳が無くて聞くようなものである。このようになるのをしばらく名付けて大安楽、大自在、無碍(滞りのないこと)の道場と言うのである。疑ってはならない、疑ってはならない。よく覚えておくのだ。お疲れさん。

大応仮名法語(三)

〇尋ねて言った。仏祖不伝の所(仏陀や祖師たちが伝えなかったところ)とはどのようなものか。

〇答えて言った。やって来て尋ねるならば、もう天と地が遥かに隔たってしまう。意図をもって求め、意識して求めるなら、棒を振りかざして月を打ち、靴を隔てて痒いところをかくのと変わらない。それはあなたの伝心のところではない。直に、過去の思い、未来の思いに関わらず、まっしぐらに矢が弦を離れて返る気配がないような様子であれば、口の利けない者が夢を見て他人に向かってそれを語れないといっても、心では明白な所があるようなものである。それがすなわち仏祖不伝の所である。

 

〇尋ねて言った。すでに一つとして授ける所はない、というようなことであれば、仏陀から二十八代の祖師(達磨大師)に至るまでの祖師方は、どうして相伝(そうでん:代々受け継ぐ)と言うのか。

〇答えて言った。相伝というのは、何かの法(真理)を相伝するというのではない。仏だとか真理だとかいう知見、有相(姿のあるもの)無相(姿のないもの)という知見、すべてを断ち切り尽くし、胸の中に一物もあることなくして、孤明歴々(こみょうれきれき:独りまったく明白にして)赤洒洒(しゃくしゃしゃ:隠すところがない)で、三世十方*を貫いているけれども、鳥の飛ぶ道がなく、羚羊が角を掛け**て跡を残さないのと同じである。これがすなわち大安楽のところである。ただこの安心、安楽のところを伝えて、そのほかに一つとして人に授ける真理というものはない。だから、仏道は無心にして人に合い、人は無心にして仏道に合う、というのである。世間の中のありとあらゆるものは、すべてこの仏道である。仏道と心と二つあるのではない。心即是道(しんそくぜどう:心がすなわち仏道)道即是心(どうそくぜしん:仏道がすなわち心)である。心と仏道と一体なのであるから、いったい誰が仏道の修行をしようというのか、修行をするとなれば二つに分かれることになる。「刀、刀を斬らず、眼、眼を見ず」(刀では刀を斬ることができず、眼で眼を見ることはできない)という喩えのとおりである。父母に産んでもらった口を開いて、心と説き、本性と説き、禅と説き、仏道と説くが、これらは皆、是非海(ぜひかい:良し悪しの海)***に落ちるものである。仏に逢っては仏を殺し、祖師に逢っては祖師を殺し、親族縁者に逢っては親族縁者を殺し****ほんの塵さえも真理というものを立てない。これが大いなる仏道に至る修行のあり方である。もし心の中で、「ここだ」と思い定める所があるなら、六十二見*****を出ることはない。古人が言っているように、真実本当の所に到達しようと思うのならば、直に目前のことを見て取りなさい。目前にあるのはいったい何か。目前はこれ真実、真実はこれ心である。心と真理とがすべて一体であるならば、どうして真理を求め尋ねるだろうか、求め尋ねれば機法(きほう:心の働きと真理)は別物である。心と真理とをともに忘却すれば、そのままただちに大いなる働きが姿を現し、他に道のりなどない所******である。

*三世十方(さんぜ、じっぽう):三世は、過去・現在・未来の全時間、十方は東西南北、東南・西南・東北・西北、上・下を合わせた全空間。

**羚羊掛角(れいようかいかく):羚羊(カモシカ)が眠るとき角を枝に掛けるがその跡を残さないことからできた言葉。

***是非海(ぜひかい):あらゆることに渡って是非善悪を言う人のあり方を海に喩えていったもの)。

****仏に逢っては仏を殺し・・・:臨済禅師の言葉。

*****六十二見:外道(げどう:仏教以外の教え)の教えを六十二にまとめたもの。

******大用現前不存軌則:『碧巌録』第三則に出る語。

大応仮名法語(二)

〇問う人が言う。あらゆる物事は想念を持たず無心で、良し悪しの分別はないが、我々はそれらの物事に対してすべて良し悪しの分別がある。どうして物事と一体であるはずがあろうか。

〇禅師が答えて言う。我々が見聞きしたり気付いたりする精神の働きは、ことごとく虚空をその本体としている常住不変の妙心*から出ている優れた働きである。この優れた働きの鏡が清らかであれば、森羅万象の姿はこの鏡にうつる。衆生は、この一念が本来の優れた働きであることを知らずに、この一念を愛したり憎んだりすれば、愚かな犬が土くれを追いかけるようなものである。見るがよい。世間の中にあるものすべての物はみなこれ良いか悪いかである。この二つを離れない。良いものは良いのであって無心無念であり、悪いものは悪いのであって無心無念である。それゆえ、良し悪し、獲得と喪失、生き死にや転変など、一切の物事は皆これあなたの本体の輝きであり、本来の面目なのである。

 *妙心:言葉では表現できない優れた心。

 

〇ある人が尋ねて言った。そのように心と本性とは一体だと見ても、ややもすれば物事によって、ある時にはこれを愛し、ある時には怒り、ある時にはよく分からず、ある時ははっきりと分かり、またある時は気が散り乱れる。衆生には皆、こうした病がある。どうして良し悪しが一体だと見ることができようか。

