塩山仮名法語(6)

中村安芸守月窓聖光に示した教え

 

四十八、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」(まさに住する所なくして其の心を生ずべし」*という一句について、どのように修行したらよいのかというお尋ね、承知しました。道を覚ることは、特別な注意はないのです。ただ直接に自分の本性を見て、他のみちに逸れなければ、心の華は開けるのです。それだから、経に、「とどまる所なければ、きっとその心を生じるであろう」と説くのです。仏や祖師方がお示しになった一千句、一万句の言葉は、ただこの一句です。その心というのは、一切の相(姿)を離れた本性のことです。本性はそのまま道であり、道はそのまま仏であり、仏はそのまま心です。この心は内側にもなく、外側にもなく、中間にもありません。有るというのでもなく、無いというのでもありません。また有るのではないというのではなく、無いのではないというのでもありません。心ではなく、仏ではなく、物ではありません。それゆえに住する(留まる)所のない心と言ったのです。

*応無所住而生其心:『金剛般若経』に出る言葉。中国六祖慧能禅師は、この言葉で悟ったと言われる。

 

四十九、この心はすなわち、目では色形を見るし、耳では声を聞く。ただこの主人を直接見究めなさい。

 

五十、古人*は言われた。「四大(物質界を形成する地・水・火・風の四元素)からなるこの物質的身体は、説法されたものを聴いて理解しない。体の中の内臓(脾・胃・肝・胆)は説法されたものを聴いて理解しない。虚空は説法されたものを聴いて理解しない。いったい何が説法されたものを聴いて理解するのか。このように直接目を向けなさい。

*古人:臨済禅師のこと。『臨済録』にある言葉。

 

五十一、見る所について、心がもし一つの相(姿)にとどまって、一つの趣向に執着し、道理を立て、意味を関わるようになれば、すでに真実から天地ほども隔たってしまう。

 

五十二、どのように注意をして、直接生き死にの世界を切断すればよいのか。

 

五十三、前進すれば理屈に迷い、後退すれば宗旨に背く。前進せず、後退もしなければ、心の働きを持ったまま死人のようになり、まったく意識が絶えてどうしようもなくなる参究を止む暇なく続けるなら、必ず悟りが開けて「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん:まさに住する所なくして其の心を生ずべし)」となるだろう。

 

五十四、そうなれば、たちまち禅の一切の言葉や公案(こうあん)*あるいは百千の法門、無限の妙なる教えが、一時に明確になるだろう。龐居士(ほうこじ)**が馬祖禅師***に尋ねた。「万法とともたらざる、是何人ぞ(あらゆる現象に引きずられないものというのは一体、何ですか)」馬祖禅師は言った。「お前が一口に西江(せいこう)****の水を飲みつくしたら、そのときにお前に言おう。」居士はその言葉を聞いて直ちに大いなる悟りを開いた。見なさい。これは一体どういうことなのか。

公案:禅で参究のために与えられる問題のようなもの。

**龐居士:馬祖禅師の法を継いだ居士。居士は出家していない信者。

***馬祖禅師:馬祖道一(ばそどういつ、七〇九ー七八八年)。唐代の重要な禅僧。

****西江:中国南部の大河。

 

五十五、これは応無所住而生其心なのか、これは今仏法を聴いている者なのか、もしまだ分からないのであれば、たった今声を聞いているものは一体何者か。真剣に目を凝らしてみなさい。生死事大無常迅速(しょうじじだい、むじょうじんそく)、生き死にの事は重大事であり、無常の風は瞬く間に吹いてくる。わずかな時間を惜しまねばならない。時は人を待ってはくれないのである。

 

五十六、自分の心はもとより仏である。これを悟るのを成仏と言い、これに迷うのを衆生と言うのである。ただ、寝ても覚めても、普段何をするにつけても、自分の心はいったい何ものかと、自分で念の起こる源について見なさい。

 

五十七、そもそも、このように物を知ることができ、思うことができ、この身を動かし、働かし、進んだり退いたりする主体は、さて一体何者であろうかと、、ただこれを自ら悟ろうとこころざして、絶えず心に添わせて忘れることがなければ、たとえ今の一生で悟らなくとも、これを縁として、次の世では必ずや簡単に悟るであろうことは疑いがない。

 

五十八、座禅をしようと思う時は、一切の善悪を一つも思いわずらってはならない。又、念が起こるのをやめようとしてはいけない。ただ、まず直接、自分の心は一体なんであるかと疑いなさい。

 

五十九、このように深く疑っても知ることのできるすべがなく、どうしようもないまま、心の進むべき道が絶え果ててしまい、我が身の中に自分というべきものもなく、心と名付けるべき形もないと知る物は、さて何ものだろうかと、我に返ってよくよく見れば、無いと知る心もすっと無くなってしまい、何の道理もないこと、虚空のようであるけれども、虚空のようだと知る心が徹底して絶え果てたとき、自分の心の他に仏はなく、仏の他に心がないことを悟るのである。

 

六十、この時はじめて知りなさい。耳で聞くものがない時、本当の聴聞というものであり、目で見るものがない時、三世(過去・現在・未来)のさまざまな仏とお目にかかるのだということを。

 

六十一、ただし、このように書き付けた言葉そのままに理解しておいてはならない。ただ自分の心を悟りなさい。さあ見なさい、見なさい、自分の心は一体、何ものであるか。恐れ多いことだ。人々の本来の根源的な本性は、もともとそのまま仏であるといいながら、自分でこれを信じないで、心の外に仏を求め、仏法を求めるので、悟ることなくして善悪の業(自分のしてきた行為の結果)や因縁に引かれて、輪廻や生き死にを免れることができないのである。

塩山仮名法語(5)

四十釈尊(しゃくそん)*は、さまざまな難行、苦行をなさっていた頃は、ついに仏に成ることもなかった。六年間、すべてを投げ捨てて座禅をして心を悟り、つまり正しい悟りに到達して、すべての衆生のために心の真理を説かれたのを、一切経と言ったのである。それゆえに、さまざまなお経はすべて、仏の悟りの一心から出た言葉なのである。

釈尊:お釈迦様を敬って言う言い方の一つ。

 

四十一、それゆえに、一心は、ただ誰もの胸のうちにあって、六根*の主体である。これを悟るとき、過去の行いによる一切の罪が一瞬のうちに消滅するのは、氷をお湯に入れるようなものである。そのように悟ったあとで、自分の心が仏に他ならないということを知りなさい。心の本性はもとより明確なもので、初めから終わりまで仏と衆生の隔たりはないといっても、妄想のような想念に隔てられてしまうことは、雲が太陽や月の光を隠してしまうようなものである。そうだとしても、参究の力によって妄想が消えることは、風が雲を吹き払うようなものである。妄想の念が断たれれば、仏性が現れることは、雲が消えて光が現れるようなものである。ただ、元の光が現れ出たのである。これは初めて外から得られたものではない。

*六根:眼・耳・鼻・舌・身・意(げんにびぜつしんい)という人間に備わる五感と意識、人間の認識の根幹。

 

四十二、それゆえに、生き死にや輪廻転生の苦しみを免れたいと願うのであれば、情識*を消し尽くさねばならない。情識を消し尽くそうと願うなら、心を悟りなさい。心を悟ろうと願うのなら、座禅をしなさい。座禅は参究すること**を根幹とする。参究というのは、公案を深く疑いなさい。公案の根本は自分の心である。心を悟りたいという望みが深いのを、こころざしとも言い、道心とも言うのである。ただ地獄に落ちることを深く恐れるのを賢い人と言うのである。ただ仏道にこころざしがないのも、地獄の苦しいのを知らないからなのである。

*情識(じょうしき):誤った認識や感情。

**参究すること:原語は「工夫(くふう)」。

 

四十三、昔ある菩薩がいらした。女人であったとき、一切の声に仏法を観て取られて悟りを得られたので、世尊(せそん)*はこれを名付けて観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)**と言われた。今の人も即心即仏(そくしんそくぶつ:この心がすなわち仏であること)の本体を知ろうと思うなら、たった今、物の音を聞く時にあたって、この音声を聞くものは何者であるかと見るなら、必ずや、我が身と観音と別物ではないことを悟るであろう。この心は、有るのでもなく、無いのでもなく、一切の相(姿)を離れて、一切の相(姿)を離れない。想念が起こるのを止めようとしてもいけない。想念が起こったらまた次の念を付け足してもいけない。ただ、想念は起こるなら起こる、やむならやむで、想念にかかずらわず、ただひたすら、自分の心はいったい何者であるかと疑いなさい。深く疑えというのも、悟らせようとするがためのことである。

*世尊:お釈迦様の尊称の一つ。

**観世音菩薩:観音様(かんのんさま)に同じ。

 

四十四、知ることのできないものを知ろうとすれば、心があれこれと巡る道が無くなってしまい、どのようにもできない時を、座禅と言うのである。座ってもこのように疑い、立ってあれこれするにも、眠っても目覚めていても、ただ自分の心が悟られないことに思いをかけ、徹底して疑ってゆくことを参究(工夫)と言うのである。この参究ひとすじになって、疑いが心の底に打ち通った時、疑いは急に破れて、即心即仏の正体が現れるその様子は、箱が破れて鏡が隠されなくなったようなものである。十方(じっぽう)*の世界を照らし出して十方の世界に跡がない。このとき、はじめて六道輪廻の道が断たれて、それまでの罪や障りが消滅する。このときの心の内の喜びは、とても言葉で表現できるものではない。例えば、夢の中で地獄に落ちていて、地獄の使いに攻め立てられ、限りなく苦しんでいると見える時に、その夢が急に醒めて、一切の苦しみが一つも残らないようなものである。このとき、生き死にをも脱すると言うのである。

