2019-01-01から1年間の記事一覧

盤珪禅師「盤珪仏智弘済禅師御示聞書 上」(1)

*底本:鈴木大拙(編校)『盤珪禅師語録 附 行業記」岩波書店、1941年〕 *〔 〕底本編者による補足、( )は底本編者の挿入、[ ]はブログ主による補足を表す。 *はブログ主による注釈。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 盤珪仏智弘済禅…

至道無難禅師行録(4=終わり)

師は、常に人に示すのに、多く和歌を用いて、言った。 心より外に入るべき山も無し 知らぬ所を隠れ家にして (心のほかに入るべき山もない 知らないという所を隠れ家にして) 知れば迷い知らねば迷う法の道 何が仏のまことなるらん (知れば迷い、知らなくて…

至道無難禅師行録(3)

師は、皆に示して言った。わずかでも人に与える仏法があるのであれば、全くの誤りである。これを習い学ぼうとする者に至っては言うまでもないことだ。世の人は、なぜ末法となるのかを知らない。釈迦如来の大いなる仏法は、二千年余りを経て我が国に伝わって…

至道無難禅師行録(2)

すぐその日に髻(もとどり)を切り、髭と髪を洗って、自ら国師の前にひざまずいて言った。私は長い間、機会を求め、幸いに世俗の塵を脱します。出家する時が来ました。どうかお慈悲を頂かせてください。国師は笑って得度させ、名付けて無難とした。これより…

至道無難禅師行録(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 開山至道無難庵主禅師行録(原漢文) 〔底本…

至道無難禅師「雑集」(2=終わり)

〇細川氏所蔵法語一軸 ある人が地獄について尋ねた。私は言った。あなたが身に責められる時を言うのだ。極楽について尋ねた。身の責めが無い時を言うのだ。仏について尋ねた。心身ともに無し。彼はいった。死人と同じではないか。私は言った。生きながら死人…

至道無難禅師「雑集」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「大村氏所蔵法語及書簡等」

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「相川氏所蔵法語及書簡等」(3=終わり)

〇 一、仏の道は、まちがって修行なさると、きちがいになるものでございます。 一、▢▢*あらゆる事柄にかかわらないのがいいといって、身の上が崩れるのも知らない。 *▢▢には文字が入るが、判別不能のため、底本では欠字になっている箇所。以下、推測可能な…

至道無難禅師「相川氏所蔵法語及書簡等」(2)

〇 一、大悟(たいご、深く悟ること)すれば、大悟はない。祈って祈るものなく、喜んで喜んでいるものがない。生きて、生きているものがなく、死んで、死ぬものがない。あるものもなく、無いものもない。姿はありながら、姿もなく、有無を越えて有無にまかせ…

至道無難禅師「相川氏所蔵法語及書簡等」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(5=終わり)

八十七、 たくさん人を使う人に 身を思う人をあたりへ近づけな 主(ぬし)も親をも殺すものなり (自分の身を思う人を近辺に近づけるな 主人も親をも殺すものである 八十八、 慈悲について尋ねた人に 思い立つ慈悲をわが身に破られて 畜生となる後いかにせん…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(4)

六十三、 いろいろと苦しむ人に 何事も修行と思いする人は 身の苦しみは消え果つるなり (何事でも修行と思ってする人は 身の苦しみは消え果るのである) 六十四、 徳山(とくさん)*について 天地(あめつち)の外まで満つる一棒に 仏さえなくなりにけるか…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(3)

四十一、 大法を理解できない人に あきらけき仏の道に入り得ずば ただ怠らで願え後の世 (賢明な仏の道に入ることができないのであれば ただ怠らないで、死んで後の世を願いなさい) 四十二、 心の鬼を問う 世の中の人は知らねど罪あれば わが身をせむるわが…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(2)

十六、 道を問う 鶯の子はまがいなきホトトギス 何とて声の別に鳴くらん (鶯の子はまぎれもなくホトトギスである* どうして別の声で鳴いているのであろうか) *ホトトギスは自分の卵を鶯の巣に産んで鶯に育てさせる習性があることを言う。 ここでは、苦し…

至道無難禅師「無難禅師道歌集」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(4=終わり)

若い僧に、善と悪は同じか、同じでないかと問うたところ、口を動かそうとした時に棒で打って、どんな邪正があるか、と言うと悟る。 お経を研究するある僧が、悟りはまったくない。せめてお経を読んで助かりたいと言ってお経を広げたのを、引き取って、そのお…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(3)