〇禅師が答えて言う。あなたが一たび怒るときのその本質は、あなたの四大の中の火の元素に当たる時に、顔も赤らみ体の中も熱く燃えるのである。これはすなわち火の元素の本質なのだから、何物を自分と言うべきか、自分など無いのである。もやもやして分からない時は、あなたの四大の中の地の元素に当たる時で、もやもやと暗く物をわきまえ知らないのである。物を愛し、慕う心が深く、泣けば涙が浮かぶのは、あなたの四大の中の水の元素に当たる本質である。何物を自分だと言うべきだろうか。手を挙げ、足をおろし、東西南北に行き来し、動き働き、音を出す、これはあなたの四大の中の風の元素のしわざである。何物を自分だというべきだろうか。あなたの一大事である命というものの息である。息は風の元素であり、虚空に満ちあふれている風である。この四大は、本来、真実の世界の正体であって、何物を自分だというべきだろうか。衆生が自分だと思っているのは、貪瞋癡*であり、これを自分だとしているのだ。如来にとっての自分というのは、常楽我浄**のこの本体そのものであり、草木や国土、ありとあらゆるものを自分というのである。オケラやアリ、蚊やアブ、蠢く虫や生き物すべてに至るまで、ことごとく皆自分だと見て取るので、すべて隔てもない。また、これが自分だと取り立てて愛すべき物もない。暗くてもやもやするのも真実世界のもやもや、はっきり明白なのも真実世界の明白。このもやもやも明白も、双方ともまったくあなたのもやもや明白ではなく、常住不変の妙心(優れた本心)の妙用(みょうゆう:優れた働き)である。ただ、あなたの日ごろの貪瞋癡を見て自分だと思っている、その自分をいっぺんに放り出してしまえ。その煩悩に満ちた自分を殺し得た時、いったい誰が生き死にに迷うことがあろうか。本来生き死にはないと見て取るならば、いったい誰が修行をする必要があろうか。何か一つとして獲得すべき真理はなく、一つとして捨てるべき真理もない。胸の中に一つの塵も一つの物事もない。円融(まどかに溶け合って妨げなく)無際(無限に広がり)大法現前(大いなる真理が今ここに姿を現す)のところ、これがそのまま大安楽のところである。

*貪瞋癡(とんじんち):三毒煩悩といわれる三つの主要な煩悩。むさぼり、いかり、ぐち

**常楽我浄(じょうらくがじょう):常に苦しみのない清らかな自分。

 

〇尋ねて言った。仏法を一つも学ばない時は、平穏であり依存するものもないが、そのような状態になる時は、何もしなければ何事もないという無為無事の見解に落ち込まないだろうか。

〇禅師は答えて言う。何もしないところを良しと思うのならば無為無事の見解に落ち込んでしまうだろう。しかし本来無我であると悟るときは、また何物があって無為無事を好み取るだろうか。本当にあなたがその邪魔をしている真実を見ない自分を一気に打ち殺して見よ。山虚風落石 樓靜月侵門(山虚にして石を落とし 樓静かにして月、門を侵す:山々はひっそりとして、風が石を吹き落とす音さえ聞こえ、西閣には動くものとてなく、月の光が扉の中に侵入してくる。)*。

杜甫の詩「西閣夜」にある文句。

 

 

大応仮名法語(一)

*大応国師南浦紹明(なんぽしょうみょう:1235-1309)禅師の仮名法語。底本:『禅門法語集 中巻 復刻版」ペリカン社、平成8年補訂版発行〕

*〔 〕底本編者による補足、[ ]はブログ主による補足を表す。

*はブログ主による注釈。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 そもそも生き死にを離れ、菩提[悟りの境地]を修得しようと思うなら、まずこの心と体とを明らかにしなければならない。体というのは、あなたの四大*である地水火風に他ならない。この四大は、本来、不生不滅**であり、すべて生き死にというものがない。来ることもなく去ることもない常住不変の法界[ほっかい:真実の世]から現れた四大であるから、主体もなく我[固有の自性]もなく、来るときも法界から現れ、去るときもまた法界に帰る。それゆえ心性[しんしょう:心の本性]は虚空と同体であって、朕跡[ちんせき:隠れたり現れたりすること]なく、涯岸[がいがん:障壁」もない。万物の姿も増すことなく、五蘊***も乱れることがない。円陀陀孤迴迴[えんだだこかいかい:まどかに美しく、一でありながら活発に動く]であり、円満ではてしがない。ただ、このものの正体は、十方****の虚空の全世界にあまねく満ち満ちており、たった一つの塵もほかのものではない。草木や国土、山河大地、塵も何もかも、森羅万象、ことごとくこれ、本来の場所の輝き、本来の面目[姿]である。この本体の性質は、今現在、見たり聞いたり気づいたりすることの中で、けっしてその見たり聞いたり気づいたりすることと同じではない。仏たちが世に出られる中で、この本体は世にはでない。衆生[しゅじょう:命あるものすべて]は輪廻[うまれかわり]するけれども、この本体は輪廻しない。無限に遠い過去から純粋でけがれなく一つ朗らかで、虚空を本体とし、虚空を性質とする。仏たちの真の根源であり、衆生の本性である。草木国土、ありとあらゆるものは皆、これを本性としている。それゆえ、あらゆる存在と心の真理とは一つのものであって、つまり即心即仏*****である。

*四大(しだい):物質界を構成する元素と考えられたもの。地・水・火・風の四つ。

**不生不滅(ふしょうふめつ):生じることもなく滅することもない。

***五蘊(ごうん):世界を構成する五つの要素。色(しき:物質)受(じゅ:感覚)想(そう:想念)行(ぎょう:意志)識(しき:認識)。

****十方(じっぽう):東・西・南・北・北東・北西・南東・南西・上・下の10の方向。あらゆる方向のこと。

*****即心即仏(そくしんそくぶつ:この心がそのまま仏である。)

                                 (つづく)