*十方:八方位と上下を加えたすべての方向のこと。

 

四十五、このように悟りを開くことは、人によるのではない。ただこころざしによるのである。仏と衆生は、水と氷のようなものである。氷である時には、石や瓦のように自由自在ではない。融ければ元の水であって、縁に従って動き、滞るということはない。迷っている時は氷のようなものである。悟れば元の妙体(みょうたい)*である。氷であって水とならない氷はない。これで知るがよい、一切衆生と仏とは分け隔てがないのである。ただ迷っている一念が隔てを作るだけである。迷いの一念が融けてしまえば、衆生はそのまま仏である。けっして諦め退く心を起こしてはならない。たとえこころざしが浅くて、今の人生で悟りを開けなくても、参究を行うこと、念念おこたらず、参究する中で死を迎えたなら、来世では必ず生まれながらに悟るであろう。今日しかけた仕事が、次の日には簡単に進むようなものである。そうとは言っても油断してはならない。たった今、死を迎えたなら、何の役にも立たないのである。

*妙体:言葉で表現できない優れた本体

 

四十六、ただ過去からの罪が身に沁み入って地獄行きとなるのをどうすればよいのか。幸いにも解脱(げだつ)*の大いなる道がある。先に述べたいくらかの言葉は、皆、枝葉のようなものである。ただ次の一句だけを胸にあててよく見なさい。自分の心の仏とはいったいどのようなものか。

*解脱:輪廻の苦しみを脱すること。

 

四十七、すべてのさまざまな仏の本体を一目のうちに見たいと思うなら、ただ自分の一心の姿を悟りなさい。真実か嘘か、真剣に見つめなさい。自分の心の仏とはいったいどのようなものか。もしよく心を悟るならば、火の中に蓮華の花が開いて、永劫の時をへてもしぼまないだろう。誰でも元からこの蓮華の花の中にあるのだが、どうして知らないのか。

塩山仮名法語(4)

神龍寺の尼長老に与えた教え

三十一、仏に成りたいという望みのある人は、仏になるはずのその主(ぬし)を知らねばならない。この主を知りたいと思うなら、たった今の一念について参究しなさい。あらゆる善悪を思い、色を見、声を聞くものはいったい何かと、みずから深く疑えば、必ず悟るのである。悟ればそのまま仏である。仏の悟る悟りは、一切の衆生の一心である。この心の本体は清らかであって、あらゆる境遇に染まることがない。女の身にあるときも、女の身ではない。男の身にあるときも、男の姿でない。低い身分の身の上にあっても身分が低いわけでもない。高い位の身の上にあっても位が高いわけではない。譬えて言えば、虚空にはいろいろと変わる色がないようなものである。天地は破壊されることがあるといっても、虚空はただ色だけがあってまったく形はない。十方世界の中、すべて虚空であって行き届かないということがない。一心もまたこのようなものである。

 

三十二、肉体が生じる時も、一心が生じるということはない。この身が死ぬ時も、一心は死ぬことがない。また、姿が見えるはずはないといっても、全身に満ち満ちており、目に色を見るのでも、耳に声を聞くのでも、鼻に香りをかぐのでも、口にものを言うのでも、手足を動かすのでも、一心のはたらきでないということはない。この心を離れて外に向かって仏を求め、仏法を求めるのを迷いの衆生と名付けるのである。この身は仏であると悟る人を仏と名付けるのである。それゆえに、自分の心を悟らずに仏になった衆生はいないのである。

 

三十三、この心は、六道*の衆生の各々に備わっており、ひとりも漏れることはない。やはり虚空があらゆる場所に満ち満ちているようなものである。分け隔てはまったくない。仏に差別はないというのは、このことである。

*六道:命あるものが生まれ変わるという六つの道。地獄・餓鬼・畜生(動物)・修羅・人間・天上。

 

三十四、さまざまな仏は、この一心を悟って衆生に教え示すのだが、衆生は理解する力が弱く、姿あるものに捉われて、この無為(むい:不生不滅)の法身(ほっしん:仏の本体)である、清らかな真の仏を信じることができないので、譬えを用いて教えるときに、如意宝珠(にょいほうじゅ:思うままにあらゆる宝をそこから出す玉)と名付け、ある時は大道(だいどう:大いなる仏の道)と名付け、ある時は阿弥陀と名付け、ある時は大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ:法華経に出る仏の名)、あるいは地蔵菩薩と名付け、あるいは観音菩薩と名付け、あるいは普賢菩薩と名付け、あるいは父母未生以前本来面目(ぶもみしょういぜんほんらいのめんもく)*と言う。

*父母未生以前本来面目:父も母も生まれる前の、その人の本来の姿。中国六祖慧能禅師の言葉に由来。

 

三十五、六道の衆生にとって、六根(ろっこん)*の主体であるので、地蔵は六道の能化(のうけ:教え導く者)だと言うのである。すべての仏や菩薩の名前は、一心の別名である。みずから自分の心の仏を信じるなら、すべての仏を信じることになるのである。それゆえ経(華厳経)にあるように、三界(欲界・色界・無色界)はただ心だけであり、心のほかに別に仏法はなく、心・仏・衆生の三つに違いはないのである、と。

*六根:眼・耳・鼻・舌・身・意(げんにびぜつしんい)という人間に備わる五感と意識、人間の認識の根幹。

 

三十六、また一切のお経はみな、衆生の身の上を指し示した言葉であるから、みずから一心を見届けた人は、一切経を一時に読んだのと同じである。それだから、円覚経にあるように、経典の教え*は、月を指すゆびのようなものなのである。経典の教えとは一切経のことである。月を指すというのは、衆生の一心を指すことを言ったものである。一心で心の内外を照らして明らかにするのを、月が世界を照らすと言ったのである。それゆえに、お経を読めば莫大な功徳があるというのも、ただこのような事情を知らせようとするためなのである。

*経典の教え:「修多羅(しゅたら)の教(きょう)」修多羅はインド語のスートラの中国語への音写(音だけ写すこと)でお経のこと。

 

三十七、また、仏に供養をすれば成仏するというのも、心を悟ることを言うのである。仏の名前をとなえ、お経を教わって読むのも、ただ悟りの岸に近づくための舟や筏のようなものである。

 

三十八、舟や筏にのって川を越えて岸に近づいたあとは、舟や筏を離れて道をいそがねばならない。それだから、千日も万日もお経を読んでいるのよりも、一念のうちに一心を見届ける功徳は、限りなくまさっているのである。また、千年、万年もこの道理を聞くよりも、一念のうちに一心を見届けるならば、限りなくまさっているのである。

 

三十九、ただし、浅いところから深いところへ進むので、どうしようもなく愚かで戒律を守れない者が、ひたすらにお経を読み、仏の名前を唱えるのは、初めて舟や筏にのろうとする者のようなものである。ありがたいご縁結びである。しかしもしだだ筏の中にとどまって、悟りの岸に近づこうと思わないのであれば、これは大変な間違いである。

 

 

塩山仮名法語(3)

二十一、一念も生じないところを極めて進んでゆくと、虚空のごとく一つの物もないと知られるところすら絶え果てて、まったく味わいもなく闇夜のようになるところについて退く心を起こさず、そうしてこの音を聞く者は、いったい何者であるかと力を尽くして疑いが十分になるとき、疑いが大いに破れて、死に果てた者が蘇るようになる時、これがすなわち悟りである。

 

二十二、この時にはじめて、十方のもろもろの仏、歴代の伝法の祖師たちに一時にお目にかかることになる。もしこのようになった時には、次の話を提起してよく見るがよい。ある僧が趙州和尚*に尋ねた。「祖師西来意(そしさいらいい)、達磨大師が西の印度から唐土に来たのはどんな心だったのでしょうか。」和尚は答えて言った。「庭先の栢(かしわ)の木」。

*趙州和尚:中国唐時代の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師(778-897)。

 

二十三、このような公案(こうあん)*に少しでも疑いがあれば、また取って返して元のように音を聞く者は何物であるかと見なさい。今の人生で明らかにできなければ、いつ明らかにするのか。いったん人間の身を失ってしまえば、三悪道**の苦しみを長く免れることはできない。いったい誰が悟りを隠したというのか。ただ自分が道にかなわない心でいるからだと思い知って、勇気を奮って精進しなければならない。

公案:禅修行の手がかりとなる祖師たちの逸話や語を、参究の問題としたもの。

**三悪道:六道輪廻のうち、地獄・餓鬼・畜生の三つの道。

 

熊坂の男に与えた教え

二十四、病気のさなかでの参究の仕方、心の用い方を書いて寄こしてほしいとのことです。

 

二十五、 いったい病気になっているのは誰か、参究している者は誰か、みずから自分という者をお知りでしょうか。この身を貫いてすべては仏性であり、この身を貫いてすべては大いなる仏道に他ならない。仏道の本体は、もとより清らかなものであって、一切の姿形を離れている。どんな病があるというのか。

 

二十六、これはもろもろの仏の本来の根源であり、人々みずからの心であり、本来の面目(ありさま)である。これは、見たり聞いたりする主人公である。これを悟れば仏である。これを見失っているのが迷える人々である。それだから、仏や祖師方はみな、じかに人の心を指して、その本性を見て成仏させるのである。たとえるならば、影をみてあれこれ悩んでいる者は、本当の姿形をみるに越したことがないようなものである。