真実にかなった問いをした人がいた。私は教えて言った。その問う主(ぬし)は誰か。彼は言った。知らない。私はまた問う。その知らないものは誰か。彼は言った。何も無い。また言う。いろいろと変わるものは誰か。彼は言った。もとは何も無いものである。私…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(2)

我が禅宗の根源は、本来のところを究めて、自分の身を正しくすることである。 ある時、達磨の絵を持って来て何か書けと言ったので いかにしてこれほど嘘を付きぬらん さりとてはなき悟りなりしを (どうしてこれほど嘘をついたのだろうか 悟りといっても、ほ…

至道無難禅師「龍澤寺所蔵法語」(1)

*〔底本:公田連太郎(編)『至道無難禅師集」春秋社、昭和31年〕 *〔 〕はブログ主による補足。 [ ]は底本編集者による補足を表す。*はブログ主による注釈。原文はひらがなが多く、以下はあくまでもブログ主の解釈です。 ーーーーーーーーーーーーー…

至道無難禅師「自性記」(11=終わり)

一、老婆にあう。本則*に取り組まれているとのこと。則は何ですか。お婆さんが言う。「阿誰(たそ)」**です。私がよく教えましょう。お釈迦さまも弥勒菩薩もすべて使うものがあります。こちらにおいでなさい、と言うと、お婆さんはそのまま近くに来た。…

至道無難禅師「自性記」(10)

一、孔子は「私の道は、一つのことがこれを貫いている」*とおっしゃっている。心は天地に通貫するということである。仏法でいう「摩訶般若(まかはんにゃ)」**のことである。 *『論語』に出る言葉。 **「摩訶般若」:魔訶は「偉大な」般若は「知恵」…

至道無難禅師「自性記」(9)

一、ある人が尋ねた。生きとし生けるもの、その姿かたちはいろいろであるが、本来決まった根源があるのだろうか、と。私は言った。根源がある。心は天地一体である。彼が言う。一体である印は何か。月を見、花を見、鐘を聞く、誰か違いはあろうか。これが一…

至道無難禅師「自性記」(8)

一、「その気持ちを誠実にしようと望むものは、まずその知を達成する。その知を達成するというのは、物を究明することにある」というのはどういう事か。私は言った。これは、確かな教えである。「物にいたる(物を究明する)」と言ったのは、極意である。本…

至道無難禅師「自性記」(7)

一、修行を深く思って、厚くみることによって誤りが多い。本来空を知らねばならない。心の念を払い尽くしたところである。六祖大師は、菩提(ぼだい)の自性(じしょう)(悟りの知恵を備えた自分の本性)は、本来清らかなもの、これを用いて、じかに悟って…

至道無難禅師「自性記」(6)

一、先日のこと、ある一国の大名に仕える侍が、百姓の代官をしていたのだが、急に死んでしまった。妻子が嘆く様子は耐え難いものであった。特に、金銭の出納をどうしようかと苦しんでいた所に、若い下女が急にものにとり憑かれたようになり、亭主の座るとこ…

至道無難禅師「自性記」(5)

一、ある時、人を待っていたが来なかった。どういうわけだろうか。 一、ある時、待っていた人の事を強く心に思っていたが、急に忙しい用事が出来て、待っていることを忘れていたら、その人が来た。 人を待っているのに来ない。人を待たないのに来る。このよ…

至道無難禅師「自性記」(4)

一、ある世捨て人が語ったのだが、加賀の国(今の石川県の一部)の宮ノ腰(金沢市犀川河口の金石港の旧名)を通ったとき、ある所で宿を借りた。亭主がいろいろと話して、夜になり、帳(とばり)の向こうで、むくむくという音が二三度したので、亭主に聞いて…

至道無難禅師「自性記」(3)

一、ある人が求めるのにまかせて、語った。 本来無一物は、如来である。常に用いなければ大いなる悪念となる。常に用いるときには大慈悲心となり、あらゆる事柄に対応してどこまでも円(まど)かで明らかである。物に対応するときに円かな心になれば、如来が…

至道無難禅師「自性記」(2)

老いの波が打ち寄せて来て、世間でも稀な年齢になった。夜、灯火のもとで昔のことを思い起こすと、私の友人は世を去ってもはや一人もいない。今夜にでも私もそうなる身の上であろうか。多くの人を見聞きしてきたのでその事を書き付けました。言葉の足りない…