 

塩山仮名法語(12)=終わり

井口殿へのお返事

 

百二十四 お手紙、詳細に拝見しました。このように熱心に参究なさいますこと、貴重なことと存じます。そもそもお手紙を拝見しましたところでは、少し似ているところもございますが、それもただ心が知るところでございます。一大事は、心の知るものでもありませんし、知恵の推し量ることのできるものでもなく、悟って明確であるところだといっても、みな妄想のたぐいでございます。それは前便で申し上げたとおりです。そこで死んだ者が蘇ったかのようである時、声を聞く者が現れるはずだと申し上げたことについて、この聞く者はどのような者かと突きつけ続ける時、突きつけるより他には塵ほども物のない時、この声を聞く主が現れたとお思いになられたこと、大いなる誤りでございます。

 

百二十五 剣を突き付けて一切のものを断ち切るように、この公案を突きつければ、心にあるものが皆切り捨てられてしまって、虚空も切り破って、そのように突きつけるほかに何もない、と承りました。そうしてこのように突きつけるものは何者であるかと、そこをお究めになられれば、声を聞くものと別ではございません。ここを究め尽くさなければ、たとえ何度も悟って仏法を知るところ明らかであるとしても、いまだ生死の根源を断ち切らない人であって、口で法門を説くことができるだけで、心の中には妄想は止まないので、次の世では必ず三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に落ちるでしょう。

 そうは言っても、そこでとどまることなくして、そこを守って死ぬならば、次の世には必ず生まれながらに悟るでしょう。けっしてけっして気落ちして退いてはいけません。また怠ってもいけません。

 

百二十六 ただこの公案をよく御覧になって、身も聞かず、虚空も聞かず、それではどのようなものが声を聞くものであるかと究める時、理解を加えることなく、思いはからう所なく、悟りを待つ心なく、心を働かせる所なく、まったく心のゆくえが無くなり、どうしようもない所において、悟りも知恵も失せ果てて、木や石のようになる所にとどまらずに、何日も究め続けて行けば、必ず大いに悟って、生死の根源を断ち切り、無心の本地に至るでしょう。

 

百二十七 生死の根源というのは、情識(誤った知と感情)に他なりません。これは自己の心とも言い、人我の心(にんがのしん)とも言うのです。

 

百二十八 古人も言っています。別に悟りというものもない、ただ日頃の情識を止めるのだ、と*。ただこの己というものを消し尽くすことが悟りの上の大事なのです。このように詳しく申し上げることは、人に見せるのもはばかられますが、わざわざ今までお手紙を頂戴してきましたので、黙っているわけにもゆかず、申し上げました。

*原文は「凡聖を尽くす」だが、古田氏に従って「凡情を尽くす」の誤植と見る。

 

また、比丘尼へのお返事

 

百二十九 お手紙、詳しく拝見しました。何よりも、ご修行に励まれているご様子を細かに承り、貴重なことと存じます。京都へ上るのであれば西へ行かねばならないと思っていたのは誤りで、どこも京都であったとお思いになって後、まだ茫然として、「是は一体何者か」ということより他には頼りとはしていない、と仰るのは、どこでも都であるとお知りになったけれども、まだ王に対面していないからです。王というのは、自分の父母未生以前の本来の面目のことです。

 

百三十 少し疑心が破れると、自分の心は虚空のようであり、仏もなく、衆生もなく、昔もなく、今もない。胸のうちは落ち着いていて、ただはっきりと輝く月の姿が世界を照らし、しかもその姿形を取りだしてみることはできず、人に向かって言い表すことができないようなものです。これは少し参究したしるしではあるのですが、それでもまだ心の病です。これを自分の顛倒(てんどう:まったくの思い違い)とも言い、また生死の根源とも言うのです。これを打ち破るのを根源を断ち切ると言うのです。仏道への志がない人は、この状態をもって古人の公案を推量して集め、悟るところがあったと思うのです。ただ、悟ったところに愛着することなく、直接、悟る主を究める時、先の見解はみな破れ落ちてなくなること、火が物を焼くようなもので、剣が物を殺すようなものです。

 

百三十一 善や悪の相が、髪の毛一筋ほどもない所について、これは一体何かと究め尽くす時、死にきった者が蘇ったようになる時、そこに到達すれば、主人公が現れるのです。

 

百三十二 徳山*が言うには、言うことができても三十回棒で叩くし、言うことができなくても三十回棒で叩く、どうすれば過ちを免れる事ができるか、と。もしこの棒を免れることができれば、東山水上行**(とうざんすいじょうこう:東山が水の上を進んで行く)ということを知るだろう。

*徳山:徳山宣艦禅師(782年-865年)。徳山の棒、臨済の喝、と並び称せられる。

**東山水上行:『雲門録』に出る語。東山は、中国各地にある名山の名前。

 

百三十三 このように申し上げることは、憚られることでありますが、あなたの志が貴重なものと思い、申し上げた次第です。これは、我が身が申し上げるものではございません。優れた師僧たちの仰ったことを、承ることができた所を申し上げたのです。

 

 寛永二十年(陰暦)二月吉日 中野是誰が新たに版を刻む

 

塩山仮名法語 終わり

 

塩山仮名法語(11)

井口禅門(いのぐちぜんもん)への返答

 