 

二十七、昔、ある人が酒を飲んだ時に、酒の中に蛇がいると思いながらこれを飲んだ。すぐ家に帰ったが腹の中の苦痛がはなはだしい。いろいろと治療を施したが効果がなく、命が終わろうとしていた。先の酒席の亭主がこれを聞いて、この人を自分のところへ呼び寄せて、先日の座席につかせて酒を与えて、これが薬ですという。この人が飲もうとすると酒の中に先日のように蛇がいた。亭主にこのことを言う。亭主は席の上の方を指さした。この人が上を見上げてみると、天上に弓がかけてあった。このとき、先の蛇はこの弓が映った影であると知って、二人は目を見合わせて笑って言葉もなかった。苦痛はたちまち止んでしまい、元の通りに戻った。見性成仏(けんしょうじょうぶつ)*もまたこのようなものである。永嘉(ようか)禅師**が言っている。「実相を証ずれば人法(にんぽう)も無し、刹那に滅却す阿鼻の業(本当の有り様をはっきり見届ければ、人も物もありはしない。一瞬にして無限の過去からの業は消え去ってしまう)」。実相というのは人々の本来の根源である。自分の心が如来の大円覚(大いなるまったき悟り)であることを信じずに、姿形のあるものに執着して、外に仏を求め、仏法を求めて、いろいろと苦行を行って仏になろうとするけれども、自我や情識(間違った認識や感情)がやまないので、三界***をへめぐって大いなる苦しみを受けるのである。

*見性成仏:自らの本性である仏性を見届け、仏と成ること。

**永嘉(ようか)禅師(665-713):中国六祖慧能禅師の法をつぐ。『証道歌』を著す。

***三界:欲界(欲望の渦巻く世界)・色界(欲を離れても肉体・物体の残る世界)・無色界(精神のみの世界)。

 

二十八、自分は蛇を見たのだと思って、いくらか治療をしてみたが少しも効果がなく、ただみずから根本を見てすぐさまその病を取り除くようなものである。それゆえ、ただみずから自分の心を見なさい。人に与えるような仏法は一つもないのである。

 

二十九、経*にあるように「幻と知れば即ち離る。方便を作(な)さず。(幻だと知ればたちまちに離れる。手段を用いる必要がない。)」すべての姿形はみな幻であり、実体はない。もろもろの仏や衆生(しゅじょう)**もやはり水に映った映像に過ぎない。映像を認めて実体とするのは本性を見ないからである。しばしば間違って、思念がおさまり、何もない静寂となった所を認めて本来の面目(ありさま)と思うことがある。これもまた水に映った影である。

*経:円覚経のこと。

**衆生:命あるものすべて。

 

三十、ただ、理解の及ぶところを通り過ぎて、どうしようもない所に至り、それを見なさい。それはいったい誰か。兎角の拄杖(とかくのしゅじょう)*をへし折り、火裡の氷(かりのこおり)**を打ち砕いて、初めて親しく対面できる。ちょっと言ってみなさい。いったいその親しく対面するものは何か。今日は八日であり、明日は十三日である。

*兎角の拄杖(とかくのしゅじょう):兎角はうさぎの角のようにありもしないものを言う。拄杖はつえ。存在し得ない杖。

**火裡の氷:火の中の氷、やはり論理的にあり得ないもの。

塩山仮名法語(2)

、そもそも、たった今、目では色を見、耳で声を聞いたり、手を挙げ、足を動かしている主人は、いったい何者かとみれば、こうしたことは皆、自分の心の行うことだとは分かっているけれども、本当のところ、どんな道理なのかは知らない。これは何も無いのだと言おうとすれば、使おうと思えば自由自在であることは明らかである。だから有るものだと言おうとすれば、その姿はまったく見えない。ただ不思議なだけであって、どのようにしても理解できる姿かたちが無いままで、考えがまったく絶え果ててしまい、どのようにもしようがなくなる、これは良い参究の仕方である。

 

、このような時に、退いてしまう心なく、いよいよ志が深くなって極まる時、深い疑いの念が、底に通って破れる時、自分の心が仏であることは疑いがなく、嫌わねばならぬ生き死にはなく、求めるべき仏法もない。

 

十一、虚空の世界はただ私の一心である。たとえば夢の中で、知らぬ所へ迷い出て、自分の故郷へ帰る道を見失って、人に聞いたり、神に祈ったり仏に祈ったりしても、まだ帰ることができない者が、その夢がはっと醒めてしまえば、ただ元の寝室の中にいる。この時、自分で、夢の中の旅から帰るのは、目覚めるより他に別の帰り道はなかったのだと知るようなものである。これを本(もと)に還り、源に還るとも言い、安楽世界に生まれるとも言ったのである。これは、少し修行が力を獲得した筏(いかだ)のようなものである。

 

十二、座禅をたしなみ、参究をする人は、在家(ざいけ)であっても出家であっても、皆、これくらいの成果はあるのである。これはもはや、参究をしない人が知ることのできるものではない。

 

十三、「これは、すでに本当の悟りである。私の仏法において疑いはない」と思うなら、これは大きな間違いである。これはただ、銅を見つけて、金を得ようという望みを止めてしまうようなものである。もしこのような様子になってきたときには、勇気を出していよいよ深く参究をせねばならないのは、自分の身を見るのに幻のように見、水の泡のように見ることである。

 

十四、自ら心を見てみれば、虚空のようである。姿形はない。この中で耳で声を聞き、音の響きを知る主人は、さて何者かと少しも許さずに深く疑うばかりで、まったく知られる道理の一つも無くなり果てて、自分の身のあることを忘れ果てるとき、先の考えは絶え果てて、疑いが十分になれば、悟りが十分になること、桶の底がはずれる時、入っていた水が残らないようなものである。

 

十五、枯れ果てた木に、たちまち花が開くようなものである。もしこのようであるならば、仏法において自由自在の境地を得て、解脱(げだつ)*の人となるであろう。

*解脱(げだつ):生き死にや、輪廻の苦しみから解放されること。

 

十六、たとえこのような悟りがあっても、ただ何度も悟られるその悟りを打ち捨てて、悟る主人に還って、根本に帰ってそれを固く守れば、情識(じょうしき)*が尽きるににしたがって自分の本性が明るく照りだすこと、宝石を磨くにしたがって光を増してゆくようなものであり、ついには必ず世界全体を照らし出すことになろう。このことを疑ってはならない。

*情識(じょうしき):誤った認識と感情。

 

十七、もし志が深くなければ、今の人生でそのように悟ることが無かったとしても、参究の中で命を終えるような人は、次の世では必ず容易に悟りを開くこと、昨日やりかけたことが、今日は簡単に進むようなものである。

 

十八、参究を行い、座禅をしている時、想念が起こるのを嫌ってはいけないし、またその想念に愛着してもいけない。ただその思念の源である自分の心を見究めるべきである。心に浮かび、目に見えることを、皆幻であって真実ではないと知り、それらを恐れることなく、また尊ぶこともなく、愛着するのでもなく、嫌うのでもなく、心が物に染まることがなく、虚空のようであるならば、命が終わる時も、天魔(てんま)*に心を犯されることはまったくないであろう。

*天魔:仏道修行を妨げる邪悪な魔物。

 

十九、また、参究を行う時には、このような事、このような道理を一つも心の中に置くことなく、ただ自分の心はいったい何かというだけになりなさい。またたった今、あらゆる音を聞いている主人は何物かと、これを悟るならば、この心は、もろもろの仏や衆生たちの本源(本来の根源)である。観音菩薩は、音をきっかけにお悟りになったので、観世音という名になったのである。ただ、この音を聞いている者は何物かと、立っったり座ったりするときもこれを見つめ、座禅してもこれを見つめるとき、聞いている者も知られず、参究もまったく絶え果ててしまい、心が茫然となるとき、そうした中でも音が聞こえることは絶え間ないが、いよいよ深くこれを見つめる時、茫然とした様子も尽き果てて、晴れ渡った空に一片の雲もないようになる。

 

二十、ここにおいて、自分というべき物はなく、音を聞いている主人も見当たらず、この心は十方(じっぽう)*の虚空と等しいものであり、しかも虚空と名付けるべきところもない。このような状態のとき、これを悟りだと思うのである。この時また、大いに疑わねばならない。ここにおいては、誰がこの音を聞くのだろうかと。

*十方:八方位と上下を合わせて言う。すべての方向のこと。

塩山仮名法語(1)

*底本:古田紹欽(訳注)『日本の禅語録 第十一巻 抜隊」講談社、昭和五十四年〕

*この法語には、古田紹欽氏の現代語訳が同書に掲載されていますので、重ねて現代語訳を出すのは少々はばかられますが、同書は品切れで入手できず、WEB上には現代語訳は出ていないようですので、あえて拙訳を出します。これによって塩山禅師(1327年~1393年)を知った方は、図書館等で同書をお探しになり、古田氏の懇切な現代語訳をも参照されることをお勧めします。

*〔 〕底本編者による補足、( )は底本編者の挿入、[ ]はブログ主による補足を表す。

*便宜上、ひとまとまりごとに番号を付す。

*はブログ主による注釈。

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 一、輪廻*の苦しみを逃れようと思うのなら、じかに仏と成る道を知るべきである。仏と成る道とは、自分の心を悟ること、これである。自分の心というのは、父母もまだ生まれず、我が身もまだ無かったさきから今に至るまで移り変わることなく、一切衆生**の本性であるから、これを本来の面目(ほんらいのめんもく:本当の有り様)と言うのである。

*輪廻:生まれ変わり死に変わりを繰り返すこと。通常は六道輪廻(りくどうりんね)と言い、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界を経巡るとされる。

**一切衆生(いっさいしゅじょう):命あるものすべて。

 

、この心は元より清らかなものであり、この身が生まれる時も生まれるという相(姿)もなく、この身は滅するけれども死ぬという相(姿)もない。また男女の相にもなく、善悪という色もない。譬えも及ばないので、これを仏性*と言うのである。

*仏性(ぶっしょう):仏である本性のこと。

 

、しかもあらゆる念*がこの自性**の中から起こることは、大海から波が立つようなものである。鏡に姿が映るのに似ている。それだから、自分の心を悟ろうと思うならば、まず念が起こる源を知らねばならない。

*念:人の思い、思念。

**自性(じしょう):自分の本性のこと。ここでは仏性に同じ。

 

、ただ、寝ても覚めても、立ったり座ったりするにも、自分の心とは何であるかと深く疑って、悟りたいと深く望むのを修行とも工夫(くふう)*とも志とも道心(どうしん)とも名付けたのである。また、このように自分の心を疑っているのを、座禅とは言うのである。

*工夫(くふう):自心を悟ろうと探究すること。

 

、一日のうちに一千巻、一万巻のお経や呪文を読んで、千年、万年、修行に勤めるよりも、一念のうちに自分の心を見ることには及ばない。そのような有相の行*は、ただ、いったんは福徳を積む因縁となるけれども、その福が尽きてしまえば、三悪道**の苦しみを受ける。一念において工夫するのは、ついには悟りとなるので、成仏する因縁である。たとえ十悪・五逆***の罪を作ってしまった者でも、一念に翻って悟れば、そのまま仏である。

*有相の行(うそうのぎょう):お経を読んだり、呪文を唱えたりといった、姿形に表れた修行のこと。

**三悪道:地獄、餓鬼、畜生の道。

***十悪・五逆:殺生(ころし)、偸盗(ぬすみ)、邪淫(不正な性行為)、妄語(うそ)、綺語(かざった言葉)、悪口、両舌(二枚舌)、貪欲(むさぼり)、瞋恚(うらみつらみ)、邪見(よこしまな考え)を仏教では十の悪業とし、殺父(父ころし)、殺母(母殺し)、殺阿羅漢(悟りを開いた人殺し)、出仏心血(仏を傷つける)、破和合僧伽(僧侶のまとまりを壊す)を五つの重罪とした。

 

、だからといって、きっと悟るということを頼みにして、罪を作るようなことがあってはならない。自ら迷って悪の道に落ちる人を、仏も祖師方もお助けになれるはずもないのである。例えば、幼い子どもが父親のそばに寝ていて、夢の中で人から打たれたり、あるいは病気に犯されて苦しみを受ける時、お父さんお母さん私を助けて下さいと呼んでも夢を見る心の中へ行くことはできないので、父も母も助けることができないようなものである。たとえこの子に薬を与えようとしても、目を覚まさなければ受け取ることはできない。

 

、自分で目を覚ませば、夢の中の苦しみを逃れるのは、他人の力を借りるまでもない。自分の心がそのまま仏であると悟れば、たちまち輪廻を免れるということもまた、これと同じことである。

 

、もしも仏が救うことのできることであれば、いったいどんな衆生を一人でも地獄に落とすはずがあるというのか。あるはずはない。この道理が真実であることは、自分で悟らなければ知ることができない。

                               (つづく)

 

 

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(12=終わり)

三十五 龍門寺の本尊は観音菩薩である。禅師の作である。それを知りながら、ご説法のときに奥州(東北地方)の僧が寄せ柱(よせばしら:馬などをつなぐ柱)のところに立って尋ねて言うには、あの本尊は新仏でございますか古仏でございますか、と。

 師がおっしゃるには、あなたはどのように見ましたか。

 僧が言う、新仏と見ました。

 師がおっしゃる。新仏と見たらば新仏ということで、それで済んだ話だ。何で尋ねる事があるか。あなたは不生が仏心だということをまだ知らないので、そのような何の役にも立たない事を禅と思って尋ねるのか。そのように役にも立たない事を尋ねて皆を妨げるより、黙って私が言うことを座ってじっくりとお聞きなされ。

 

三十六 出雲の国(今の島根県東部)の人が禅師に尋ねて言った。禅師のように悟りますと、三世(過去・現在・未来)が手の中を見るように見えるのですか、と。

 師がおっしゃる。それは前から聞こうと思っていて問うことか、それとも今急に言って問うことか。

 その俗人が言う。けっして今急にお尋ねするのではございません。考えていましたので申し上げるのです。

 師が言う。それならば三世を見たがるのは、あとでも大丈夫であるから、先に、今まさにそうなっているあなた自身のことを、ただ今よく御覧なされ。自分のことを極めないうちは、私がどれほど、どのように見えると言っても、あなたが見ないので受け取りはしませんよ。ご自分のことを極めれば、見える事も、見えない事も、ひとりで知られる事じゃな。だから私が言うには及ばず、私に問うには及びはしませんわな。まず今日の事柄を、御自分の身の上で極めることもせずでは、後でも構いませぬ。遠い三世が見えるか見えないかと尋ねるのは、脇道の詮索、脇道に逸れるというもので、皆よそ事で、人の宝を人に数えてやるようなもので、半銭*にも自分のものになりはしませんわな。ですから、先に私が言ったことをよくお聞きなされ。今日そのようにあるあなた自身の身の上を極める事なので、私が示すのに従って、私の示すことをとっくりとお聞きなさい。とっくりと聞いて決着させれば、そのまま今日の活き仏ですから、三世が見えるか見えないかの事は、担いでまわって、はるばる人に尋ねてまわるには及ばないと、これまでの間違いを知ることになり、脇道へ逸れるのが止みますわな。ですから私が言うことを、お聞きなされ、とお示しがありました。

*銭(せん):一文銭。

 

三十七 また師がおっしゃるには、我が宗(禅宗)は、自力というのでもないし、他力というのでもなく、自力他力を超えているのが我が宗でございます。その証拠に、私がこう言うのを皆さんこちらを向いて聞いておられる時に、後ろで鳴く雀の声、烏の声、男の声、女の声、風の吹く音がすれば、それぞれの声か、聞こうと思う念を起こさないでいても、こちらへそれぞれの声が分かれ通じて聞こえるのは、自分が聞くのでないのですから自力ではありません。またこれを人に聞いてもらって役に立つわけでもありませんから他力ではありません。そうすれば自力でもなく、自力他力を超えているのが我が宗でございますわの。そうではありませんか。このようにその不生で聞くなら、一切の事を超えておりますわな。その他の一切の事も、すべてまずそのように不生で調いますわの。不生で働く人はどなたでも、皆一切の事が不生で調いますので、不生な人はどなたでも、自力他力によらず、他力を超えておりますわな。

 

盤珪仏智弘済禅師御示聞書終

 

この法語は、仏智禅師の仏法を伝える庵に秘め置かれていたのを、私が雨で所在ないところをその庵に行って、仏法の話をした折にこれを拝見し、印刷して公にすれば、老若も女子供も仏法の縁に導き、不生の仏心とする重要な手がかりともなるだろうかと、一向庵主にお願いしてこれを求め、禅師の遺命(いめい:残した教え、戒め)を世間と共に写そうと考えた次第である。

 宝暦丁丑(宝暦七年=一七五七年)冬の日

                    浪華(大阪) 玉端 誌(しるす)

 

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(11)

二十九 ある僧が尋ねた。不生でいなさいというお示しでございますが、私が思いますには、それでは無記*でございますが、さしつかえありませんか。

 師が答えて言う。あなたが何とはなしにこちらを向いて私の言う事を聞いているときに、後ろからふいに人が背中へ火をくっつけたら、熱くは感じませんか。

 僧が言う、熱く感じるでしょう。

 師が言う、それならば無記ではございませんな。熱いと感じるものが無記なものですか。無記ではないから、熱いと感じますわな。無記でないから、熱い事も寒い事も、知ろうと思う念を起こさずにいながら、よく知り分け、見分けますな。あなたが、無記だがさしつかえないか、と言うものが、無記なものですか。無記でないから、自分からよく無記を知りますわいの。また無記でないから、無記だがさしつかえないかと言うのですから、無記ならどうして無記とも言いましょうか。そのように仏心は霊明にして賢いものでございまして、無記ではございませんな。それを無記と思うのはあなたの間違い、思うものが無記であるものですか。無記なものなら思いもしないはずです。それならどこに無記というものがございましょうか。さてあなたはいつ無記でいることがありますか、いつも無記ではございませんわな。

*無記:釈尊がある種の問いに対して回答を避け、語らなかったことを言う。

 

三十 師が言う、ただこうして毎日ここへ出まして皆さんにお会いしますが、別にこちらから皆さんへ何を言って聞かせようとも、思ってあてにしていることはございませんので、何でも尋ねたい事がありましたら、誰でもここへ出てきて尋ねなされ。お尋ねになれば、それについて何なりとも言って聞かせましょう。これを皆さんに言って聞かせようと思うあてはございません。

 

三十一 師がある日言うには、近頃、中国から来ました語録などを見ますと、長い間、世間からすっかりとなくなって、最近は中国にも、不生の人は見当たりません。

 