百十一 お手紙で詳しく承りましたところ、あなたはまだこの公案の的を射ていないようです。六祖慧能禅師がおっしゃいました。「幡が動くのではない。風が動くのではない。あなたがたの心が動くのである」と*。もしこのことを明らかに見ることができれば、天地と我と同根(根源は同じ)、万物と我と一体であって、塵ほどのわずかに異なるものもない。渓谷の音も、風の音も、すべて主人公の声である。松が青いのも雪が白いのもすべて主人公の色である。自分の手を上げ、足を動かし、物を見、声を聴くものとまったく別ものではない。もし借り物の知識を用いず、考えを巡らしたりせずに、直接このように悟ることができたなら、少しは自分で得るところのあった人と言える。そうは言っても、それはまだ本当の悟りというものではない。

慧能禅師が世に出るときの因縁。広州法性寺で僧たちが竿の幡(はた)が動くことについて議論をしているのに出会った時の禅師の言葉。『六祖檀経』に出る。

 

百十二 古人*は言っている。「自己の清浄法身(しょうじょうほっしん:きよらかな仏の本体)を見留めてはならない。」と。また言う。「四大(地水火風の四元素)からなる肉体が仏法を説いたり聴いたりして理解するわけではない。虚空が仏法を説いたり聴いたりして理解するわけでもない。いったい仏法を聴いているものはいかなるものか。」と。

*古人:ここでは臨済禅師のこと。

 

百十三 こう言われるのは、この身が声を聴くわけではなく、では何かこの声を聴くのかと言ったのです。このことについて、よくよく直に徹底して御覧になるべきなのです。この六祖の公案を見るのに、(あらゆるものを断ち切る)金剛王宝剣を手にしているようになさい。心に生じるものすべてを切り尽くしなさい。世法(せほう:世間的な事柄)が浮かんできたら世法を切り、仏法が浮かんで来たら仏法を切り、迷いが来たら迷いを切り、悟りをも切り、仏をも切り、魔をも切り、二十四時間、仏法を聴く者はいかなるものかと追求し続けなさい。一物も残らず切り尽くして、虚空をも切り破るとき、自己の心が破れれば、仏法を聴いているそのものが現れるはずである。けっしてけっして道の途中でとまることなく、死んで再び蘇ったかのようになるとき、はじめて大事を明らかにすることができるのです。こちらへ何度もお手紙をいただくことで、お心を煩わせているようなので、このように申し上げておきます。この手紙をご一読ののちは、火にくべてお焼きください。お返事まで。

 

別の一文

 

百十四 お手紙詳しく拝見しました。それにしてもここまで思い立たれたお志は近頃珍しいものと思い申し上げておりましたが、この悟りという一大事についてお忘れになってはいないことを承りました。特にお喜び申し上げた次第です。このお返事のなかで詳しく承っております。ただこの中で申し上げておりますように、自分で自分の本性を公案として御覧になるのがよいのです。

 

百十五 そもそもこのように声を聴き、このように物を言う主(ぬし)はいったい何者であるかと見るとき、さまざまな想念が起こって参りましても、それにはあれこれと構うことなく、ただこれは何者かと強く疑いますとき、想念も心もふと無くなって、空に曇りがない時のようになるのです。

 

百十六 心というものは、これほどまで形も無いものなのに、それでいて何者がこのように聴き、このように動いて働くのかと、いよいよ疑って、世間の万事を忘れ果てるほどに参究なされれば、必ず悟りが開けることは、眠っている者の眠りが醒めるようなものでございます。この時必ず、枯れ木に花が咲き、氷の中から炎が立ち上がることに疑いはありません。

 この時には、仏法も世法も、あらゆる善悪もみな昨日の夢になりまして、ただ本性の仏だけが現れるはずでございます。その時には、この一心が本性の仏であると、再び心に見留めてはなりません。見留めれば心が有るということになります。あなたのお志が貴重なことと思いますので、このように詳しく申し上げました。

 

百十七 また、チマキを五百把、茶を一斤いただきましたこと、たいへん嬉しく存じます。

 

また別の文

 

百十八 お手紙詳しく拝見いたしました。参究なさっているご様子を承りまして、たいへん有り難く存じます。お返事で詳しく申し上げてしまえば、きっと言葉に気を留めて理解なさり、納得されるならば、かえって妨げになってしまうはずです。そのように問い尋ねようと思う主(ぬし)を真直ぐに見極めて、御覧なさい。ただこの心は元来仏であると仏や祖師方もおっしゃっておられます。そうだと言っても夢や幻のようなものです。この身において何を心とか仏とか名付けることができましょうか。ただこの名付けられず、知ることのできない所について、大いに御自分で疑ってください。

 

百十九 そもそも、たった今、手を上げ、足を動かし、物を言い、声を聴く主は、いったい何者であるかとみる時、心の道は途絶え、力も手がかりも尽き果て、どうしようもなくなりながら、いよいよ疑って名を離れ、考えをやめて、万事を捨て尽くし、これを思うことがただこれだけである志が徹底して一つになれば、必ず悟ることがあるでしょう。

 

百二十 しばらく想念がおさまった時、空寂として何もない所だと見て、悟りだと思ってはなりません。

 この時に想念を起こすことなく、しかもさらに疑わねばならないのは、これほど心というほどの形もなくして、あらゆる物の音を何者が聴くのかと参究するなら、虚空が破れて父母未生(ぶもみしょう)の本来の面目*が現れるでしょう。

*父母未生の本来の面目:父母未生以前の本来の面目。自分の父も母も生まれる前の自分本来の姿。

 

百二十一 たとえば、ぐっすり寝入っている人が急に目を覚ます時、あらゆる夢がたちまち破れるようなものです。そのようである時に、急いで優れた師僧に会って、その点検を受けるがよろしい。

 

百二十二 もしこの一生で悟らないとしても、臨終の時もただ参究し続ける中で火が消えるようになって、心を他の事に向けたりしなければ、次の世には生まれながら悟るであろうと、古人たちの多くはそのようにおっしゃっています。