三十二 またある日言う、私も若い時には、随分と問答商量*をしてもみましたが、しかしながら、日本人に似合うように、日常の言葉で仏道を問うのがよいのでございます。日本人は漢語は苦手であって、漢語の問答では思うように仏道について問い尽くされぬものでございます。日常の言葉で問えば、どのようにでも問われないことはありません。だとすれば問いにくい漢語で気を張って問い回るより、問いやすい言葉で気を張らず、自由に問うのがよいのでございます。それもまた、漢語で問わなければ仏道が成就しないというのであれば、漢語で問うのがよいでしょうが、日本の日常の言葉でむしろよく自由に問うことができて済みますから、問いにくい言葉で問うのは下手なことでございます。したがって、皆さんそう心得て、どのようなことでございましょうとも、遠慮せず、自由な日常の言葉でお尋ねになり、決着をつけなされ。決着さえつくのであれば、気安い日常の言葉ほど重宝なことではありませんか。

*禅問答をして力量を測ること。

 

三十三 師が仰るには、仏心は不生で霊明なものだと皆さんお思いなさい。一回行ったところは、何年経っても、覚えていようといつも思っていなくても、よく覚えていて、忘れません。自分が行った所へまた他の人が行きましたなら、百里*離れた所で話しても行った者どうしは、どこで話しても拍子が合います。また道を行く時に向こうから大勢の人が来ますと、脇によけようと思う念を人々は起こしませんが、向こうから来る人に自然とぶつかることもなく、人に突き倒されもせず、踏まれもせず、大勢の人の中を通っても、あちらへくぐり、こちらへ避けて、抜けたりくぐったりして、そうしようと思う分別の念を起こさなくても自由に道を歩きますわな。仏心はこのように不生にして霊明なものでございまして、一切の事が調いますわの。もし万一、自然に脇によけようと思う念を起こして避けるとしても、霊明な功徳でございますわの。とはいえ、避ける方へは念を生じて寄って行きますけれども、足元は、一足一足に分別の念を生じて歩きはしませんわな。それでも自然に歩くのは、不生で歩くというものでございますわの。

*里:昔の距離の単位。1里は約4キロ。

 

三十四 師が十二月一日*に皆に告げて言うには、私の所では、常日頃が座禅の場所でございますので、よその様に、今日から座禅会だといって格別にあがき務める事はございません。眠る僧がありまして、それをある僧がいてひたひたと叩きましたのを、私が叱った事がございました。気持ちよく寝ている者をなぜ叩くのか。眠ればあの僧が〔不生の仏心とは〕他のものになりますかと言った事でございましたが、眠れと言って勧めはしませんが、眠っているときに叩くおは、いかにも間違いでございますわな。今、私の所では、そのようなことはさせません。眠れと言って勧めはしませんけれども、眠っても叩きも叱りもしません。眠るのを叱りも褒めもしませんし、眠らないのを褒めも叱りもしません。起きれば起きたまま、寝れば寝たまま、眠れば醒めた時の仏心で眠り、醒めれば眠っていた時の仏心で起きている。眠れば仏心で眠り、醒めれば仏心で醒めていれば、他のものになるように思うのが間違いです。起きている時ばかり仏心で、寝た時に他のものになるのなら、仏法の究極ではなくて、つねに流転しているというものでございますわの。皆が仏になろうと思って精を出す。それだから眠れば叱ったり、叩いたりするが、それは間違い。仏になろうとするより、皆人々の親が産み付けてくださったのは、他のものは産み付けはいたしません、ただ不生の仏心一つだけ産み付けたので、常にその不生の仏心でいれば、寝れば仏心で寝、起きれば仏心で起きて、日ごろ活き仏でございまして、いつか仏でないということはない。常日頃が仏なので、この他にまた別に仏になるということもありません。仏になろうとするより、仏でいることが面倒がなく近道でございますわの。

*十二月:禅寺では、釈尊が悟りを開いた十二月八日に倣って十二月一日から八日まで厳しい座禅修行が行われ、臘八接心(ろうはちせっしん)と呼ばれる。

 

 

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(10)

 同二日説法

 

二十八 これまで皆さんお聞きの通り、各々生まれついた仏心でございますが、世間のならわしで、悪い世渡りを習いましたので、惜しいとか可愛いとかの餓鬼道に仏心を変えてしまったのでございます。ここをじっくりとご理解くだされば不生の気になります。しかし不生になりたいとお思いになって、怒りや腹立ちや惜しいだの欲しいだのという気持ちが起こるのを止めようとお思いになっても、それを止めますと、一心が二つになります。走っている者を追いかけるようなものです。起こる念を止めようとする場合には、絶えず起こってくる念と、止める念とが闘いまして、止まらないものでございます。たとえふっと思わず知らず怒ることがありましても、また惜しいとか欲しいとかの念が出て来ましても、それは出たままにし、その念を重ねて育てず、執着せず、怒る念をやめようとも、やめまいとも、その念に関わらなければ、自然と止まないことはありません。たとえいろいろな念が起こりましても、その起こって出たときだけで、重ねてその念には関わらず、嬉しい事にも長く念をかけず、一心を二心にしないのがよいのです。常に心持ちをこのようにお思いになれば、悪い事をも良い事をも、思わないようにしようとか止めようとか思わなければ、自然と止まないということはないのです。怒りというのも、嬉しいというのも、これは皆、自分というものから生じたのですから、その心が滅しなければどうしようもありません。とにかく常に不生の心を心がけなされよ。それが第一でございます。このことに油断がなければ、善悪に起こる念もございません。念を持っても止めようとは思わず、このようなときは、生ぜず滅せずではございませんか。ここが不生不滅の仏心というものでございます。

 龍門寺本

〔譬えを使って言うのであれば、血でもって血を洗うようなものでございます。そうしても血はおちるでしょうが、また後の血が付きまして、いつまでも赤味はとれません。そのようなものでございまして、前の止まらない怒りの念は止むでしょうが、止めようとした後の念がいつまでも止まらないのでございます。だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえはからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、やむまいとも取り合わなければ、止むしかないのでございます。垣根を作ったり論争したりするのは、一人では成り立ちません。その相手がいないのであれば、自然と止まないではないのです。たとえまたいろいろの念が起こりましょうとも、その起こってきました念は、ちょうど三つか四つの幼い子供の遊びのように、嬉しいも悲しいも続けてその念にこだわらず、止めようともまむまいとも、思わず知らずにおられることが、とりもなおさず不生の仏心で居るというものでございます。こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。また、悪いことも善いことも思わないようにしようとか止めようとかに成らなくとも、自然と止まないことはないのでございます。怒りだの喜びだのということも、これらは皆自分の欲のために身のひいきが強いことから生じますので、執着する念を一切離れましたならば、またその念が滅しないことはないのです。その滅したところが、そのまま不滅でございます。不滅なものは、不生の仏心で、不生でございますわいの。

 とにかく、常日頃不生の仏心を心がけなさって、不生の上に、あれだのこれだのと念を出してこしらえ、向かうものに執着し、仏心を念に変えてしまわれる事、これが第一のことなのです。ここに油断がなければ、善悪に起こる念も起こさず、しかも止めようと思う事もいりません。このような時は、生ぜず滅せずではございませんか。ここがそのまま不生不滅の仏心というものでございますから、よくご理解なされるのがよいのでございます。

 見回してみますと、いつもながら今朝はとりわけ大勢の参詣でございます。ただいまの説法をお聴きでない皆さんが多そうです。すでにお聞きの皆さんはもう席をお立ちに成って、まだお聞きでない皆さんと入れ替わられるのがよいでしょうと仰って、会場がすでに入れ替わって落ち着いた後で、ある人が尋ねました事を申し上げます。

 近頃、悪い具合に世渡りを習って仏心を悪念に変えてしまうと仰るのをお聴きし、承って悪いことだと思っております。しかし私は町人でございますので、家業として商売をしております。前からの不満によって立腹することもある状況でございます。私には立腹する悪念などは少しも持たないのですが、何としても、妻子や下男下女らが向こうから腹を立てさせるような事をすることが多いのでございます。ご説法をお聴きいたしますと、これは悪いことだと思いまして、止めようと思い、その怒る念を止めますけれども、どんどん生じてきてついに止むことがありません。このような場合は、どのようにして止めればよいのでしょう、と申し上げると、

 禅師のお答えするに、それはあなたが腹を立てたくて立てるのですな。もともと少しも悪念がないのであれば、向こうからどのように仕掛けようとも、腹が立たないはずでありますが、内に腹を立てるものがこしらえてあるので、またあなたに腹を立てさせようと向こうから言うわけではないけれども、あなたの、私は道理にあわない難題は言いませんが、身のひいきが強いので、怒りの腹を立て、三悪道の業をこしらえて、心の思いが身を責め、自分と自分の業で火の車になるのでございますわの。他に地獄も餓鬼も、業も、鬼も、火の車もございませんぞ。またその起こる念を止めようと押さえとどめようとするのは、悪い心得でございます。本来生まれつきの仏心は、ただ一つで、また二つとはございませんのに、その起こる怒りを止めようと思われれば、怒る念と止める念と二つに成りまして、走っているのを後から追いかけるように、走るのも自分、追いかけるのも自分でございます。

 この事を譬えて言うならば、生い茂った木の下を掃除するのに、上から木の葉が散り積もるようなものでございます。払い除いたそのときはさっぱりとしても、また後から葉っぱを散り敷いているのでございます。このようにその怒りの念は止みましても、後からとめにかかった念は、長く止まりません。したがって、止めようと思うのが悪いのです。このようなわけでございますので、その起こる念にこだわらず、止めようとも止めまいとも思わない所が、そのまま不生の仏心だということを先ほど詳しく申しましたが、あなたはお聞きになったか、残念だ、との仰せ〕