 

百二十三 お望みに従ってこのように申し上げることは、気が引けるところです。一度ご覧になった後は、すぐに火にくべてしまってください。二度とこれを御覧にならずに、ただこの声を聴く者に深く目を付けて、自らお悟りになれば、このような言葉はみな無駄ごとでございます。敬具。

 

 

 

 

 

塩山仮名法語(10)

正法庵主が強いて望むのでこれを与える

 

九十七 少年の頃から一つの疑いが起こっていたのです。そもそもこの身を差配して、「誰であるか」と問えば「私だ」と答えるものは一体何ものかと、一念の疑いが起こり始めてから、歳を重ねるままに疑いが深くなっていって、出家しようと思い立ったとき、一つの大きな願力起こったのです。

 

九十八 どうせ出家するのだとすれば、自分一身のために道を求めることはすまい。諸仏の大法を悟って、一切の生きとし生けるものを救い尽くし、その後で正覚(正しい悟り)を成就しよう。また、もしこの疑いを明らかに晴らさないうちは、仏法を学ぶことはせず、また僧侶の家の礼儀を学ぶことはせず、人と交わるにしても、善知識(優れた師)のところであるか、あるいは山の中のほかには身を置かないことにしよう、と。

 

九十九 出家して後、さらに疑いが深くなるにしたがって、この願いも深く起こりましたがそれは、前の仏がすでに涅槃に入り、後の仏はいまだ世にお出にならない中間で、仏法が絶えようとする時において、仏のいない世界の衆生を救うために差支えがないほどの大きな道心を起こしたい、ということでありました。

 

 たとえこの衆生への愛着の念をもつ罪によって無間地獄(むげんじごく、絶え間なく苦しみが続く最悪の地獄)に落ちたとしても、衆生の苦しみに代わることさえできれば、少しも退くことなく、生まれ変わりを続けて未来の果に至るまでこの願いを失うまい。また修行において、生き死にいずれの考えにも拘らず、また小さな善を積むために僅かな時間を費やすまい。また、自分でまだその力が十分でないのに、人に恵みを与えようとして人の目をつぶしてしまうようなことがないようにしよう、と。

 

百一 この願いは、自分の心の習慣になって、参究のさまたげになりましたが、止めることはできずに、さまざまな仏に対しても常にこの願いを深く念じてまいりましたので、あらゆる善悪の縁に会うときにも、ただこの願いを行い、もろもろの神々の目をもって見るようにして今に至っているのです。

 

百二 このような妄想のごとき心境を申しあげるのは無駄ごとではありますが、しいてお尋ねいただきましたので、自分の初心の頃の願いを書き付け、お目にかけた次第です。

 

古沢尼さんに与える

 

百三 即心(ありのままの心)を明らかになさったと承りました。どのように明らかになりましたでしょうか。目に見え、心に知られるようなものは、即心ではあり得ません。初めて座禅をする人は、なによりも自分の心を見なければなりません。念が薄くなるにしたがって念が起こるのがよく分かるようになる時に、これを止めようと戦うのは間違いです。これを嫌わず、また愛着もせず、ただその念の起こる源を知りなさい。

 

百四 この念はどこから起こるのかと疑うなら、心のやりようがなくなり、一念が生じない時、そのまましばらくの間、見つめてみても、疑いはまだはれない。この心はいったい何ものであるかと徹底して見つめるとき、疑いの心が急にふと無くなって、自分の身の中に何もなくなり、十方の虚空と隔てが無い。これは道に入り始めて少し張り合いを得るところではあるが、この心境をみて促進である、これが如法(真理そのもの)だと思うなら、魚の目を真珠だと認めるようなものである。

 

百五 このような見地を長く心にとどめている者は、驕りの心が高くなり、仏を罵り、祖師を罵り、因果の道理を否定し、今の世においては魔におかされ、次の世では悪道に落ちるであろう。そうとは言っても、これを縁としてついには悟ることがあるだろう。これだけの道理すら納得せず、自分の心が仏であることを信ぜず、心の外に仏を求め、仏法を求める者は、現象に捉われる外道(げどう、仏教以外の教え)に百千万倍も劣るというものである。

 

百六 先にも言った通りである。何か考えが起こったような時は、急いで善知識(優れた師)のところに行き、自分の考えをありのままに提示して、その考えがすっかり破れて消えることがあるなら、氷がお湯に入ったかのように、明るい月が照らし、虚空が破れて、本来のありようを自分に返すことができた時、初めて「鉄鋸三台を舞う:鉄ののこぎりが三台(舞の名)を舞う」ということを知るであろう。鉄鈷とはのこぎりである。三台というのは舞の名である。自らよく見なさい、鉄鋸が三台を舞うとはどういう道理であるか。あれこれ思案を加えることなしに、まっすぐに疑ってみなさい。これは普通の道理ではありません。悟って初めて知ることができるでしょう。

 

百七 また、断食をする予定だとうかがいましたが、断食は外道のやりかたです。けっして、けっしてなさってはいけません。心の中の間違った知識や見解を獲得したり失ったり、肯定したり否定したりといったことを破り捨てるのが断食というものです。参究一筋になり、妄念がないのを長斎(食事の規則を長く守ること)というのです。少しでも特別で何か不思議なことを心にかけ、人にとって代わろうとするなら、それは皆間違った考えです。ただ心をゆったりとまっすぐにして、人の是非善悪を目にかけず、心が人にそむかずに、しかも一切が皆、夢まぼろしであると観て、嘆くことも厭うべきものではなく、喜ぶことも求めるべきものではないと知れば、日に日に心は穏やかになり、誤った認識と情念が溶け去って、病気も次第によくなるでしょう。