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(9)

 また天秤棒で荷物を売る者が夜明け方から天秤棒を担ぎまして野を行き、山を越え、谷を走って世渡りに苦労をいたしますが、これらは出家の修行に比べてはかえって苦労は似たこともありません。なぜなら、商人も自分の家を構えて荷物を担いで出て、朝は星を頭上に見て夕べは露に身を濡らして商いをいたしましても、しまいには船宿でゆっくりと疲れをいやし、寝起きは心のままで、走り回ったことも忘れて、身分相応の楽しみはございます。

  出家は、もとより自分の落ち着きどころの家もございません。山に寝て、苦しくつらいめをみて、ひもじいだけ。行き先といっても自分を待つ人もありません。ですから一時でも気持ちよく疲れをいやす事がございません。衣服を常に所持しておりませんので、寒気を防ぐ用意もございません。出家の身の上は何にも比べようがありませんが、このように身を殺して修行をいたしますのは、かの仏の有難い事を見いだしたいと思うばかりのことで、難行苦行をするのでございますが、この修行が成就いたしますと、また名も知れ、妙智を得ることにもなります。

 仏心に優れた効能があることを話して聞かせましょう。三十年ほど前に、私の弟子になった者がございますが、ものを売ることで群を抜き、たびたび利益を得ましたので、世間ではこの者を「ぬすっと孫兵衛」と言いまわり、この者が道を通りますと、あの「ぬすっと孫兵衛」だと皆ゆびを指したのでございます。群を抜いて利益を得ることが上手でしたので、後には暮らし向きもよくなり、金銀を持ちました。私の所へはその頃から出入りしておりますので、私が申し聞かせましたのは、お前はもっての他である。ぬすっとと言われることは大変な過ちである。特に庵へ出入りする者が、そのような悪名で呼ばれることは、お前の誤りである、と意見をいたしました。しかし孫兵衛が申しますには、私は人の所へ入って物を盗むとか、蔵の家尻(やじり:後ろの壁)を破って盗むとかするなら恥とも思いますが、そのような盗みではございません。商いの道で利益を得ますのは、私一人に限ったことでもございません、と何食わぬ様子で居ましたが、その後何と思い付きましたか、私のところへ参りまして、頭をまるめて下さいと頼みました。他の者であれば詳しく聞くこともありましょうが、この者は日頃悪名がある者でしたから、大変よい志だと言ってさっそく坊主にしてやりました。それ以来、信心者になっております。これは何を申しているのかと言いますと、仏と申すものは霊妙な徳がございます。この者が坊主になりましてまだ三十日も過ぎない頃に、世間の人が「ほとけ孫兵衛」と言い回りました。このような事で、皆さんよくご理解なされませ。仏心ほど、世間で有難いものはございません。

 皆さんが不生の心になろうとお思いになるのであれば、この修行をなされなければ叶いません。このような戒律を守りなさいと言うのではございません。各人に備わっている仏心なのですから、私が皆さんへ仏心をお与えするというわけでもありません。この説法をよくお聞きになって仏道を獲得されましたら、そのままの不生でございます。諸大名が私を呼びに来ますと、どこでもこの説法をいたしますが、二十日、三十日とする所もございますが、どこでも、そこを去ってから後で聞きますと、信心者が生まれて、その上、国の風俗もなおるということです。この土地でも夜明け前にこのように毎回この集まりに加わっていただいて、怠ることなく聴聞をなさっていること、有難く思います。私もあさって三日に戻りますので、三日は説法はいたしません。

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(8)

 九月一日説法

 

二十七 どなたも私の説法を聴聞しようと、夜明け前からこのように大勢押し合って窮屈な目を顧みずにこの会合に参られるのは、もちろんのこと有難いことと存じます。というのも皆さん夜明け前から早起きをなさってここへお出でになるのは、どなたも仏に成りたいとお思いになってのこと、そのように思うこの心が、そもそも賢く生まれついているからなのでございます。これはそのまま仏心が各々に備わっている徳と申すべきものでございます。そうではありますが、今どきは、世渡りをするのに、悪い習慣が身について育ち、仏心を失ってしまっている事でございます。

 親が産み付けてくださった時は、仏心がそなわっております。その証拠を申し上げるならば、ほんの幼い身で、善悪もまだ知らない時から、何が有難いという分別もなくてても、仏といって見せますと、はやくも手を合わせて拝み、数珠を持たせれば手に掛けて拝みます。こうした事は、仏心のよい証拠でございます。このようなことを思いますれば、仏と申すものはさまざまな徳が備わったものではございませんか。仏にならなければ、一万劫*という長い時間を経過しても仏の成果は得られません。畜生(動物)と成ってしまえば、どれほど有難いことを説いて聞かせましても、理解できずに、縁は切れてしまいます。仏に成りたいと思う気持ちもございません。このようなことを皆さんお聞きになるからには、今日から不生の気にもとづいて、第一に、この身にひいきがないようになされませ。

*劫(ごう):インドから伝わる時間の最大の単位。カルパの音訳、劫波から。

 自分は人に何事も負けまいと考える。慢心して何事も人に勝とうと思っても、まける事もある。人がまた自分に悪くあたるのは、自分に慢心があるからでございます。人が我が身に悪くあたるのは、自分に悪いところがあるからでございます。自分に心をつけてみれば、人間世界に悪い者は一人もいないものでございます。怒りの心が起こりますと、妙智(仏の妙なる知恵)を餓鬼修羅道に変えてしまいます。ただ怒りも喜びも、みなこれ自分びいきがあるからですので、妙智の仏心を失って流転するのでございます。ひいきがなければ、不生の気になります。ですから、どなたもよくご理解なされるがよい。この道理を納得なされば、修行をしなくとも、戒律を保たなくとも、今日から仏心でございます。

 特に侍は、出家などよりも修行しやすい事がございます。出家は若い時から学問をして、西国から東国へまいり、北国から南国に越え、走り回ります。それで行った先でもあてがあって行くわけでもございません。食事を蓄え、金銀を持って歩いて行くわけでもありませんので、行く先で不自由であって、道中でも人が宿を貸せば有難く、これ仏のおかげと喜び、行き暮れて宿もない時は、野に伏し山に伏し、食事がなくなれば托鉢もし、托鉢もできなければ、ひもじい事をたびたびこらえます。たいていはひもじい事ばかりで修行をするものでございます。たまたま綺麗な宿を人が貸しまして、ああ有難い、かたじけないと、仏恩を喜びます。そうして苦しいことつらいことをさんざん味わって、たいへんな幸せというのが庵を持つことですが、これは一寺をあずかるだけのことでございます。そうなりますと、檀那方(支援者)から施し物を受けまして、やっと落ち着くのでございます。けっしてこれが楽しみで出家をするわけではございません。こうして難行苦行をしますのは、何としても悟りを開き、仏心を見つけたいと思って、修行をするのでございます。このような事を思いますと、侍は主君から土地や報酬をたまわって、住み方は思いのまま、衣類は暖かに着て、食事も望みにまかせて修行できるわけでございます。その間には寝起きも自由になされ、何事も心にかなわない事はございません。願わくば、寝起きのあいだに、後世(ごせ)に心をおかけになれば、簡単なことでございます。まず不生の気になりますれば、主君への忠誠にもなります。仏心が万事にうつるのでございます。奉公をつとめますのに気落ちすることなく、どのような役目や取り締まりの仕事を仰せつかっても、不生の気で務めます。これを大変なことだとも考えません。もっとも不生であれば、その勤めで依怙贔屓はしません。そのように務める時には、素直な心が胸にございますので、これは主君が重宝しないわけはございません。そのようなときは、世間でも自分の名声が上がります。このように忠心が成就しますのは、みな常に仏法を心がけて修行し、不生の気になるからでございます。ですから侍は仏道修行をすれば随分と優れた効能があるのです。また修行もやりやすく、出家の修行よりも務めやすいのでございます。

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(7)

 その折に、人々が私の説法を聞くといって参詣するのをこの婦人が見まして、親の所へは帰らずに大勢に混じりまして私の庵へ参り、その日の説法をよく聴聞して、説法が終わって皆が帰って行きますので、この女房も帰り路で親の隣の人に会いました。この人がどうして来られたのかと聞くと、私たちは今朝夫婦喧嘩をしてここまで来たのですが、大勢がご説法の場所にいらっしゃるのを見て、ちょうどいい所に来たと思いましてまず親の所へは参りませず、参詣いたしました。今日のご説法は、全部私のことでございました。さてさて恥ずかしいこと。今日私が夫の家を出ましたのは、すべて自分の心のありようが悪いからで、夫は私を親の方へ戻したがりませんで、いろいろと言い、姑と一緒に引きとどめられましたが、私はつまらない事に腹を立て、姑や夫にも腹を立てさせました。今日のご説法で我が身の悪いことを十分に納得いたしましたので、親の方へは参らずに、これから嫁ぎ先へ戻って自分の間違いを懺悔して、お二人に頭を下げ、この有難いご説法を話して聞かせ、後世を勧めないのであれば、聴聞したかいはありません、と申しましたところ、隣の人が言うには、あなたは夫婦喧嘩をしてここまで来て、また嫁ぎ先へ帰ろうというのは論外のことだ。そもそも一人で帰られるものか。親の所へ行きなさい。嫁ぎ先へは私が一緒に行ってうまく行くように戻しましょうと言うと、その女房はいえいえうまく行くも何もございません。とにかく自分が悪いのですから、お二人のご機嫌をとってうまく行くようにして、その上で有難いご説法を、自分だけ聴聞しては何のかいもありません。お二人へもお聞かせしてこそ聴聞したというものでございましょうと、道すがら二人で話しておりますのを、この人たちの前後にいた参詣の人々も聞いて、さてさてこのご婦人は感心な方だ、今日一回の説法を聴聞して自分の間違いを悔やみ、女の身として、これは滅多にない例であると感じいる。もう一人の人は、さてさて訳の分からない申しようであるよ。一人で帰ろうというのを押し留めて、私がうまく行くようにして戻そうというのは何事だ。この人は大洲の住人だからこの説法もたびたび聞いているのであろうが、悪い考え違いであるといって、聞いていた人たちは皆この隣の人を叱りました。

 そしてこの嫁ぎ先へ帰ろうと言った女房に、前後の人たちが言ったのは、それにしてもあなたは感心した心根である。これから急いで嫁ぎ先へお帰りなさいと言うと、まったく帰るつもりでございますといって、帰ったということでございます。

 その日私は大洲のさる家に呼ばれて参りましたところ、その家に親しい人たちが大勢参りまして、今日のご説法に有難い事が起こりましたと、この話をどなたも口を揃えて言い聞かされたのでございます。

 その後、この女房が夫の方へ帰りました結果を聞きましたが、女房の考えの通りに帰って、二人に申しますことには、私に去れと仰られたわけでもないのに自分の考え違いでお二人のお心にそむいて家出をし、親の所へ帰ろうと思って大洲へ参りました。今日の家出は本当に仏縁だったと思います。途中で参詣する大勢の人と一緒になり、お寺へ参り、ご説法を聴聞いたしましたところ、ご説法は一つも余すところなく、みな私の身の上の事でございました。これをよく聴聞しまして、自分の心根の悪いことがよく分かりましたので、親の方へも行かず、お寺からすぐに帰りました。私の心が悪いことで、お二人にも乱れた心を起こさせました。これから私をどのようにもなさって、怒りをおさめてください。このように申す以上は、どれほどつらい目に会おうともさらさら恨むことはございませんと申しますので、姑も夫もこれを聞いて、お前は何でもないことに腹を立てたけれど、それを間違いだと思って戻ったのに、どうして恨みなど残ろうかと、戻ったことに満足して、全部うまくいったということでございました。

 それから随分と夫に従い、姑を敬いもてなし、あの有難い説法を折々二人に話して聞かせ、ついに二人ともに勧めて、私が逗留しているうちに三人連れ立って、何度も聴聞に参りました。このように仏のご縁のございます方は、何のわきまえもない無知な者でも、一回の説法によって、争いや怒りのないようになりましたことは、まったく感心な心根ではございませんか。このようなことも皆さんお聞きになるとよいでしょう。それがさっそく仏縁とならなくてはなりませんのでお話ししました。今日は説法が長くてお疲れでしょう。これで終わりにします。

 

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(6)

 男とは違って、ご婦人方は正直でございます。心も男より優れない所もございますが、悪をなせば地獄へ落ちると申し聞かせますと少しも疑う心がなく、地獄に落ちることを知り、善を行なえば仏になると教えますとそのまま仏になるぞと一筋に思われますので、いっそう信心深いのでございます。私がお示しする不生のところをお聴きになって、しんじんをお起こしになれば、知恵の優れた男子よりも正直なご婦人方が仏になりますぞよ。今回になんとか仏になろうと願われるのがよいのでございます。

 どなたもお思いになることは、腹も立てるな、喜ぶこともするな、何もかも、慎め慎めとばかり言う。そのように振る舞っているとき、お前は大変な阿呆だと言いかけられたら、私らでも、そうです阿呆ですとも言っておられないだろうとお思いになるかもしれませんが、確かにそういうこともありますけれど、阿呆でもない人に阿呆だと言いかける者が阿呆なのですから、そのような者には、やはり哀れに思って気にかけないのが良いのです。

 そうは言っても、侍は、そのように人が言えば我慢ができないものでございますが、それについて譬えを使って申しましょう。世間には高麗茶碗だの花生(はない)けだのといって高価なものを持っている方々が多くおられる。この焼き物を、なるほど、柔らかな綿や袱紗(ふくさ)に包まれるが、それはたいへんよいやり方でございます。侍の心持ちがまずそのようなものでございます。まず侍は常に義理を第一とし、一言でも間違いがあればそれをとがめ、油断のない所が侍の道でございます。お互いに一言をとがめあっている以上、我慢ができないので、常に固くなっている心を綿や袱紗に包んで、とがった所に、人にぶつからないように、前もって用心して言葉をとがめてから、相手を打ち果たさねばなりません。ここを十分納得なさるのがよろしい。主君の先駆けをして敵を討ち取るといった殺生もありますが、これは侍の仕事なので、侍の身の上としては殺生とは申されません。ただ、自分でたくらみをして、相手を打ち果たすとすれば、それが殺生でございます。仏心を修羅道に変えるのです。

 私には江戸にも庵がございます。麻布と申す所で、江戸のそばでございます。ある時、私が長らく使っておりました者が、少し仏法への志もあり、僧侶のしぐさなども常に見ておりますので、自然と仏法への志も起こっていたのですが、この者を共に住んでおります者たちが、或る晩、使いに出したのでございますが、その道中は江戸外れの家の無い所で、しばしば辻斬りがあり、日暮れに一人で行くのは心配だと申しますと、いえすぐ帰りますからと申しますので、その通りにしたところ、結局使いに行って帰り道に日が暮れ、いつもの所で辻斬りと出会い、その使者とすれ違って、お前の袖が私に当たったと言って刀を抜きましたところ、使者が申すには、私の袖は当たっておりませんと申して何とはなしにその辻斬りを三拝したところ、お前は不思議なやつだ、許すから行けと言って、その難を逃れました。ある商人がこの様子を見ておりまして、傍の茶屋に逃げ込み、様子をそっと覗いて今切るか、もう切るかと思っていたところ、使者はその商人の前に来ました。やれやれあなたは危ない所を逃れましたね、それで今の礼拝はどう思われてなさったのかと申しますので、私らの所にいる者はいつも三拝をしております。今も何という心もなしに切れば切るまでよと思って三拝を思わず知らずしたところ、お前は不思議なやつだと言って、許す行けと言って通しましたと申しまして、難を逃れて戻ったのですが、こうしたことは逃れ難い所を逃れたのでございました。早くも信心の志があったゆえのことであろうと申したことでございます。そういうわけで、非道な辻斬りさえ心が和らぎましたように、仏法ほど疑いのないものはございません。

 このように方々で活動しますと様々な事がございます。私は伊予(今の愛媛県)の大州(おおず、今の大州市)にも庵がございます。だいたい毎年行って、しばらく滞在いたします。大州の庵はここのような感じではなく、大きなお堂でございます。私が参りましても、なかなか大勢のお参りがございますが、女中がいるお堂がございます。坐奉行*が四人いて、そのうち二人が来て、押し合いしないように、この四人が指図をして行儀正しく聴聞をいたすのでございます。大洲近辺の二三里*の郷(さと)からみなさんお出でになります。あるとき、大洲からニ里ほどある郷の人で、大洲のある人の娘とご縁があって置かれておりました姑がおられ、一人の子もできました。この夫婦は常に仲が悪く喧嘩が絶えませんでしたが、のちに大喧嘩をし、一人の子も夫に渡して、この女房が家出し、親元へ帰ろうとしたところ、夫は幼少の子どもを抱えて女に申しますには、お前が親元へ帰るならばこの子を川へ流すと申しかけました。女が申しますには、そちらへ渡した以上はどのようになさっても構いませんと申しました。また夫が申しますには、たとえお前が親元へ帰ろうとも、着物や道具は一つもやらないと申しますと、この家を出るからには、着物や道具など惜しくないと申し捨てて、大洲へ参りました。

*坐奉行:座席の手配をする人のことであろう。

*里:むかしの距離の単位。約4キロ。

                                 (つづく)

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(5)

 同二十六日朝説法

二十六 どなたも仏に成りたいとお思いになって、このように早くからこの集まりへおいでになるのは、もっともな心掛けでございます。このたび仏に成らなければ、万劫のあいだ仏に成ることができません。人間界に生まれましたのは仏になるためでございます。このたび誤って地獄に落ちますれば、苦しみよりもさらに苦しみの罪を受けて、流転する事でございます。よく納得なされませ。世間の悪賢い者が申すことでございますが、この身が終わってのち地獄があるの、極楽があるのと言うがそれは今の人をおどすためじゃなどと、何の考えもなく、まことの仏道の話であるとは微塵も知ることのない者が申すことでございます。もし釈迦の説法でさえ欺くような人があって、この人が地獄も極楽もないと申すならば、もしそれはそうでもございましょうと申されましょうが、賢い口をきくばかりのことで、そのような事を申すのは、大きな間違いでございます。