 

百八 心に悟るその悟りさえも捨てなさい。ましてや、目の前に浮かぶ幻を、それがどんな姿であっても、みな妄想であるとみて、尊んでもならないし、嫌ってもならない。ともかくもそれに取り合わずに、ただそれを見ている主人はいったい何者かと見なければいけない。

 

百九 お手紙で承った事柄について詳しく申し上げました。この手紙をお読みになって、少しも違うところなく、このように一心に修行なされば、たとえ今の生で悟ることがなかったとしても、次の世で必ず正しい見解をもった善知識に会って、ひとたびその語を聞いて一切を悟るであろうことは疑いがありません。

 

百十 これほどこと細かに申しますのは、本意ではありませんが、長く病気でおられる中からのお尋ねを頂戴したことですので、黙っていることもできず、分かりやすいようにと申し上げた次第です。

 

塩山仮名法語(9)

八十一 初祖達磨大師が言う。一切は空であると言って因果を知らない人は、無間暗黒地獄(むげんあんこくじごく)*に落ちると。たとえ口で言うところが似ているといっても、情識**によっていることはどうしようもない。初心の求道者の多くは、仏法の本性が立ち現れたのをとどめて悟りだとする。昔の人[臨済禅師]は言っている。仏法本性の身[法身]とか土[阿弥陀の浄土]とかいうのは、これは明らかに幻影であることを知らねばならない。幻影を自在に左右している人を見て取りなさい。それが諸々の仏の本当の根源である。

*無間地獄:地獄の中でももっとも苦しみの多いもの。間断なく苦しみが続く。

**情識:誤った認識と感情。

 

八十二 ある人が言うには、修行を行うからいろいろな見解を抱くのである。見解は皆、心の病である。そうだとすれば、簡単に悟るということはあるはずがない。心を悟り、お経の真理を明らかにできなくとも、さまざまな罪さえ作らなければ、どんな過ちもないはずである。成仏できないといっても、三悪道*にさえ落ちなければ、必ずしも悟りを求めてどうということはない。

三悪道:輪廻するといわれる六つの道のうち、地獄、餓鬼、畜生の三つの道。

 

八十三 答えて言う。もろもろの罪の根本は、すなわち迷いの心情なのである。これは悟らなければ消滅しない。衆生の身のうちに六根*がある。それぞれに六賊(ろくぞく)**がある。六賊にそれぞれ三毒がある。いわゆる貪瞋痴(とんじんち)***である。一切の命あるものの類の中で、この三毒をもたないものはない。この三毒が原因となって、三悪道が結果となる。因果は必然である。

*六根:眼・耳・鼻・舌・身・意という感覚が生じる六つの根幹。

**六賊:賊は盗賊。感覚によって奪われ、法性を失うことから譬える。

***貪瞋痴:貪はむさぼりの心、瞋は怒りの心、痴は無知の心。あわせて三毒煩悩と呼ばれる。

 

八十四 私には罪はないと言う人は、この道理を知らないものである。たとえ特別に罪深い人生を送らなくても、元来備わっている三毒がある。ましてや、その上に多くの罪を作る人はなおさらである。

 

八十五 有相(姿のある)衆生がみな三毒煩悩を備えているとするなら、仏や祖師や聖人賢者であっても、誰か三悪道に落ちることを免れるだろうか。

 

八十六 答えて言う。ただ自性(じしょう、自分の本性)を悟るとき、三毒は戒定慧(戒律、禅定、知恵)という三つの徳に変るであろう。仏や祖師や聖人賢者はみな見性(自性を悟った)の人である。何の罪があろうか。

 

八十七 尋ねて言うのに、見性した人は三毒を転換して戒定慧とできるだろう。前に言っていた誤った見解を抱く心の病をどのように直せばよいのだろうか。

 

八十八 答えて言う。見性はあらゆる病気をなおすただ一つの薬である。他の治療方法を借りるには及ばない。

 

八十九 前に言ったではないか。幻影を自在に左右している人を見て取ること、これがもろもろの仏の根源であると。自己の仏性は金剛王宝剣(こんごうおうほうけん、あらゆるものを断ち切る宝剣)のように、触れるものは皆、その身を失う。大火事のようなもので、近づく者はみな命を落とす。

 

九十 もし一度見性すれば、長い時間積み重ねてきた間違った認識の積み重ねは一時に破れ、それまでの悪習慣の力が一瞬にして消滅することは、赤々と燃えている囲炉裏の上にひとひらの雪が降りかかったようなものである。仏とか仏法とかいった認識すらやはり存在しない。いったいどんな心の病が残るというのか。

 

九十一 ただ、一切の無知や業による妨げやさまざまな知的理解や解釈が除き去れないのは、本当に見性していないからである。自分の本性を悟らずに輪廻を免れようと思うのは、まだ燃やしている火を除かずにお湯が煮えるのを止めようとするようなものである。そのような道理があるわけはない。

 

九十二 あなたは幸いに教外別伝(きょうげべつでん、教えの外に別に伝える)の大事があることを信じておられる。このような文字や言葉を求めてどうするというのか。一切の理屈や意味をきっぱりと捨て去って、直接それを見なさい。たった今、見聞きしている主人公は、けっきょく何者であるのか。もしそれをこれまでに従って心と名付け、本性と名付け、仏と名付け、無と名付け、空と名付け、色(しき)と名付け、知と名付け、不知(ふち)と名付け、真と名付け、妄と名付け、言葉で呼び、あるいは黙し、悟りとしたり、迷いとしたりすれば、たちまち誤ってしまう。

 

九十三 またもしこれを疑い考えようと心を動かすなら、無縄自縛、ありもしない縄で自分を縛るようなものである。ただ、名付けがたく、言葉で言い難い所を、直接知ろうとしても知ることができない。言おうとしても言うことができずに、全身が疑いになりきって、疑いが心底まで通貫してみると、この身に心とも本性とも名付けるべきものが一つもないと言っても、声があればただちに聞き、名を呼べばただちに応える。そこでそのまま決着をつけよ。彼はいったい誰か。理解の道が閉ざされ、力が尽きてどうしようもできない所へ歩みを進めることは、大火の燃え盛る穴の中へ手を広げて走り入るようなものであり、進んで自分の本分である金剛(ダイヤモンド)のごとき炎の中へ入ることができれば、身も心も、知識も感情も、理解も解釈も、命の根源とともに滅却して、本来の根源的な自己の本性が立ち現れることは、死に果てた者が再び蘇るときに、もろもろの病が一時に断ち除かれて、安穏の喜びが得られるようなものである。自由自在のところがあるであろう。まさにこの時、知るがいい、水を踏むこと地のごとく、地を踏むこと水のごとく、一日中説法していまだかつて説法せず、一日中食べていまだかつて食べず、南山に雲が沸き起こって北山に雨が降り、中国で太鼓を打てば(説法のあることを知らせるもの)、朝鮮で上堂(説法するために法堂に登る)するということを。

 

九十四 あるいは四畳半の部屋に一人で座っていて、十方のもろもろの仏たちにお会いし、一字も読まずに七千余巻のお経を読み尽くし、一切の功徳のおさまる蔵、あらゆる修行とさまざまな善行が、ことごとく自分の胸の中に備わって、別に一つとして何かを用いるということもなく、また一つとして何かがあるということもない。

 

九十五 この時を知りたいと思うだろうか。龐居士(ほうこじ)は馬祖禅師に尋ねた。「万法と侶(とも)たらざるものこれ何人ぞ(いっさいの物事に寄り添わない者とはいったい何でしょうか)。」馬祖禅師が答えて言った。「汝一口(いっく)に西江水(せいごうすい)を吸尽せんを待って何時に向かって言わん(お前が一口に大河である西江の水を飲み干したら言おう)。」居士は聞くと同時に大悟した。あなたはどうやって一口に大河の水を飲み干すか。もしこの言葉を納得できたら、千句、万句も一時に理解し通せ、水を踏むこと地のごとく、地を踏むこと水のごとしということを知るだろう。

 

九十六 もし間違って神通力だの不思議な力だのとするなら、閻魔大王の前ので真っ赤に熱した鉄の玉を飲まされる日が来るだろう。もし神通力だとか不思議な力だとかしないのなら、どういう道理だと言えばよいか。しっかりと目を開いて見よ。

 

塩山仮名法語(8)

 一方居士本間将監(いっぽうこじほんましょうげん)に示した教え

 

七十二、面と向かい合って直に会っているもの、彼は一体だれか。言うことができたとしても誤り、言うことができないとしても誤りである。結局どうだ。

 

七十三、説法のあることを知らせる幡竿の上に仔牛が産まれた。ここがきれいに悟れれば、余分な力は必要ない。もしそれが分からなければ、自分の心中に立ち戻って自ら仏性を見て取りなさい。仏性は各人に備わって、それぞれまどかに成就しており、諸々の仏と衆生と同体であって高い低いはない。それなのに世の人は誤って、無縄自縛(むじょうじばく:ありもしない縄で自分を縛る)して、見性し仏道を悟ることは自分のような素性の悪いものの到達できることではなく、ただ看経(かんきん:お経をみる)し、礼拝をして諸仏のご加護にあずかって、やっと仏道に入ることができるだろうなどと言う。聞く人もまた、そうだと言う。これを「一盲衆盲を引く」*というのである。これは、仏を信じ、お経を信じているのではない。まさに仏やお経をそしっているのである。どうしてかと言えば、看経というのは、お経を見るということである。仏というのは、心の本性の異名である。お経[華厳経]に述べられているが、心と仏と衆生と、この三つは異なるものではない、と。それだから、自分の心を信じないで仏を信じるというのは、異名を信じて本体を嫌うようなものである。心の本性を見る探究はかなえられないだろう、ただお経を見ようというのは、飢えている人にお粥を与えたとして、そのお粥を食べずに、お粥を書いた目録を見て飢えをしのごうと言っているようなものである。諸々のお経は、この心の本性をしるした目録である。

:一盲衆盲を引く:一人の盲人が多くの盲人を導いて行くこと。危ないことの譬え。

 

七十四 経[円覚経]に言う、「お経にある教えは、月をさし示す指のようなものだ」と。指を知って月を見なければ、どうして仏様のお気持ちにかなうだろうか。各人にことごとく一巻ずつのお経がある。ほんの一瞬でも自らの本性を見たなら、手にお経の巻を取らず、目に文字を見なくとも、もろもろのお経をいっぺんに読むことができ、一点も残すことがない。これが本当にお経を読むことでなくてなんであろうか。

 

七十五 さあ見なさい。青々としている竹は仏道となった人の心であり、生い茂っている黄色い花は、すべて悟りの知恵でないということはないのだ。

 

七十六 また、礼拝するというのは、自分という幡を倒して、仏性を悟るということ、これなのである。そうであるからこそ、仏に成ろうと求める人は、自分の素質の良し悪しを言うことなく、自ら見性し、悟りを開かねばならない。

 