 まず釈迦は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚)に六神通*を獲得なされ、その場に居ながら地獄や極楽を見分けられ、この仏法を広くお説きになり、今に伝えてさまざまな経典があるのでございます。何の学問をすることもなく、仏も仏法もわきまえずに、仏法を無いものにする事は、譬えて申しますならば、夏に生まれて夏に死ぬ虫が、世間は常に暑いものだとばかりに理解しているようなもので、仏道を心がけ、学問をもし、仏法をわきまえるということもないのであれば、夏の虫が多くを知らないようなものでございます。お釈迦さまは、未来まで申し伝えるような、本当はない地獄や極楽のことを、本当にあるものだと説法なさるはずがあるでしょうか。仏ご自身に何の得るところがございましょう。せめて悪賢い人が、その人だけ、地獄は無いものだ、極楽もないものだと思っていればよいことでございましょう。確証もない事を説いて人に語り聞かせ申す事は、第一に我慢偏執(がまんへんしゅう:驕り高ぶり自分の考えにこだわること)と申すものでございます。これはどうもこうも言えません。悪人の凝り固まりというものでございます。

*仏や菩薩が持つ六種類の神通力。

 このような者に限って、自分をひいきするものが少しの芸をもっていたりするのは、たまたまその事が得意で上手であるというもので、世間にはこうした者が多くおります。これは大きな間違いでございます。人をほめるのに、人が喜ぶようにほめ、人の喜ばしいことを聞きましては、自分の嬉しいことの降りかかったように喜ぶのこそ、世間の道であるべきでしょうし、不生の心持とも言えましょう。見ること聞くことに我慢偏執があっては、備わっている仏心を地獄としてしまいます。まして仏道にけっして疑いをお起こしなさいますな。その疑いから後世(死んで次の世)を無いものとみなして、仏心を失ってしまい、悪人となって、身をひいきし、ついにそれが表れ、縛られ、くくられて、磔や獄門にかかります。これは親への不孝というものでございます。

 親は仏心を産み付けましたのに、その仏心をついは修羅道に変えてしまうのは、さてさてながかわしい事でがざいます。親は子が成人して悪人になれと思う親はございません。しっかりと我が身を正しくしなければ、孝行とは申されません。どなたも今日から覚悟なさって、さてさて親の恩ほど有難い事はない、西東をも知らないこの身を知恵のつくまで養い育て、仏とも仏法とも知らない身に、このような有難い事を聴聞させ、この不生の仏心であることを納得するのは、ひとえに親のおおいなるご慈悲であると尊敬なされませ。これがすなわち孝行というものでございます。孝の道にかなえば、そのまま仏心でございます。これは孝行の心、これは仏心だと、二つ三つの心があるのではないのです。ただ、すべてよく一心でございます。腹を立てる事、惜しい、欲しいといった我が身のひいきを離れ、召し使う者であってもつらくあたらず、憐れみを加え、たとえ給料や報酬をやる立場でも、打ち叩いたり、道に適わないことを行うのは間違いでございます。身分の低い下人だといっても特別に違う他人だとは思わないのがよいのでございます。まったく目の前の我が子が自分の気持ちに従わず、もしその従わない子が他人ならば、どれほど腹が立つでしょうか。我が子と思えば我慢するのは、我が子にはどれほど悪いことを申しつけても、もともと親子ですから、深い恨みにもなりませんが、召使の者は他人ですから、我が子の恨みとは違いがあろうというものでございます。今まではこのような道理をお知りにならなかったので、怒って人を叱り、胸の内を騒がせるのは大きな誤りでございます。この仏心である道理をお聞きになった上は、これ以後は損なわないのがよいのです。このように申すからといって、下々の者に頼まれたわけではありません。一般に世間には何でも物を投げるような人がいるものでございます。

 

 

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 下」(4)

 ですから今日から、男は男の仏、女は女の仏でございます。この女の仏ということについて、女は仏にはならないものだというので、ご婦人方は切なく思われるというが、さてさてそのような事ではございません。男女にどのような違いがありましょうか。男も仏体、女も仏体、けっしてけっしてそのような疑いを持たれないのがよいのでございます。この不生の道理をとっくりと納得されれば、男も女も、不生に違いはございません。みな仏体でございます。もしも女は仏にならないと言って分け隔てをするなら、私が皆さんを偽って、女は成仏しないと嘘をつき、この大勢の方々を迷わせ、私に何の徳になりましょうか。女は仏にならないという事実があるのに、私が確かに成仏すると偽り、各々へ申し聞かせ、どなたよりも先に地獄に落ちまする。私は仏になりたいと思ったからこそ、若い時から修行をしたので、今皆さんを偽ってその罪により地獄へ落ちたいものでございましょうか。ご婦人方はここをよく聞き分けられて、今日からたのもしくお思いなされ。このことにつけ、私が去年備前の国(今の岡山県南東部)へ参り、説法をしたとき、備中の国(今の岡山県西部)の丹羽瀬(にわせ)という所の町人が四五人連れ立って備前に説法を聞きにまいりられました。そのうち二人はご婦人でありました。そのご婦人のうちの一人が私に知らせを寄こして言うには、少し尋ねたい事がございますが、説法をなさっている時では女が差し出がましく思います。内緒で申し上げたいのですと申し込まれましたので、何でもない事と申してやりましたら、ある時、四五人づれでまいって知人となり、そのうちご婦人一人がお尋ねになられたのは、私は丹羽瀬という所の者でございます。世渡りも人並みにしております。男に添いましたが子どもはありませんで、しかし先妻に男の子が一人ございます。これの世話を致しますが、成人しまして、この子が実の子のように孝行者でございまして、実の子がないこともつらくはございませんが、ここに一つの嘆きがございます。子供のない女は後の世(死んだあとの世)のことを願いましても、仏にならないと申しますので、御出家の方々にお尋ねいたしますと、女は男と違って成仏はし難いと仰せられます。そうすればこの人間界に生をうけ、仏にならない女に生まれる事は、さてさて人の世に生まれたかいもない事だと、朝夕嘆かわしく思うのでございます。このことが思い煩いとなって、最近はこのようにやせ衰えてしまいました。さては尊い御出家にお会いし、確かに女は仏にならないのかという事をお尋ね申したく思いました。そんな折にこのたび和尚様がここへお出でになり、ご説法があるということを承り、幸いと有難く思い、いよいよ子供のいない女は成仏できないかということをお尋ねしました。また連れの者が言うには、この人の言う通りで、子どものいない女は成仏できないとお聞きになってから、朝夕このことが気がかりになり、最近はぶらぶらと煩い、このように見る影もない姿になられました。それで世間には子供のない女は大勢いますけれども、これほど後の世をお嘆きになる人はおりません。この方は仏になれないことを、ひたすらお嘆きになられ、御覧のようにこんな浅ましい姿になられました、と語りました。今日はよい機会ですので、このことを申し上げます。

 このご婦人に私が申し上げたのは、子どもがいない者は仏にならないという事は聞きません。子どもがいない者が仏になる証拠には、私などの祖師たちは達磨大師からあと、代々仏法を伝えて私に至るまで、子どもを持った者は一人もおりません。それだから禅の祖師たちや達磨大師が地獄に落ちられたということを聞かれたことがございますか。このご婦人が答えて、それはたとえ子どもがないとしても、祖師様であり、和尚様でいらっしゃるので、どうして地獄へ落ちられることがございましょう。どなたもが仏様でございます、と。それであれば、子どものいない女でも、男女ともに仏心が備わっている身の上で、後の世を願っても仏にならないということがありましょうか、と申しますと、このご婦人は、それは有り難いことでございますが、女の成仏は難しいと承って、これが胸につかえているのでございます、と申されました。それならば、女の成仏が多いことを申しましょう。釈迦の時代には、八歳の龍女、唐(中国)では霊照女、日本では当麻の中将姫、みなこれらの人たちは女の身でありながら、仏になりましたと申し上げると、そのご婦人はとくと納得され、さてもさても有難いこと、日ごろの嘆きはただいま晴れましたと申されました。その後、備前にしばらく逗留なされ、たびたび説法をお聴きになり、逗留している間、はやくも食が進むようになり、顔色もよくなられたのでございます。お連れのみなさんも、この方のご快復の様子を見て大変驚き、なんと嬉しい、有難いことかとことのほかお喜びになられました。女の方でもこのような志を起こし、この世の煩いとなさるのは珍しいことではございませんか。

 そしてまた、悪人と言えども、不生の心をなくすわけでもありません。悪人であることをひるがえせば、そのまま仏心でございます。悪人といっても不生の心のあることを申しましょう。たとえばここから高松へ二人が道連れで参るときに、一人は善人、一人は悪人で、この二人は善いとも悪いとも思わず、道すがら様々な話をして行き、その道中に何かあれば見ようとも思わず、道の左右にある物が、善人の目にも悪人の目にも同じように見え、あるいは向こうから牛や馬が来れば、善人も悪人もよけて通る。前々からそのような心づもりはしていないけれども、やってくれば、話をしながら両人ともよけて通ります。とぶ所があれば、両人とも飛び越えるし、川があれば渡るし、このようなことは前々から心づもりがあるわけでなく、善人はよけて通りもしましょうが、悪人はかえって心づもりがなくては善人と同じようにはなるはずがないのだけれども、善人悪人ともに少しも変わりません。これはつまり悪人でも不生の仏心が備わっている印でございます。皆さんも今まで、惜しい、欲しいといった様々な念、怒りや腹立ちを本心となされた悪人であることで、仏心を修羅餓鬼道に変えてしまい、流転なさいましたけれども、今日私のこの道理をお聞きになって、これをじっくりと納得されれば、惜しい、欲しいの心がたちまちに不生の仏心になります。永劫の未来までも、もはや、この仏心を失わないというものでございます。けっしてけっして、このたびこの仏心を失ってしまうと、万劫億劫という長いあいだ仏にはなられませんから、よくよく納得されるのがよろしいのです。私は奥へ入ります。皆さんもそろそろお戻りなされよ。