七十七 さてどうするか。たまたまこの道理を信じて参究する人が、いまだ大悟せずに途中で滞ってしまうことを。あるいは思慮分別をいったん止めて無念無双であるのを悟りとしたり、あるいは一則の公案*を忘れないことで十分としたり、あるいはさまさまな戒律を犯さず、世間の是非善悪を逃れて山林に住むだけのことを仏道としたり、いったいどんな道を求めるというのか、茶に向かえば茶を飲み、飯に向かえば飯を食べると言って、仏法について問われれば、あるときは喝をはき、あるいときは袖を払って出て行き、あらゆることに留まらない様子を好んで仏道とし、参究をし優れた師を求める者を愚鈍だとしたりする。

公案:禅の参究者が取り組む問題のようなもの。

 

七十八 このような人を道人(仏道を修めた人)とするなら、三歳の幼児もまた禅が分かっていることになる。あるいは認識の働きを絶ち、意志の働きを絶って、枯れ木や石のようになるのを無心の道であるとしたり、あるいは胸のうちがさっぱりとして内も外も隔てのないこと、まるで青空の昼日中のようで、全身に輝き通り、明々白々であるのが大事だとする。これはまさに仏法の本性が現れ出る寸前なのであるが、いまだ本当の悟りではない。昔の人もこれを解説して「深い穴」と言ったのである。

 

七十九 このような見解の人は、仏法について疑いはないと言って、実質は何も無いのに驕り高ぶり、問答や宗旨の討論を好み、人に勝つことを楽しみとし、負けるときは恨みを起こし、心の中はうっぷんが充満して因果の道理を否定し、大きな声で喋りまくって戯れを好み、他人が修行するのを妨げて、人が実直に励むのを見ては愚鈍なやつ、これは禅宗ではない、と欺くのである。

 

八十 これはまるで狂った人が、正気の人を笑うようなものである。慢心は日々増長して、矢のように地獄に落ちるであろう。

塩山仮名法語(7)

六十二、さまざまな業(ごう、自分の行為によって引き受けることになる結果)の根本は、識情(しきじょう)*である。識情を忘れ去れば、解脱(げだつ)**の人である。その識情というものは、自分の本性を悟れば寂滅(じゃくめつ)***するというのは、塵の中に埋もれている火を吹けば、火が盛んに現れて、塵は消滅するようなものである。

*識情:情識と同じ。誤った認識と感情。

**解脱:業による輪廻を脱すること。

***寂滅:無常偈といわれるものに「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(諸行は無常である。これは生滅の法である。生滅が滅し終わって 寂滅を楽となす)」とある。寂滅とは、生じるとか滅するとかいうこと(生滅)が終焉し、不生不滅の当体に逢着したところを指す。

 

六十三、座禅するとき、想念が生じるのを頑なに嫌ってはいけない。また好んでもいけない。ただその想念の起こる元に返して、源を見て動ずることがなければ、一切の想念の根本の情識が消滅することは、あたかも火の中の塵を消し去るには火をあおぐよりほかの手段がないようなものである。

 

六十四、また、妄想が尽きて胸の中に一物もなく、内も外も隔てがなくなること、あたかも晴れ渡った虚空のようで、世界全体が清浄になっても、それは悟りではない。もしその状態をもって仏性を明らかに見て取ったと思うならば、ただちらと影を見て本体だとするようなものである。もしこのような状態になったなら、いよいよ勇気を振り絞って集中し、一切の音声を聞く自分の心を見究めさない。

 

六十五、そもそも四大(地・水・火・風の四元素)からなる身体は、幻のようなものであって実体ではない。この身体の外には、心と名付けるべきものがあるわけでもない。十方に拡がる虚空が、物を見たり、声を聞いたりするわけでもないのである。この身体において一切の声を聞き、音響を聞き知るものは一体何か、さてこれは一体何者かと、自ら大いに疑問が生じ、是か非かという分別の働きは尽き果て、有るとか無いとかの考えも忘却してしまい、まるで暗い夜に明かりをふっと消してしまったように、自分があることを知らないのであるが、ただ一切の声が聞かれるとき、自分があることを覚える。

 

六十六、ただこの状態になって、そのときにこの声を聞く者を知ろうとしても、知られるものはなく、いよいよ心の行方は十方に行き詰まり果てるとき、忽然として大悟すること、死人が手を打って声高く笑うようなものである。このときはじめて、自分の心がそのまま仏であるということを知るのである。

 

六十七、ではその自分の心の仏、その姿はどのようなものかと言えば、答えて言おう。木の上で魚が遊び、水の底に鳥が飛んでいると。

 

六十八、これはどういう理屈なのか。もしいまだはっきりと分からないのであれば、自分の中で見究めなさい。見聞きする主(ぬし)はいったい何ものなのか、と。

 

六十九、少しの時間も惜しんではならない。時は人を待ってはくれない。

 

臨終の床に至った病人に示す教え

 

七十、あなたの一霊の心の本性は、生じるものでもなく死ぬものでもなく、有るのでもなく、無いものでもなく、空でもなく、色(しき)*でもない。苦しみを受けたり、楽しみを受けたりするものでもない。

*色:姿、形をもつ物のこと。般若心経の「色即是空 空即是色」がよく知られる。

 

七十一、たった今、このような病気の苦しみを覚える者はさて何者だろうかと知ろうとしても、知ることができないところについて、さてこの病苦を受ける心の本体は一体何だろうかと思案する一念のほかにはまったく思うことなく、願うところもなく、知るところもなく、頼りにするところもなくて、空の雲が消えるように、何の心もないように一生を終えるなら、ただちに輪廻の道は途絶えて、じかに解脱する時があるだろう。